Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

香月泰男のシベリア・シリーズ(10)

2010年07月31日 20時22分30秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
雨(1968)
 「草原というよりは砂漠に近いホロンバイル平原に降る夕立。砂塵を打ち沈める激しい雨足が遠ざかる時、戦争のむなしさを訴えるかのように、太陽は灰色に見える。」

 これも私の好きな絵である。中央より下にある黒い雲と黄色の砂嵐、そして横殴りの激しい雨と思しき雨、そして黒い大地。絵の60%は黒い雲の上の情景だ。黒い太陽とそれをかこむ白い線、金環食のような太陽である。画面中央の黒い塊は何であろうか。未だにわからない。しかし心が落ち着く絵である。

香月泰男のシベリア・シリーズ(9)

2010年07月31日 13時54分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
雲(1968)

 「山口県西部第四部隊の錬兵場は、雪舟が住んだ常栄寺の側にある。画人雪舟が愛した自然の中で、今の画家は人殺しの訓練を強いられる。人間性を奪われる姿は、錬兵場におかれた被甲(ガスマスク)のごとく、無機物化されたものと見えた。しかしガラスの月にも、昔雪舟が仰いだと同じ青空や白雲がそのまま映っている。」

 画面下の黒い部分に言われなければわからないながら、ガスマスクの眼のような丸いガラス様のものが二つ描かれており、月ないし雲が映っているように見える。
 恥ずかしながら私は、最初見たときに兵舎のガラス越しの空の雲と月のことだと思いこんでいた。ガスマスク云々は、文章修辞上の言葉ではないかと…。
 しかし眼を凝らすと不気味なガスマスクが浮かび上がってくる。画面の大半を占める青い色の空と対比するように無機質で人殺し専用のロボットの象徴のような不気味な顔がのぞいている。
 しかしこの青は美しい。雲の向こうに映る月のようでもあり、静寂で心に透き通ってくる青である。

 幾度も指摘してきたが、シベリア抑留だけが非人間的な体験ではないのである。人殺しの機械となることを強いられる軍隊そのものが、作者にとって許されることのない強制なのである。しかも人殺しの機械となることを強制される人間は、雪舟という稀有の画家を生んだ地域の末裔であり、同じように空の色や空に浮かぶ月に感動する人間である。

本日の俳句(100730)

2010年07月30日 22時20分50秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は、雨のち酷暑。陽射しにあたるのは嫌いではないが、歳とともに発疹が体中にできるようになった。日中のウォーキングができずにさびしいものがある。強い陽射しをものともせず闊歩する若い人々がうらやましい。

本日の俳句
★蜘蛛の巣の微かに揺れて風通る
★敷石の大きく割れて脂照
★灼けてなお少年の声河原より

「私の日本語雑記」(中井久夫著)

2010年07月30日 07時03分08秒 | 読書
 本日の読了は、「私の日本語雑記」(中井久夫、岩波書店)。
 精神科医であると同時に現代のギリシャの詩人の翻訳でも知られる中井久夫氏の日本語論、というよりも言語論。月刊「図書」の連載の単行本化である。
 最後の方、「英語が世界語となれば差異を求める人性にしたがって、フランス語なりドイツ語なりを話せるかどうかが差別化の決め手となるであろう。‥古代において、ラテン語がヨーロッパ世界共通語となったとともに崩れだして、イタリア語、フランス語を初めとするロマンス諸語となったような換わり方を、英語もするかもしれない。」「世界が一、二の言語に統一されたとすれば、そのとたんに世界がすりガラスのように見えなくなるであろう。そして、何らかのあるスローガンの下に世界が自滅するかもしれない。」
 さらに「現在の言後専制下では、複雑な事態に対して過度の単純化が行われている。善と悪、因と果、友と敵の二分法は、今や言語の重大な「副作用」といえる段階に達している。」
 また「印か関係は絵画では表現できない。では言語ではできるか。非常に単純化しなければ、できないのではなかろうか。(物理学の公式は因果関係は)問題とならない。因果関係というものは、数学的に表現された公式を言語に直す時に忍び込む何物かでなかろうか。」
 最後の引用部分はなかなか理解できないが、初めと二番目の引用はよくわかる。特にグローバリゼーションが当然の成り行きとか、日本語が英語にのっとられるのではないか、という議論があたかも現実味を帯びているように喧伝されるなか、言語や歴史がそんなにたやすく崩壊するものではないことをきちんとおさえた議論が必要であろう。そうしないと機械論的で機能論的な言語論、芸術論という、スターリニズム言語論、あるいは日本のファシズム期にも表れた政治に従属する言語論・文学論の再来となってしまいそう雰囲気である。
 日本は、そして世界は、第二次世界大戦の元となったファシズムについてもっときちんとした整理・総括が必要ではないだろうか。

香月泰男のシベリア・シリーズ(8)

2010年07月29日 19時10分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
鷹(1958)

 「部隊に迷い込んで私に飼われた隼は、紐を喰いちぎって或る日逃げた。自力で自由をかちとったことを羨み、飛ぶ羽を持たぬ身に望郷の念は更にかきたてられた。飛翔力の強さを表現するために、鷹に変えて描いたものである。」

 前回27日の雨<牛>から11年、すべての色彩が消えうせたような絵である。しかしこの鷹の眼差しの鋭さと鋭角な羽の強靭さ、そして脚の太さ、引き締まった体をよりキリッと締めている黒色は、香月泰男という画家の精神の強さと観察力、そしてたくましさを遺憾なく発揮しているように感じて私の好きな絵である。
 画面の6割を占める下半分の大地と思しき黒の画面が、尾羽が画面からはみ出す鷹をより大きく強靭な生命力のシンボルとして際立たせていると思う。
 私は、隼を飼うゆとりからこれは抑留前の体験と考えている。望郷の念も含め、戦争という強制への違和は、抑留という過酷な体験の前から画家の思想の核を締めていたと思う。
 だからこそ、過酷な体験を潜り抜けえた、というのが私の思いだ。
 軍隊や集団性や階級社会を客観的に冷静に、そしてみずからとは異質なものとして突き放して見ることができたのであろう。
 思想や理念はのめりこんでしまえば、その思想なり理念が崩壊したとき、肉体の変調も含めてその人を打ちのめすからだ。そして日本ファシズムの敗北と崩壊・日本軍の解体という全崩壊と、ロシア軍という別の異質なロシア的なファシズム=スターリニズムのもっとも醜悪な場面に飲み込まれたとき、全人格の崩壊となるか、生きる力の喪失などの状況に遭うか、徹底した迎合思想へと本質するかしか活路はなかったはずだ。
 私が香月泰男の絵と思想に圧倒されるのは、そのものを見据える眼に支えられたたくましさに根があると思う。

本日の俳句(100729)

2010年07月29日 17時42分28秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は梅雨明け以降の初めての本格的な雨、降れば土砂降り。梅雨に戻ったような鬱陶しい雨である。風の音が嵐のようだ。

本日の俳句
★さるすべり面影あまたに庭に満つ
★この街を傾け尽くさん夏の雨
★野も山も風の形に夏嵐

コメントへの感謝と本日の俳句(100728)

2010年07月28日 23時09分49秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 三毛猫の子猫さんからのコメントをいただき、初めて仏教の「十善戒」というものを知った。
 私は、モーゼの十誡、キリストの山上の垂訓とそれに続くモーゼの十誡に対するキリストの厳しい評価は、幾度か読んだことがある。しかし「十善戒」は初めての言葉で、無知をさらけ出してしまった。ネットで調べると儒教にも十戒があるらしいが、この内容はわからなかった。

本日の俳句
★細腕の子の黒光り百日紅


古風

2010年07月28日 21時45分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は、久しぶりにフランクの交響曲ニ短調を聴く。ジュリー二指揮・ウィーンフィルの1993年版。同梱は交響的変奏曲。5年前の購入だが、2回目。新鮮な感じがする。
 初演当時、聴衆からも拍手は少なく「閃きがなく、時代遅れ」と不評だったと解説に記載されている。確かにロマン派の交響曲を聴きなれた耳には退屈に聞こえたかもしれない。
 しかし他の演奏者のものも含めて幾度か聞いたが、そのたびに私には何となく懐かしくもあり、かつ、どこか新鮮な感じがする。どうも私は時代に背を向けて古風を地でいくのが好みなのかもしれない。別の言い方をすれば「偏屈」ということだろう。致し方なし。

ブリューゲル展の感想にならざる感想

2010年07月27日 18時48分20秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ブリューゲルの展覧会で、7つの罪源と7つの徳目がシリーズ物としてあった。
 大罪は、貪欲・傲慢・激怒・怠惰・大食・嫉妬・邪淫、徳目は剛毅・賢明・節制・正義・信仰・希望・愛徳
 いかにもキリスト教しかもカトリックらしいものが並んでいると思われるが、果たして現代人の私なら何を付け加え、何を削ろうか、と考えてみた。

 面白いことに「忍耐」という版画も同時にあったが、これが否定的に描かれている。私のイメージでは「過度の忍耐」が否定的に描かれるのはすぐに了解できるが‥。宗教的な迫害に対する過度な忍耐が否定的ならば、福音書的な記述自体が否定的に解釈されてしまうのではないかと余計な心配までしてしまうが、ブリューゲルの時代、宗教改革が吹き荒れた当時の状況の中で、カトリックの側の忍耐は単に日和見であり、退廃であったのかもしれない。
 そして私の目からは、キリスト者の立場に立ってみても偽善・虚偽・戒律を破る破戒や冒瀆が入っていない。現代の眼から見ると非法・不法・人格の否定などが入っていない。
 そして「慈善」は徳目には入っていないが、この題の版画があり、18人もの子供が描かれている。さぞにぎやかな状況が静かなたたずまいで描かれている。しかしこれは寓意画ではなく彫像を模したような版画である。
 あくまでも、ブリューゲルの生きた当時のネーデルランドという社会状況に即した項目であると考えるのが妥当であろう。


 16世紀後半の世界であるから、個人を律する規範と、信仰と、国家の今で言えば法は、分化しないで混在している。宗教と国家の分離、個人の領域と国家の領域の分化ともっともっと後の時代のことだろう。
 これはちょいと脇へおいておいて、現代という時代を背景に私が付け加えるとしたら、それぞれにどんなことを付け加えるだろうか、と考えてみた。
 「罪源」では、個人を律するものから法にまで及ぶとすれば、饒舌・強要・ガサツ・虚偽・不正・不法・人格否定となろう。嫉妬・大食はいかがなものか。怠惰・激怒もあまりに場違いなような…。邪淫の代わりに人格の否定であろうか。
 「徳目」では、忍耐・寡黙・観察・人格と法の尊重を入れよう。剛毅はいかがなものか、削除しなくてはいけない。正義も今の時代何が正義かはあくまでも相対的だ。正義は法に変わったはずだ。現代の眼からは、遵法を入れなくてはいけない。信仰は私には皆無だ。愛徳という言葉は、仁愛・博愛のほうがまだいい。希望も考え物だ。

 こうしてみるとカトリック、キリスト教の世界の徳目も罪も随分と時代の波に洗われているはずなのだが…。そう、近代国家成立による、自由・平等・博愛に基づくという法という名の正義の登場がある。私が中・高校6年で受けたカトリック教育はもっと理念的であった。時代にそった変革を受けたものだったのだろう。
 西欧の1500年代は随分と今の時代と様相が違う。日本でも、現代から1500年代を見る眼もこんなに違ったものとしてみる必要があるのだろうか。1500年代(戦国後半期)の日本と西欧の比較というのは、なかなか面白いものがあるのかもしれない。

 ブリューゲル展の感想、書かないつもりがつい、まとまりのないまま、何が言いたいかもまとまらずに書いてしまった。
 これは虚偽という罪になるのだろうか。誰にとは言わず、許しを請わなくてはならない。

香月泰男のシベリア・シリーズ(7)

2010年07月27日 12時02分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 雨<牛>(1947)

 シベリア・シリーズの第1作。作者は「5月過ぎのホロンバイル。風の強い日は防塵眼鏡が必要な程の砂嵐であった。黄色い空を一掃するような夕立が終わると、わだちの跡の水たまりに、のぞき始めた青空が映って見える。大地があり、生きものがいればどこでも絵になると思った。復員後、国画展初出品の絵である。」と記しているから、日本軍としての駐屯地での体験に基づく絵である。

 シベリア・シリーズでは翌1948年作の「埋葬」(これは題材は抑留期間中のものなので後に掲載予定)の2点のみが美しい青と緑の彩色がある。
 これから、シベリア抑留を経て、死と飢えと忍従と絶望の世界へと突入していくわけで、作者の「大地があり、生きものがいればどこでも絵になると思った」世界とは正反対の世界に変わっていく。ここでの体験を絵にするということの重い苦闘には、シベリア・シリーズの第3作目の製作が1956年であるから、8年という時間的な経過を要したことになる。
 香月泰男の絵は1955年ごろを境に、シベリア・シリーズ以外の絵も含めて一気に多彩な色を失ってモノクロームのような画面に変わる。黒と白と暗い黄色の世界に変わる。それは作者がシベリアの体験を、日本軍としての体験も含めてシベリア・シリーズとして世に問うには、その絵画に対する全的な姿勢の変更を強いられたということだろう。
 この絵のポイントは青い二本の線だと思う。作者の文章からすると轍の後の水溜まりに映えた青い空だ。ハッとする美しさだ。香月泰男の目は美しい。

ブリューゲルの版画

2010年07月26日 22時19分13秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 ブリューゲル展で購入したカタログを2日間じっくりと見たが、どうも絵としての感動が私には湧かなかった。解説によれば20年ほど前に見たのは、1989年のブリヂストン美術館でのやはり版画展であった。当時の記憶もあいまいである。
 私の鑑賞力の無さ、浅さ、狭さを暴露したようだが、致し方ない。これは評論にも鑑賞にもならない、ということでお手上げであることを正直に記載して終わりとしよう。

 帰宅途中、雷鳴がなり始め、だんだんひどくなり、雨も少しパラついたが、すでに終了。雷鳴・雷光は近づくことはなかったが、ひっきりなしに鳴っていた。今も遠くでなっている。少しでも涼しくなってもらえるとありがたい。

本日の俳句
★遠雷の起点は何処水におう
★遠雷に東京湾を一望す
★雷去りて一歩踏み込む月明かり

本日の読書と俳句(100725)

2010年07月25日 22時27分53秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 先日購入した「エデンの命題」(島田荘司 光文社文庫)読了。しかし島田荘司の推理小説は好きだが、この手のものはどうもピンとこない。
 作者本人が是としているか否かは、まったく別問題として、世界がごく少数者の陰謀によって動かされている、というような劇画的な舞台設定はどうも性に合わない。後味がよくない。シリーズを限定しないといけないかな。
 しばらくは推理小説とは離れたい感想。

 東京国立博物館の「花見で一句」の秀作・佳作の賞品が届く。

本日の俳句
★朝顔のうすき葉脈まじわらず
★音のなき夜をみどりに夏の雨

香月泰男のシベリア・シリーズ(6)

2010年07月25日 13時54分54秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 海拉爾(ハイラル)(1973)

 「氷の塊のようになった真冬の海拉爾の街の底からのぼる煙に、人間家族の温もりを感じた。私はほかには何もいらぬ。絵が描けて家族とともにいられるのならば、その煙がうらめしかった。」

 冬の夜と思われる街のところどころのさびしげな明かりと立ち上る煙。街は黒、煙はくすんだ白、左手前の白くくすんだ帯は中心街路だろうか。背景と空は暗くくすんだ黄、街の背景にあると思われる丘・山も黒、これだけの色で示された「温もり」というのも稀有な絵と思われる。
 白い煙が長く、多分実際よりも高くまで記入されているのかもしれない。それが「温もり」の強調となるのであろうか。そしてその煙は同じ高さでそろっている。「温もり」というものが、一人一人の人間にとっては至上であり、それは「温もり」が人間存在にとっては「等価」であることの暗示でもあろう。
 作者は1973年という時点で、抑留としてのシベリア体験と、日本軍としての駐留体験とを相互に入れ替え可能な体験として見つめていたと思われる。それは侵略・被侵略、抑留・被抑留、支配・被支配、加害・被加害という視点だけではなく、国家と大衆、軍隊と民衆、政治と国家というふうに、個的な体験を潜り抜けて、戦争体験を貫いて普遍化しうる視点を獲得していたと私は想像している。

「ブリューゲル版画の世界」展

2010年07月24日 20時12分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は急に思い立って、渋谷の東急Bunkamuraザ・ミュージアムまで「ベルギー王立図書館蔵 ブリューゲル版画の世界」展へ。
 ブリューゲルの不思議な絵はいつ見ても惹かれるものがあるものの、理解はできない、解説抜きでは到底何の寓意だかわからないので、そのままになって勉強したことがない。20年ほど前にも東京のどこかで見た記憶があるが、カタログも買わず、そのままになっていた。
 せめてカタログでの勉強くらいはしようかと決心して会場へ。思ったほどの人ごみではなかったが、それでも各絵の前は人が並んでいたので、足早に一巡後、カタログ購入の上帰途についた。カタログがこなれた日本語であることを願いつつ。

昨日の読書と俳句(100724)

2010年07月24日 08時53分09秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨晩は本を島田荘司の推理小説を片手にもったまま、うつらうつら、気付いたら0時半を過ぎていて、そのまま就寝。久しぶりに素直な睡眠となった。つまり読書はたった1頁ほど。

 昨晩と今朝の俳句
★噴水の変わらぬしぶき変わるかげ
★噴水の届かぬ虚空蝶の道