Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日から師走、とはいえ時間の感覚が‥

2016年11月30日 22時41分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほどようやく帰宅。日付の変わらないうちに帰宅出来た。東京都内で呑むと、そしていつもの仲間と5~6人で呑むと、24時を回るか回らないかということがある。情けない年寄りの集団である。他の客に迷惑はかけていないと思っているが、思っているだけで実際のところは何とも言えない。つい声が大きくなって煩いと思われている可能性は大きい。
 いつものとおり私は横浜駅で降りてからは30数分かけて歩いてきた。それなりに酔いは覚めた。歩きながら500ccのウーロン茶を飲み、家でさらに熱い煎茶を2杯ほど飲んで落ち着いた。お酒を呑んだ後にウーロン茶と煎茶は欠かせない。特に夏に飲む冷えたウーロン茶は喉と食道に心地よい。

 以下、とりとめのない、そしてまとまらない思いをだらだらと‥。

 飲みながら「明日はもう12月、早いもんだな」という感想をみんなが述べていた。私は同意も反論もしなかったが、みんなとはちょっと違った感想を持っている。
 現役の頃は確かに「もう年末、師走だな」という感慨が多かったが、退職後は「もう年末」という気持ちとも、「まだ一年が終わらない」ともちがう。割と自分の脳内の時計、体内時計と物理的な時間の流れに差がない。もう334日経ってしまった、あるいはまだ365日経たないのか、という感慨がわいてこない。この感覚は退職後5回目の年末であるが、あまり変わらない。友人と話をしていても特に相手感覚に異論はない。異論があっても感覚の問題なので議論にはならないので、頷いているだけである。
 生まれて初めて日記をつけるような感覚でこのブログに毎日記事をアップしているからなのか、「仕事」を離れて「責任」がなくなったからなのか、原因はまったくわからない。時間の流れに感想を述べること自体が興味の対象でなくなったのかもしれない。
 気にならないことは、気にしない方がよさそうなので、あえて時間にこだわらずにこれからも息をし続けたいと思っている。
 ただし、正月を迎えると「今年はもう〇〇歳になるのだな」という感想は重く頭に湧いてくる。来年は66歳である。あと何回、意識がはっきりして正月を迎えられるのか、切実になってきた。そういった意味では、正月になるのを厭う気持ちは毎年強くなっている。それが「もう年末」という感慨の根拠なのだろうか。そこらあたりはどうもよくわからない。

本日は外呑み

2016年11月30日 14時59分15秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はだいぶ寒いようだ。南西の方向に本の申し訳程度に青空が見えるが、残り98%は厚い雲が空を覆っているように見える。風は弱いものの北風。気温が昼前で12℃未満。昼以降気温は上がっていないと思われる。東京に住んでいると昼間でこの気温はとても寒く感じる。
 これから横浜駅経由で国会まで。17時集合なので、書店と家電量販店を一巡してから駅構内へ。本日は外食。できれば家で食べたいが、遅くなってからの食事はしたくないし、妻にも迷惑がかかるので、断念。ついお酒を飲み過ぎてしまうのが体にも、財布にもよくないことは分っているのだが‥。


「シベリウス・リサイタル#2」(渡邉規久雄)

2016年11月30日 11時53分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 2007年10月の東京文化会館小ホールでのリサイタルの録音盤。#1が2003年であるから、4年後に開催されている。4つの作品集を#1の最後に収録されていた「10の小品」(作品24)の残り5曲が3つ目に収録されている。
 この4つの作品集はどれも変化に富んだ構成で、魅力的である。私は#1よりもこの#2の方が好みである。おのずと聴く回数も多いと思う。
 「10の小品」は#1に含まれているのも合わせて、私には特に優れた作品集に思える。10曲は特に関連はなく、独立して出版されていた曲を集めたらしい。解説にあるとおり第1曲の「即興曲」はシューベルトの「魔王」のような出だしで印象深い。第6曲の「牧歌」がいい。
 最初におさめられている「6つの小品」(作品94)は、リサイタルの始まりにいい曲なのだと思う。第1曲「踊り」、第2曲「ノヴェレッテ」ですぐにピアノの世界に引き込まれる。
 また最後の「5つの特徴的な印象」(作品103)は晩年の作である。ピアノの5つの表情が広がる。ひとつの曲集の最後「悲しみに沈んで」という葬送行進曲風に締めくくられ、リサイタルで最後に持ってきているのは、余韻があって私には感銘深い。


   

イチョウの落葉

2016年11月29日 23時14分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
   

 本日は午後に買い物で横浜駅まで歩いて往復。途中の公園でイチョウの落葉を20枚ほど拾ってきた。水洗いしてから2日ほど乾燥させると、虫よけになるということをブログで教わった。
⇒【言葉の泉
 帰宅後早速水洗いして新聞紙の上にひろげた。イチョウの葉というものが木によってこんなにも大きさに差があるのかということ、そして大きいものは横幅が13センチに及ぶということが初めて分かった。これまで見ることしかしていなかったが、遠目では桜の葉よりも小さいと思っていた。実際に手に取ってみるということの大切さを改めて実感。我が家のタンスで防虫剤と本のしおりにでもしようと思っている。
 夜には「シベリウス・リサイタル#1」を聴きながら、読書タイム。先ほど気分転換に団地の周囲を5000歩ほど歩いてきた。
 風が強めで、とても寒い。21時半から22時過ぎまで歩いたが、この時間ならばジョギングをしたり、私のように速歩を楽しんでいる人がそれなりにいる。私と歳の変わらない夫婦もいた。毛糸の帽子をかぶって走っている人もいた。
 明日は夕方から国会での集会に参加予定。カメラと腕章を忘れてはいけない。

「図書12月号」(岩波書店)

2016年11月29日 20時39分18秒 | 読書
 本日セキセイインコの餌が20%引きということで、横浜駅近くのスーパーまで出かけた。帰宅してみると「図書12月号」(岩波書店)が配達されていた。先ほどまでこれに目を通していた。目をとおしたものは、

・表紙解説「ミラクルクラウン」               (伊知地国夫)
・「重ね書きされる戦争」                  (日高昭二)
・作家的覚書「もう後がない」                (高村薫)
・「軍の命令か、医の倫理の逸脱か」             (熊野以素)
・フーテン老人世界周遊記5「遠い道を歩いてゆく人たち」   (色川大吉}
・美術館散歩12「夜の画家ラ・トゥールのグレア効果」    (三浦佳世)
・「こころ論」-語られざる「遺言」「「将来」を感じる」     (若松英輔)

15編中の6編。このうち残念ながら伊知地国夫氏の科学写真、色川大吉氏の「フーテン‥」、「作家的覚書」は本号での連載は終了。高村薫氏の「作家的覚書」は来年3月に岩波新書として刊行予定とのこと。き

 今号、奇しくも日高昭二氏、高村薫氏、熊野以素氏の共鳴し合う3編となった。
 「『大阪の陣 近代文学名作選』を編んでみて、四百年前の「合戦」が、帝国日本の「戦争」とさまざまに重ね書きされていることにあらためて目を瞠った。‥坂口安吾の「狂人遺書」(S30)では、先の大戦で外地に残された兵士をすぐに帰せという安吾自身の遺言が重なっている。‥田中英光の「桑名古庵」(S22)では、合戦の敗者がその後の社会を生きる困難さが語られる。それが、「戦後」を生きる人々の姿に重なっていて胸を打つ。重ね書きする/される場を措定することで、いっそう複合的に見えてくる近代の戦争-探求の余地は、まだまだある。」(「重ね書きされる戦争」、日高昭二)
 「いま私たちの眼前に広がっているのは、熟慮を欠いた野蛮な欲望が急激に支配的になっているせかいではないか。私たちはシリアの空爆をなぜ止めることができない?少し前までなら国際社会は何としても停戦や空爆停止の合意にこぎつけていただろう。‥アメリカや中国やロシアはそれぞれ自国に都合のよい理屈を蹴散らして物事を強行し、日本をはじめ世界じゅうの国々がそれに追従する。正義や公正ではなく、当面の損得や不作為を優先して論理を無視することが広く当たり前になった世界の一角に、沖縄の米軍基地、高速増殖炉《もんじゅ》の廃炉、福島第1原発の汚染水処理、まもなく満期となる日米原子力協定と核燃料サイクル事業の行く末、はたまた天皇の生前退位のための法整備などの諸問題が連なっている。‥無理が通れば道理が引っ込み、次々に整合性を失って破綻してゆく物事は、一時的な辻褄合わせが施されても、最後は放置されるほかはない。集団的自衛権行使の最初の一歩とするために、PKО5原則を無視して南スーダンに派遣されている自衛隊はまさにその例である。」(作家的覚書「もう後がない」、高村薫)
 そして「「軍の命令か、医の倫理の逸脱か」、熊野以素」は次のように始まる。「終戦直前の一九四五年春、名門大学医学部で行われたおぞましい「実験手術」により米軍捕虜八人が殺された。当時九州帝国大学医学部第一外科助教授であった鳥巣太郎はこの生体実験に抵抗し、四回あった手術のうち参したのは最初の二回であった。しかし戦後に行われた占領軍による「横浜裁判」で、自殺した石山福二郎教授の身代わりに首謀者とされ、死刑判決を受けた。‥(鳥巣の)妻・蕗子はさまざまな妨害を跳ね除け、必死の再審請求を続ける。」「『九州大学生体解剖事件-70年目の真実』(岩波書店)で描いたのは、生体実験の真相とそれを隠蔽し、助教授鳥巣に一切の罪を押し付けようとする弁護団の陰謀、戦犯裁判の実態、「そしてとめられなかった」責任に正面から向き合う夫と、夫を詩の淵から救い上げようと闘う妻の姿である。鳥巣の姪(蕗子の妹の長女)である筆者が書きあげたノンフィクションである。」現在の九大医学部長や、事件の関係者や遺族を巡る旅の最後に筆者は沖縄までたどり着く。詳細の引用は省略させてもらうが、最後の沖縄での見聞について、以下のように記している。集団自決のあったチビチリガマの前で「洞窟の前には右翼グループが異例の像を破壊した事件の跡もある。集団自決の悲劇を打ち消そうとする書き込みがある。日本の行った加害行為を必死で隠そうとし、侮辱まで加える。本土の残酷さ。」「四月の沖縄で、また事件が起こった。日本政府は県民の日米地位協定の抜本的見直しの要求に耳を貸そうとしないばかりか、辺野古の埋め立てを強行しようとしている。そこでは戦争は終わっていなかった。」と結んでいる。
 71年前の戦争はまだまだ終わっていない。戦争責任も曖昧のまま、今当時の国家主義思想を無批判に評価する政治思想が跋扈している。イラクからの帰還した自衛隊員には多くの自死があるという。そしてまた南スーダンへの派遣が強行されている。先頭による直接の死や、間接的な死、心身に受けた深い傷、いづれにしてもその一人一人の死の重みに、戦後71年の今もまだ拮抗できていないのが、日本の戦後ではないだろうか。

 色川大吉氏は「連載は今号で終わるが、まだまだ続く旅の分には原稿枚数の制約を受けず、のびのび叙述を楽しみ、連載とあわせて近く一書にまとめたい」とあり、近いうちの刊行を楽しみにまつことにしよう。

 ラ・トゥールの「新生児」に題材をとったグレア効果に関する三浦佳世氏の文章は、とても勉強になった。この「新生児」を素材としたダリの「シュールな時計の看護」の理解の端緒も示唆されている。この連載は続くようだが、いつかこの連載がやはり一書になるとありがたい。

「シベリウス・リサイタル#1」(渡邉規久雄)

2016年11月29日 11時35分57秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 随分ぐっすりと睡眠をとった。昨晩は3度寝。最後の睡眠は3時過ぎから8時半まで。最初と二番目の睡眠はいづれも1時間と少しずつ。あまりいい睡眠の取り方ではなかったが、途中のお風呂が良かったようだ。



 午前中にかけているCDは渡邉規久雄のピアノ独奏によるシベリウス・リサイタルの最初のCD。2003年6月の東京文化会館でのライブ録音である。いまからもう13年半前になってしまう。この第1集を聴いた時にはこのように息の長いライブとなることは私などは理解していなかった。
 さて最初の「キュリッキ-3つの抒情的小品」(作品41)からすっとシベリウスの世界に引き込まれてしまう。これはいかにも劇的要素の強い19世紀に民間説話を集大成して作られたフィンランドの叙事詩「カレワラ」を題材とした作品である。ただし散らばっている説話をひとつの叙事詩として再構成・創作されたもので、「説話集」「口承集」ではない。再構成したことを除けば作者である医師エリアス・リョンロート(1802-1884)の創作部分は「約5%」といわれる(Wiki)。略奪婚あり、婚姻後の男女の契約あり、なかなか興味深いものがあり、一読はいつかはしたいものである。
 聴いたことのある曲は「フィンランディア」のシベリウス自身によるピアノ編曲版、「5つのロマンティックな小品」(作品101)から第1曲「ロマンス」。
 最後の「10の小品」(作品24)からの5曲は私の好みである。第10曲の「舟歌」は印象的である。地中海に面したヴェネツィア風の舟歌とは違って、最初に激しい要素も含まれる。後半はゆったりした船の揺れのようになるが、海の色の違いをそれとなく感じる曲想である。

      

偏屈ついでに

2016年11月29日 02時45分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今晩二度目の目覚め。酔うと眠りが浅くなる。1時近くになってから目がさめて、先ほどぬるいお風呂でさっぱりしてきた。

 私は酔いが一定覚めた段階で、無性にぬるいお風呂に入りたくなる。湯の温度はだいたい39℃くらい。今の季節は洗い場に小さなマットを敷いて、血圧の上下を少しでも緩和するようにしている。

 先ほど、痴呆症の診断についてテレビを見ていたことを記載した。
・芸能・スポーツ・ドラマ・バラエティ・歌番組などは見ない
・新聞もほとんど読ままい
・人のいうことは聞かない
となると、ほとんど現実への関心をなくして危険な状態と診断するらしい。

 しかし私はニュースはパソコンで取捨選択し、新聞の文化欄や論評もかなりそこで手に入れることにしている。さらに時事的な必要情報は書店の月刊誌や週刊誌の立ち読みでまかなうことにしている。
 妻には、介護施設に通うようになったり、入所するようになっても「みんなと一緒歌ったり踊ったりを強要すると逃げ出すか、あばれだすかもしれないので、古典文学や、鉛筆と紙と辞書を与えて、部屋の片隅に放っておいて欲しい」と介護職員に伝えるよう頼んでいる。自分で判断出来なくなる前に、希望する本を指定しておいた方がいいかもしれない。
 妻からは「そんな気むずかしい、偏屈な老人は、扱いにくいと嫌われるよ」と警告を受けている。そういわれても、いやなものはたぶん最後まで嫌いだと思う。

 自分がどんな老いを迎えるか、誰も分からないのだが、私の場合、妻にはだいぶ負担をかけてしまいそうである。今は半分冗談で済ましているが、とても申し訳ないと思う。それを防ぐ手立てはないものだろうか。

ぬるめのお風呂

2016年11月28日 23時13分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は先ほどブログを更新した直後に、お酒が効いてきて寝てしまっていた。どういうわけか今しがた目が覚めた。恥ずかしながら、目が覚めた時、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。電車の中で乗り過ごしたか?と想ったりもした。すぐに小さな灯りの向こうに見慣れたカレンダーがあるのがわかり、自分の家だと合点してホッとした。
 呑むのが少し早すぎたのかもしれない。もう少し酔いを醒ましてから、ぬるいお風呂で体を温めて明日の朝までじっくりと寝たい。

 昨日の閲覧者数が325とだいたいいつもの数だったのに、閲覧数が12622と今まで記録したことのないとんでもない数値が記録されていた。時間ごとの閲覧数や記事ごとの閲覧数を足してもそんな膨大な数にならない。間違いであってほしいとは思うが、とても気味の悪い数字である。
 明日午前1時ころにまた本日の閲覧数と閲覧者数が明らかとなる。これを見てから再度判断したい。

 さて、明日は特に予定がない。

意固地な年寄の意固地な思念

2016年11月28日 21時24分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝から出かけ、今ようやく帰宅。東京駅の構内の店で生ビール1杯と日本酒1合。肴1品とあわせて1500円で少しではあるがお釣りをもらった。不思議なもので100円未満のお釣りでももらえるととても懐が温かく感じる。単純なものである。
 最近はお酒を持ってくるのが遅い、ビールの泡が多すぎる、つまみがまずい、注文を取りに来るのが遅いと、文句をつける客が多い。傍で聞いているだけで不愉快になり、「いいかげんにしろ、店員をいじめるな」と怒ったことも幾度かある。
 こういう客をブラック客というらしい。こういう客をあしらうために最近は、過剰なサービスが多すぎる。手拭きの受け取りや、箸の上げ下ろしから、食べ方の指導まで口うるさい。店の方で手取り足取り「指導」する。これが私にはとても煩わしい。私の食べたいように食べさせてほしい、私のペースで食べたい、といいたくなる。それがまたクレームとされるらしい。
 4~5年前だったが、横浜市営地下鉄に「ボランティア」と称する一団がたむろしていたことがある。私が切符を買おうとするとすぐに寄って来て、「どこまで行くんですか」「お金はここに入れてください」といちいちうるさい。「自分でできますから構わないで!」と怒ったことがある。
 善意の押し付けは、自分で処理しようとする意欲を削いでいるかもしれない。自分で処理させることの大切さ=見守りということも大切である。

 そんなことを考えながら東京駅から横浜駅まで吊革につかまっていた。

 さらに先ほどお茶を飲みながらテレビをボーっとみていたら、痴ほう症の診断に「オリンピックでどんなことがありましたか」などと聞くらしい。私はオリンピックも含めてスポーツに興味はないし、テレビもほとんど見ない。テレビを見ないのは現実に対する興味を失った証拠と判断されるらしい。とてもではないが、そんな薄っぺらな人間把握は止めてほしい。
 テレビを見なくとも、スポーツに興味がなくとも、私は人間として生きている。

若冲論アンソロジー

2016年11月27日 22時46分25秒 | 読書
 予報どおり夕刻から再び雨が降り始めた。本日は15時まで家に閉じこもっていた。近くのスーパーまで買い物の荷物係として同伴。予報どおり、途中から雨が降り始めた。

 「北斎 HOKUSAI」(大久保純一)を読み終わってから手にしているのが、「若冲」(澁澤龍彦他、河出文庫)。11月20日の発行だから店頭にならんだばかり。悪い癖である衝動買いである。税込み799円。伊藤若冲について、森銑三の1939年の評論から、林哲夫の2005年の評論まで16氏の17編が編まれている。澤田ふじ子の小説「若冲灯籠」も含まれている。
 しかし河出文庫、澁澤龍彦の著書・訳書をこんなにそろえているとは知らなかった。41冊にものぼっている。わたしが持っているのは「幻想の肖像」を古書店で購入して、その中のひとつを読んだだけ。
 今回の「若冲」はすべて目をとおそうと思う。

 明日は朝から所用で出かける。明日は一応明け方には太陽が顔を出すらしいが、気温は15℃どまりとのこと。



「北斎 HOKUSAI」(大久保純一)

2016年11月27日 17時43分10秒 | 読書
   

 本日読了したのは、「北斎 HOKUSAI」(大久保純一 角川ソフィア文庫)。カラー版の作品紹介で、小さな図録がわりに楽しむことが出来る。同文庫の「ジャパノロジー・コレクション」なるシリーズの一冊であるようだ。論考を期待する向きには不満があるかもしれないが、私には図版を充分に楽しめた。
 大久保純一氏の論考は岩波新書の氏の「カラー版 北斎」に期待した方がいいと思われる。すでにこのブログでは取り上げてみた。
 「彼の他の揃物にも共通するものだが、北斎には名所景観のリアリティの再現よりも、自分自身の造形意欲を満足させる形態の追及や、そのためのシチュエーション設定の方を優先する傾向があった」(諸国名橋奇覧)
 「彼の意図は、名所として万人に知られた滝を集成しようというよりも、滝を口実にして千変万化する水の表情を描き分けることにあった」(諸国瀧廻り)
 この指摘は彼のすべての風景画に当てはまると考えなくてはいけないと思っている。


失礼極まりない「ご遺族に対しご冥福を祈る」‥首相官邸

2016年11月27日 13時14分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
首相官邸のページに次のようにつづられているということをツイッターで知った。
⇒【https://www.facebook.com/sourikantei/photos/a.314382198661546.56598.314327765333656/909659959133764/?type=3&theater】
キューバ革命後の卓越した指導者であるフィデル・カストロ前議長の逝去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します。
本年9月に私がキューバを訪問しお会いした際には、世界情勢について情熱を込めて語られる姿が印象的でした。

日本政府を代表して、キューバ共和国政府及び同国国民、並びに御遺族の皆様に対し、ご冥福をお祈りします。

 安倍晋三首相が自ら書いたのか、外務省関係者か、内閣府か、内閣官房か、誰が書いたにせよ、この文章は日本国の恥以外の何物でもない。
 最後の文章の赤字の部分、何とも思っていないのだろうか。生きている人々に対して「ご冥福をお祈り」するとはとんでもないことである。
 コメントでたくさんの指摘があるのにもかかわらず、今現在(12時45分)も訂正がない。しかももう発信してしまっていると思われる。

 日本語が満足に使えない政治家が、「日本を守る」とは理解に苦しむ。また外交で相手の国民や遺族に失礼な言葉を発信するとは、あまりにみっともないではないか。この文章は日本国民を代表してはいない。

 私が親族の葬儀でこんな弔電をもらったら、突き返す。

 官邸としてのチェック体制がまったくなっていない。そして記載したのが国会議員やその秘書だったとしたら、地元の支持者などにこのような弔電や弔辞を送っているのだろうか。なんとも情けない話である。



冬の星の感傷

2016年11月26日 23時09分48秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 先ほど西の空が一瞬晴れたのがたまたまだったようで、横浜はまたも雲が厚い。しかし東の空に少しだけ雲の切れ間はある。たぶんこれも間もなく雲に覆われてしまいそうである。

 冬になると星を見上げたくなる。冬は星が美しい。大気が寒さで引き締まっているので、星の光もまた襟を正しているからだ、とは学生時代の友人の言。とても物理学科のそれも天文学科志望の学生の言葉とは思えない言であるが、その言葉の裏には社会への苛立たしい反抗が渦巻いていた。そして同じ学科志望の私はいたく同意した。
 その夢をともに自ら手離して、さらには星のことはすっかり頭から追い出しから46年ほどの時間が経ってしまった。
 冬の星を見上げるたびに、こそばゆい感傷が湧いてくる。

 確かに、冬の星を詠んだ句はなかなか引き締まったものが多い。

★生きてあれ冬の北斗の柄の下に      加藤楸邨
★凍星を組みたる神の遊びかな       須佐薫子
★再びは生れ来ぬ世か冬銀河        細見綾子


宵の明星

2016年11月26日 18時48分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午後からは低い厚い雲が空を覆い、寒さが身に染みてきた。陽射しがないといっそう寒さを感じる。
 講座終了後、会場から自宅まで遠回りをして帰ってきた。9000歩ほど歩いた。最初は寒さが強いので、薄いダウンのコートのチャックを首まで上げていたが、20分もするとチャックは全部おろして歩いた。5000歩ほど歩いた時には汗ばんできた。このぐらいになると気分もかなり総会になる。
 いったん横浜駅近くまで歩いたので、地下街の書店に寄ろうかとも思ったが、夕食時に遅れるとまずいので、そのまま自宅の方に踵を返した。
 横浜駅を過ぎた頃一時的に西の空から雲がなくなり、太陽の沈んだ後にマイナス4等と明るい金星と、1等星よりも明るい火星の輝きをときどき見上げながら、歩きつづけた。


「江戸の想像力」(田中優子)

2016年11月26日 12時44分22秒 | 読書


 「はじめに」で筆者は、

 近世的なものとは、人工するエネルギー、極端な文化的爛熟であるとともに、自然状態への激しい憧憬であった。新たな創造への衝動であるとともに、過去への熱い視線であった。「外部」=「異質なるもの」との出会いであると同時に、すべてのものが「相対的」であることの発見であった。しかしそれはどうやら日本だけの現象だけではなかったようだ。日本の場合、それは中国文化の爛熟の中で起こったものだった。「影響」などという生やさしいものではない。
 日本の現象とは、アジアの中国文化圏の現象であり、展開であるのだった。確かに、境界線は十八世紀の前後にあるのだろう。それは地球規模で見出される境界線であるのだろう。それを容易に論理づけることはできないが、その準備のためのいくつかの試みを本書の中で少しでも示すことができれば、それだけで幸運なことだと思っている。


と述べている。

 私はこの「日本の現象とは、アジアの中国文化圏の現象であり、展開であるのだった。確かに、境界線は十八世紀の前後にあるのだろう。それは地球規模で見出される境界線であるのだろう」に私は着目している。人類史としての同時代性、人間社会の観念の世界同時性というのは別に近代以降の特質ではないと感じている。たとえば日本の幕末期から明治期、一気にヨーロッパの文化を吸収し尽くしたとも思えるエネルギーは、江戸時代の町民の経済力の蓄積から説明されるが、その経済の蓄積も含め、文化の諸相や政治、社会の構成総体で、人間の観念の力が持つ人類史の持つ「世界性」「世界同時性」、あるいは人間の観念の世界的な水準の「均質性」というものも考慮しなくてはならないのではないか、と私は考えることがある。
 狭かったといえ開かれていた交易の窓口の存在も重要であるが、そこから入って来る文化的な刺激を取捨選択する人間の持つ観念の力の必然性というものを抽出することは出来ないか、ということである。
 確かに近世から近代に、世界性は時間の尺度が極端に短くなるという極めて大きな変化をもたらしたが、そこへの着目ではなく、時間の尺度の短縮化を取り除いた時に、何が残るのか、というところに興味がある。
 そんなことを刺激された「はじめに」であった。
 本書では、平賀源内というどこか悪魔的な、ひょっとしたら大言壮語、夢想家、ひょっとしたら詐欺師的な人物像をとりあげ、同時代の彼と接触のあった人間を取り上げ、江戸時代というものの特質を浮かび上がらせてゆく。
 また俳句や狂歌の「連」とうものが、俳句に限らず江戸のネットワークの特質であったことなども明かしている。さらに「水滸伝」の中国の白話体がどのように受容されたか、なのど論から中国の物語と日本の物語の特質の差に触れ「日本の物語には、歴史の時間に綱かっていこうとする欲望がない」との結論は魅力的である。また論は「曽我蕭白」論にまで発展する。
 私が白眉と思ったのは、当時の「世界地図」による江戸の人々の世界像と世界認識への言及である。マテオ・リッチの「坤輿万国全図」、「和漢三才図絵」の引用などは魅力的である。ここは再度読みなおしてみたい。

 後半になると作者は

 近世とは、地球的規模の流動が怒りながらも、世界はまだ均質化していなかった時代のことである。異質なものが突然出会い、激しく文化的衝突が起こりながら、混成的な文化がさまざま地域で出現していた。きんせいとはそのような地球的規模の移動と、文化の交錯が可能になった時代である。その期間はヨーロッパ、中国、その他の国々で多少異なるだろうが、おおまかに言えば、世界の均質化、高度な秩序と制御などの、近代の諸特徴が出そろう十九世紀以前の時代であり、流動と移動が実現された十六世紀以降の時代、と考えていいだろう。

としるして、私の問題意識とはズレガ出てくるが、それは致し方ない。
 問題は江戸という日本の近世といわれる時代の特質をどのように把握するかである。この抽出した特質で、ヨーロッパや中国などとの差だけに注目するのか、共通基盤を探ろうとするのか、にかかっている。
 作者は西洋の世界認識として上から下へのヒエラルキーによる分類によって空間的・地縁的階層序列であると捉える。ひれに比して日本は「空間・時間の羅列」と捉える。それは私は仏教的な世界の均質的な無限の広がりという把握の延長に位置すると思っている。それを井原西鶴や、平賀源内と同時代の上田秋成を引用しながら論じている。特に十八世紀の江戸時代を代表する両極として平賀源内と上田秋成を比較している。

 結語的な部分で私は、今後もこの筆者の道行に引き続き着目してみたいとあらためて思った。

 近世に共通の問題もある。たとえは相対化・俳諧化の方法や列挙の方法化などである。これらは近世を通して問題となる。
 こうして、対立的なものを複眼でとらえること、短い期間の問題と長い期間の問題を同時にみること、地球的な規模でそれらの問題を照らし合わせてみること、そしてヨーロッパと日本を単線で結ぶのではなく、中国、中国文化圏、東南アジア、あるいは仏教文化圏さえもその視野に入れて、実際の錯綜した文化的・技術的・商業的関係を追ってみること。最低限これらのことをやらなくては、共時的な精神史は見えてこない。


 しかし作者の論はそれこそ江戸時代の列島を縦横に駈け廻る。それこそ「空間・時間の羅列、列挙」そのもののように網羅的である。なかなか刺激的であると同時に、消化不良にもなる。丹念に読むのには時間がかかる。