Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

十六夜の月

2023年09月30日 22時32分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は昼前から親の通院の付き添い。土曜日ということで、待合室はとても込み合い、診察が終ったのは結局13時30分をだいぶ過ぎていた。処方箋をもらい薬局を出たのは14時過ぎ。ずいぶんと疲れた。
 北と東の空は黒い雲で覆われ、不気味であった。
 昼食を済ませ、ひと息ついてから外出したのは16時すぎ。特にどこかに用事があったわけではなく、いつものとおり有隣堂やら家電量販店を特に目的もなくまわり、コーヒータイムと20分ほどの読書タイム。
 18時を過ぎていつもとは反対の遠回りのバスにて帰宅。

 途中のバスの窓から十六夜の月を進行方向に見つけた。先ほども記載したが、どうしてもウサギの餅つきの模様には見えなかったが、同時に蟹にもライオンにも女性の横顔にも見えなかった。

 明日日曜日の午前中は、月に一度の管理組合の諮問会議。明日からは10月。そろそろ年末の声を聞く時期であるが、まだ明日の予想最高気温は30℃でしかも熱帯夜の予報。


ウサギの餅つき

2023年09月30日 20時53分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 月刊星ナビのツイッターを見ていたら、満月の月面の模様を何に見立てるか、日本以外の見立が掲載されていた。
 「女性の横顔」(欧米)、本をよむ女性(欧米)、蟹(南ヨーロッパ)、ライオン(アラビア)など5つの画像が出ていた。
 欧米、アラビアなど根拠が鮮明ではないのが残念であるが、しかし見立を比べるのはおもしろい。
 この画像で私が最初理解できなかったのは「女性の横顔(欧米)」である。他の4つは海の黒い部分をウサギ等に見立てているが、これは反対の白い部分を顔に見立てている。その反転に気がつかなかった。
 見立は地域のさまざまな歴史や伝承・物語が背景にあるはずである。きっと沖縄にもアイヌにも、独自の見立てがあったはずだ。
 私はこの見立ての中で、ウサギはなかなか難しいと思う。小さいころから私は、ウサギだよ、と言われるたびに首を傾げていた。大人からするとかわいげのない子どもであったと思う。


名月や・・・

2023年09月30日 15時10分27秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 昨晩は、仲秋の名月が残念ながらちょっとしか見ることが出来なかった。

★名月や神泉苑の魚踊る     与謝蕪村
 前書きに、雨のいのりのむかしをおもひて、とある。

 神泉苑は、弘法大師が神泉苑にて雨乞いの祈祷をしたという故事がある。月光は仏性のあまねく行き届くさまをさすたとえとして語られる。その清浄な光がもっとも美しいしいう名月の光に、池でいきおいよく泳ぐ、ないし、水面から飛び上がるような魚を配している。生臭いものの象徴なような魚であるから、月光とは正反対の俗の代表であろう。
 その俗の象徴のような魚に名月の光が当たり、柔らかい反射光が目に飛び込んでくる。そんな情景を思い浮かべることが出来る。浄化などというしたり顔では語りたくない。月の光の一瞬の反射を想像した句として、私は好きである。これは幻想の世界である。想像によってもたらされる一瞬の美でないと成り立たない句である。

 


月餅と饅頭のおかげか

2023年09月29日 21時42分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は仲秋の名月。普段からチラッと月を見上げる程度で、特別にすることは何もない。例年月か見えたり見えなかったり、それはそれで一瞬の間に過ぎて、記憶には何も残ってぃない。今回は雲も厚く垂れこめ、ほぼ月が顔を出すことはないと踏んでいた。
 昼間出掛けた時に、食材の買い物を頼まれていたので、何となく仲秋の名月の時に食べるという月餅でもついでに購入してみようと想い、崎陽軒のミニ月餅を4種各1個を購入して帰宅した。妻も近くに買い物に出たらしく、ウサギの餅つきの模様の入った小さなまんじゅうを購入してきた。二人で一個ずつ食べて、月見をしたつもりになった。
 先ほどベランダに出てみると、不思議なことに厚い雲のほんのわずかな隙間から満月が丸ごと見えた。時間にして1分もしないうちに雲に覆われて見えなくなってしまった。しかし月の光が雲間から漏れ出て5分ほどは楽しめた。そののちは月はもう顔を出さなくなった。

 一瞬でも月を見ることが出来たのは、月餅か、饅頭を食べたおかげかもしれないということで、お茶を一服飲んで満足することにした。

 外出から帰宅途中に薄ススキが美しく茂っている一角があった。今年初めてススキが目に入った。今度は日のあるうちに眺めたいものである。できればもう少し涼しく、そして湿度のあまりないときに見たいものである。


読了「九相図をよむ」

2023年09月29日 20時36分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 3枚目に、《浄相の持続》(松井冬子、松井冬子展図録より)があります。

      

 本日読んだのは「九相図をよむ」(山本聡美、角川文庫)の第8章「現代によみがえる九相図」、おわりに、補遣「朽ちてゆく死体の図像誌 戦の時代の九相図」、文庫本あとがきなどで、これで全体を読み終えた。

 第8章「現代によみがえる九相図」では、河鍋暁斎、山口晃、松井冬子の作品を取り上げている。私にはこの第8章が、新たな九相図の展開を述べようとする作者のスタートラインとするような意気込みを感じた。

 河鍋暁斎(1831-89)の「卒塔婆小町下絵画巻」を取り上げている。
明治期に西洋画という新たな絵画技法が到来したことによって、日本の伝統的な作画技法が相対化された。‥暁斎は、九相図という画題を、西洋絵画技法の基礎に位置づけられる裸体デッサンに対置し得るものとして捉えていたのではないだろうか。‥文明開化に熱狂する社会への批判精神や虚しさが共有されていたのだろう。‥しかしながら、暁斎が没した後、九相図という主題は日本絵画の表舞台から急速に忘れ去られていく。

 山口晃(1969-)では「九相圖」(2003)を取り上げている。
山口の九相圖は近代初頭の東京で、文明開化のモチーフと九相図とを抱き合わせで描いた暁斎がにも重なって見える。都市を開発し繁栄を追及する営みの先に、終焉の思想を折り込むべき時代が到来しているとに、彼らの作品は眼を向けさせる。‥

 松井冬子(1974-)の連作としての九相図はこれまでに五作品が出来上がっている。最初の「浄相の持続」(2004)をここでは取り上げている。
 「《浄相の持続》という題名によって示されているように、松井冬子は九相図本来の意味を意図的に反転させる。切り拓かれた腹からこぼれる内臓が、周囲の草花を圧倒する鮮やかさで女の肉体を彩る。伝統的な九相図が依拠していた「表面をいかに飾ったとしても皮膚の内側には不浄なものが充満している」との教義を逆転させ、皮膚の内側を、生命の本質、清浄なもののありかとして描き尽くす。《浄相の持続》で自らの内臓や子宮、そこに息づく胎児をさらす女性は、強い意志を帯びた眼差しで見るものを圧倒する。腹は彼女自身の意志によって開かれたように見え、画家はこの作品について「この女は男に対するコンプレックスあるいは憎悪によって自ら腹を切り裂き、赤児のいる子宮を見せびらかす」と解説する。

 補遺の「朽ちてゆく死体の図像誌」の最後で著者は次のように記している。
平清盛と後白河上皇、内乱において袂を分かった両者の娘たち(建春門院と宜陽門院)は、虚実のあわいで、不浄の身をさらしまた見ずらか九相観を実践する女院というイメージを獲得し、無常の世のただ中で戦没者の冥福と世の安寧を祈る依り代となった。その背後には、王権に寄り添いながら不安定な時代を支えた宗教者達の姿があった。‥身体の不浄を描いた図像が無常というもう一つの思想と交差することで、中世日本では、豊かな九相図の美術と文学が開花した。

 この本を読み、久しぶりに松井冬子の図録を見返し、そして平家物語の最後の部分を読み返したくなった。
 


本日の読書

2023年09月29日 13時11分49秒 | 読書

 朝から曇り空で蒸し暑い。最高気温の予報は29℃。あまり気持ちのいい転向ではない。

 午前中は「九相図をよむ」(山本聡美)を読み終えた。読み終わってから2012年、横浜美術館で開催された「松井冬子展 世界中の子と友達になれる」で購入した図録をめくってみた。印象に残った部分や感想は後掲予定。昼食後は、隔週になったヒアルロン酸注射のために整形外科を訪れる予定。
 先週都内の集会やイベントに参加してかなり歩き、今週も火曜日に炎天下を歩いた。右膝がかすかだが痛みが走る時があり、医師と相談。
 病院を訪れる前に横浜駅で昼食後の一服をしてから行きたい。「弥勒」(宮田登)の第7章、第8章を読み終えたいと思っている。


テート美術館展 その4

2023年09月28日 21時44分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 テート美術館展、いくつもの作品に惹かれたが、ラファエル前派で有名なジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)の《露に濡れたハリエニシダ》(1889-90)もその1枚。ラファエル前派ではバーン・ジョーンズの《愛と巡礼者》(1896-97)が展示されていた。この作品も素敵だが、題材の作為性が私にはちょっと敬遠してしまう。
 ミレイのこの作品について図録の解説では「ラファエル前派の時代よりもはるかに自由なスタイルで描かれたこの作品では、‥秋の露を通して輝く朝の太陽を捉えられている。‥ミレイは露をコンスタブルの有名な白い顔料の斑点で表現した。」と記されている。
 2014年の「ラファエル前派展 テート美術館の至宝」では展示されていなかった。当時のラファエル前派展で展示された風景画ともおもむきはおおきく違う。しかしミレイ自身が描いた《オフィーリア》の川の向こう側の景色とは似通っている。
 作品は上下に明暗が明確に分かれている。画面の上下に繋がる縦の線とが画面をさらに四分割している。近景と遠景が横一線で明確に分離させられているが、靄ないし霧の表現の効果で違和感を緩和している。横・縦十字に分轄された不思議な構図だが、実に良く計算されて作品に仕立てられていると感じた。
 私は手前中央の枯れた葉が特に気に入った。これがとてもいいアクセントになっている。これがないと作品の印象はメリハリの効かない別の作品になるように思う。



 ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)の《スウィング》(1925)にも惹かれた。というよりも私の場合、カンディンスキーの作品と聞くだけでもう気に入ってしまうのである。
 作品が作られた1925年は、ロシアに戻ったカンディンスキーが芸術表現に対する政治的統制の強化を逃れて再び出国しバウハウスで教鞭を取った時期である。
 音楽的なリズムを引きずっているような形態、線の重なりと色彩の乱舞は、自由な律動を支えてくれる。落ち着いた色調で選択された色彩の配置、形態の組み合わせで生ずる安定感のある構図。
 或る人は椅子に座った肖像画を下絵にしているといい、ある人は住宅を描いたというらしい。どうしても人は抽象画の根拠に具象を求めないと落ち着かないらしい。
 しかしカンディンスキーの作品はそれを離れてはじめて律動ないし、リズム感が浮かんでくるように私は思う。
 形態から自由になって浮遊していくことを象徴するような円形、魅力はいっぱいある。そして体を動かすことの苦手な私もなんとなく手足が勝手に動いてしまう。
 しかしむやみに絵画と音楽の融合などということへ結びつけるのは私は避けている。


クーラーに再び頼る・萩咲く

2023年09月28日 18時10分58秒 | 近くの自然

 昨晩は疲れていたが、目覚めは良く、午前中のオンラインの美術鑑賞講座を楽しく聴くことが出来た。
 昼食後、最高気温32.8℃の炎天下を神奈川大学の生協まで3500歩ほど歩いた。2冊の文庫本と2冊の新書を注文する予定であったが1冊は店頭にあり、その場で購入。注文は3冊。さらに1000歩ほどバス停まで歩き、横浜まで。
 親に頼まれた所用を済ませてから、喫茶店でやっと涼んだ。有隣堂を一回りしてからバスにて帰宅。暑さの中、さすがに疲れた。

   

 団地の入り口ではこの暑さの中、紅白の萩が咲いている。いつも入り口で枝を存分に伸ばし、楽しませてくれる萩である。

 帰宅してみると妻も買い物から帰ったばかり。暑さにへばってクーラーの電源を入れて涼んだ。この時期のクーラーはあまり記憶にない。


明日の予定を思い出す

2023年09月27日 22時57分59秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 テート美術館展で気に入った作品のうちジョン・エヴァレット・ミレイの1枚をスキャナーで取り込んで、補正を施しているうちに眠気が襲ってきた。もう1枚を取り込む予定であったが、本日の作業はこれまでとした。もう一枚はワシリー・カンディンスキー。さらにモノクロの造形写真の作品を選びたいのだが、こちらはどれにするか結論が出ていない。
 この分ではその4は明日には間に合わないかもしれない。本日の作業はこれにて終了。

 そして明日10時からオンラインの美術鑑賞講座もあった。昨日資料を打ち出したばかりで忘れているとは情けない。いつもの時間に起きなくてはいけなかった。

 


十三夜

2023年09月27日 20時28分32秒 | 近くの自然

 本日は横浜駅で一杯会。楽しく過ごしたのち、いつものバスにて帰宅したが、降りるバス停の二つ手前で寝落ちしてしまった。気がついたら二つ先のバス停の直前。慌てて降車。2000歩近く歩いて帰宅。
 昨日は電車でひとつ乗り過ごし。本日はバスで二つ乗り過ごし。バス停二つと鉄道駅ひとつ。バス停ふたつのほうが距離は短い。2000歩は健康のために良かったと思うことにした。
 明日は急ぎの予定はないので、ゆっくりと朝寝としたい。特に明日でなくても構わないのだが、午後からは神奈川大学の生協まで出かけて書籍の注文をしたい。
 昔は文庫・新書は有隣堂で定価で購入していたが、最近は単行本でなくとも神大の生協に注文するようになった。それだけ本の値段も高くなった。文庫・新書でも1000円の値が当然のようについている。悲しい。

 本日は十三夜、歩きながら空を見上げると雲に隠れるように月が見えた。すぐに雲の影に隠れてしまった。しかしこのように控えめに出てくる月もいいものである。明後日の仲秋の名月はどのように見えるであろうか。 


一駅乗り過ごす

2023年09月26日 22時05分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

   

 本日はかなり暑かった。直射日光を浴びながら20分近く歩いた。それでも29.6℃と30℃には届かなかった。9月上旬並みの気温で、平年よりも5℃近く高かったとのこと。
 建物の中に入ってお茶をかなり飲んで、水分を補給。やっとひと息ついた。施設見学ののち、再び20分ほど歩いたが、その時は太陽が雲の中に入り、陽射しはかなり弱くなっていた。しかも斜めの陽射し。ずいぶんと楽になった。

 途中の街路樹からは銀杏の実が歩道上に落ちていた。実はとても小振り。葉は黄色くなりかけていた。気になったのは、少なくない数の葉で、その周囲が濃い茶色に変色していたこと。枝についている葉も道路上に落ちている葉にもそのような葉があった。黄葉というよりも日焼けで枯れかかった葉のように思えた。実が小振りなのは日照の強さの影響か、もともとそういう種類なのかはわからない。
 しかしこの夏の異常な暑さが何らかの影響を樹木に与えていることは間違いはないと思われた。

 20分以上歩いた後なので、居酒屋での生ビールの美味しかったこと。

 明日の予定があるので、お酒は控えめにしたつもりだが、帰りの電車では一駅乗り過ごし、慌てて戻る破目になった。お酒の所為というよりも強い陽射しで疲れたためということにして、本日は早寝。

 


長ズボンに履き替え

2023年09月26日 10時57分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 次第に予想最高気温が低くなっていく。先週では昨日から今週いっぱいは30℃を越える予報であったが、木曜日だけ33℃でその他の日は30℃に届かない予報になった。大陸から張り出してくる高気圧の勢力が強まっているのだろうか。
 本日も29℃と微妙な表示である。例年は最高気温が27℃になると半ズボンに替えていたが、秋に向かう時は特に指標はない。涼しくなればジーパンにはき替えていた。本日・明日とジーパンにはき替えることにした。夕方になると気温が下がりそうである。

 しかし気温が下がり始めると急激である。やっと秋らしくなり始めたが、気分とは裏腹に体は悲鳴を上げ続けているような気がする。
 


明日は退職者会のイベント

2023年09月25日 22時24分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日の午後は退職者会のイベント。市の施設の見学会。昼前には家を出る予定。果たして長ズボンがいいのか、半ズボンでいいのか。気分は半ズボンなのだが。
 多分終了後は、いつものとおり一杯会。どのくらいの人数が参加することになるか、また場所を何処にするか、まったくわからない。施設の周囲にはそれなりの人数が入ることのできる居酒屋、それも16時前に回転しているところはないと思われる。
 いつものとおり、鼻の効く名人の後ろについて行くことが肝要。

 明後日も出かける予定があるので、控えめに飲み会に参加したい、という決意は持っているが‥。明日になって見ないとわからない。


三か月ぶりに長ズボン

2023年09月25日 20時10分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

   

 久しぶりに長ズボン(Gパン)を履いて外出した。ほぼ3か月ぶりであろうか。ほとんどの人はもう既に半ズボンをやめ、長ズボンになっている。半ズボンというか脹脛が隠れる程度のズボンであるが、昨日などは何となく恥ずかしい気分であった。
 しかしやはり暑く感じた。明日は最高気温が再び上昇して29℃、しばらくは30℃を再び超す気温の予報になっている。暑がりの私は、27℃を下回るまでは半ズボンでいたい。
 本日は昼間はスッキリとした秋の雲。横浜駅から見た空はビルが進出して狭苦しく見えるが、それでも雲がそして今週金曜日の29日が仲秋の名月とのことである。しかし先ほど帰宅途中で見た月齢10の月も十分に美しかった。夕方まだ明るいうちの月もいいものである。

 


テート美術館展から その3の補足

2023年09月25日 12時24分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 今朝になってから、昨晩取り上げたジェイコブ・モーアの《大洪水》を見ながら、旧約聖書の「ノアの洪水」の部分第6章~10章を読み返した。同時に再度図録を拡大鏡で見直した。
 聖書では箱舟に乗ったのは、ノアと妻、3人の子とその妻の計8人となっている。
 拡大鏡で図録を見ると確かに舟の上にいる5人のほかに、右側と艫に半身だけの人物がいる。また舟の先に浮かんでいるのも一人の人物に見えないことは無い。そうすると創世記の記述のとおりの8人になる。
 ここまでは作品が創世記の記述にのっとっていることはわかる。しかし舟の上の5人も項垂れ、疲労困憊、絶望の極みのような姿勢である。半身海の中の2人、浮かんでいる1人にも世紀は感じられない。
 多くの人は、アララト山の頂上に着地した箱舟から鳩を放ち、オリーブの枝を持ち帰った鳩をさらに7日後に放って、収容した動物とともにノアの一家は舟を離れる。こうして神はノアと契約を結ぶ。アダムとイヴに述べたことと同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ。‥雲の中にわたしの虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。‥」
 この雲の中の虹がこの作品の中心の太陽によって生ずる直前を描いたのだろうか。それにしては登場人物は死に体である。希望を感じることは無い。また収容し放たれた動物などは省略されたにしろ、情景はどう見ても難破船と遭難者である。洪水や暴風や津波という自然の災禍をまともにくらった瀕死の人間が描かれているとしか思えない。
 私には、さまざまな自然の災禍に打ちのめされ、瀕死の体験を経つつも、生きつづけざるを得ない人間の弱さもしぶとさも感じる。絶対神と自然崇拝の間を揺れ動く神の概念、言葉と思想を得て人間が生んだ神という概念に逆に翻弄されてしまう矛盾、そんなことを作者は気がついているのではないか。
 あたかも1787年の作、2年後はフランス革命の年である。神の呪縛が融けていく時代が始まっている。