「第3章 1950年代以降-国際的な舞台へ」のコーナーに入る前に、ちょいと逡巡した。自分が現代の作品をどこまで理解できるか、理解できないとしても「心に残る」「惹かれる」という感性があるか、不安になった。
現代の絵画作品を見に行くときはいつもこんな緊張感がある。自分が時代というものについていけているかどうか、試されているような気がするのである。
解説では1951年の第1回サンパウロ・ビエンナーレで銅版画の駒井哲郎と斎藤清が活躍したときから戦後の木版画が国際的な評価を受けたとある。
木版画の技法が他の銅版画などの技法と組み合されたり、独自の技法を進化させたりと表現も技法も開花した時期らしい。木版画の特徴として「彫刻刀による力強い線、素朴で温かみのあるマチエール、ぼかしや多色刷りによる柔らかな色合い、版木の木目を活かした構成」が解説に書いてある。
私の好みで言えば、モノクロの作品が好きである。
そんな私がまず惹かれた作品は、笹島喜平という作家の「風ある林」(1959)と「不動明王№31」(1968)。私は戦後の作品を見るときには、その制作された時代は自分が何をしていたときか、というのを思い出しながら見ることにしている。この前者の作品は私が小学校3年で函館にいたとき、後者は高校1年で世界や日本での社会的政治的事件に自覚的に向き合い始めたころの作品である。
前者では函館の家の傍にあった雑木林の秋の風を思い浮かべた。冬の直前、枯葉が最後に舞う瞬間の厳しい寒さが似つかわしいと思った。枝の向きがすべて左に向いているのは、北国の厳しい季節風にさらされた樹木の様相である。大胆な線、黒と白の構成は具象から抽象へ足をチョイと踏み出したような感じもした。心の中を寒風がすり抜けていく感じは好きな構成だ。社会への違和感が強い私はこのように身体を風が、社会がすり抜けていく感覚というのをいつも持っている。
後者はこの時期から1973年ころまでの私自身でどうしても制御しきれなかった情念に似た怒りを彷彿とさせてくれた。この当時の、私の社会へのいいようのない違和感、社会からの疎外感、自分を表現しきれない焦燥感を思い出した。
戦国時代の武将の多くが不動明王への信仰を持っていたと聞いたことがある。不確かな記憶だが、武田信玄や上杉謙信などもそうだったらしい。ひょっとすると時代の大きな変わり目で、彼らも社会との関係で大きな違和感・疎外感・焦燥感・憤怒を持っていたのかもしれない。それが群雄割拠を制した「武将」としての存在根拠だったのかもしれない。
そんなことを思いながらこの作品の前でしばらく佇んでいた。
次に目についたのは恩地孝四郎の「日本の憂愁」(1955)、これは書籍の表紙となったものであるとこと。
私は4歳であり、この頃の記憶は函館に住んでいた時の幼稚園や近所の記憶しかないので、語ることはできない。ただこの版画は記憶にある。赤・青・黄の3色に黒・灰・白という単純な配色と恩地孝四郎独特のの局面は印象深い。初期の作品が奇を衒うような作品も含めていろいろ実験だったのだろうが、私はこの戦後の作品群に惹かれる。
斉藤清という方の作品は「奈良の秋む」(1979)、「秋の嵯峨 京都」(1974)の色彩に目を惹かれたが、あまり好みではなかった。私の年齢からみると1974年は就職1年前
、1979年は28歳、一番もがいていた時代である。私のこの時代にこのような世界があったことが私はとても想定できない。それはあくまでも私の経験だけから見た世界だからやむを得ないのだが、とても不思議な感じがした。
もとより私の鑑賞方法の限界である。私の個人史から外れてしまうと、途端に鑑賞できなくなってしまう。
ただし、風景も色彩もちょっと私にはおとなしすぎる。何かが物足りない、というのは素人の私の勝手な言い分である。
次に私が目をとめたのは星穣一いう作家の「無題」(1957)。これはとても惹かれた。灰色の二層に分けられたのは、海と空と月であろう。立っているのは海苔の養殖か何かの杭のように見える。太陽ではなく月であることが私には似つかわしいと思えた。この絵が今回もっとも気に入った。私が小学校に入学した年の作品である。このような情景にはこの頃は接していないが、川崎・横浜に移った1960年代以降、海や川・運河でこのような杭を幾度も見て育った。懐かしい風景のひとつである。
実際の色合いと、この図録の色合いはだいぶ違う。もう少し赤っぽい色彩であったような気がしている。スキャナーの所為でも、画像ソフトの所為でもない。
月と思われる天体の周囲の渦まく光の表現がまず私の眼を惹いた。続いて何の変哲もなく立ち尽くす杭が、静寂な海の中の豊穣な生命の活動をそっと伝えてくれている。月から海へ何者かの流れがこの作者には見えていると思われる。原始の生命が月の光に触媒されて活動を開始したような幻想をもたらしてくれないだろうか。そんな生命の象徴としてこの杭が静かに立っているのは何とも言えず魅力的である。作品はこの一点だけが展示されている。
清宮質文という作家も初めて聞く名である。この「月と運河」(1988)は私が37歳の時の作品になる。
一番もがいていた時から、ちょいと飛躍した年齢であったかもしれない。
強い意志を秘めた目を光らせているのはサメのような強い動物なのだろう。月に照らされた運河という情緒を暗闇の中に引きづり込もうとする獰猛さも感じる。
同時に飾られているほかの三点1972年、1974年、1979年という時代は先ほども記載したとおり、私が一番もがいていた時の私の心象風景のひとつでもあるようで、この三点もとても惹かれた。こちらも何かを見透かすような目が何と言い得ずに印象的である。蝋燭にも、屋根にも丸い点が描かれている。まるで眼である。見つめているのか、見つめられているのか、崩壊するかもしれない自我を見据えているのか、社会を見極めようとしているのか、いづれにしろ自他の関係が危機に瀕している。そんな世界を描いている。
とても親近感のある作家と感じた。
吉田穂高の作品はこの一点がいい。黒く塗りつぶされた道路が画面の半分を大きく占め、日の当たる家の下で日陰に立っている日の当たらない家、孤独の影を感じる。私が39歳の時、このような孤独の中から這いだした思い出がある。社会からの孤立、社会への違和感から一歩踏み出した自分を自分なりにどう始末をつけるか、当時を思い出させてくれた。
「第4章 現代-新たな木版画の表現へ」は4人の現代作家の作品が集められている。私が訪れたとき、その内の湯浅克俊氏のトークがあった。まず湯浅克俊氏の作品は、この「3:05 am」(2013)。昨年の作品である。
とても細かい。このように細部まで念を入れた作品が私は好きである。このような静かな雰囲気の人間にはなりたいと感じている最近の私である。現代の作家が細部にこだわらずにいるのはとても気になる。いや気に入らない。
そしていろいろな表現に果敢に挑戦している様子も聞くことができた。「微妙なグラデーション」の細部にこだわり続けるところに敬意を表せざるを得ない。
デザイン性とは大きく一線を画して、作品を発表し続けているらしい。
この湯浅氏とは逆にひとつの技法にこだわり続けているのか、こちらの桐月沙樹氏なのかもしれない。デザイン性豊かな似たような作品を執拗に描いている。
作品は「ナミマノダンサー」(2011)という名の作品である。私の60歳の還暦の年に出来上がった作品である。
躍動感は嫌いではないし、自分自身も新しい世界に飛び込んでいきたいのだが、私自身はあまり浮かれた高揚感に惹かれるのは抵抗がある。
この両者の微妙なバランスに我々は守られていると思えば、受け入れ可能かもしれない。
こう語ってみると意外と1970年代以降の作品に対してもそれなりの感想を持つことが出来ている。正直ホッとしている。
当然頓珍漢な感想が大半かもしれないが、それはそれで構わない。何の感想も感慨も湧かない方が深刻な事態である。「現在」を受け入れられない自分というのを突きつけられるのだから。少なくとも時代の先端で表現しようとしている人と意志の疎通ができるということは、時代とともに生きているということは言えそうである。
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