横浜駅から歩き始めたとき、頬に微かに冷たいものが当たった。雨ではなかったが、果たしてそれが雪であったのか、わからずじまい。雪がちらついてもおかしくないほどの気温だったと思う。
団地の西側から大晦日の日の入りを見ようとしたが、雲が多くて無理であった。微かに富士山が見えている。
私個人的な好みは、日の出の曙光よりも入日・落日の空のほうがいいと思っている。だいたいが寝坊の私には日の出を見るなど無理な話。山に行ってもいつも日の出は見損なっている。日の出と雲海の組み合わせが美しいと言われて、同行者に起こされてもすぐに布団にもぐり込んでしまっていつも呆れられていた。
帰宅してから最後の一仕事で部屋の片付けはようやく終了。本年のやり残していることは、夜のウォーキングとブログの最後の更新だけとなった。
朝のうち横浜では雨がパラついた。東京ではこれが雪となったようだ。大晦日の雪とは珍しいのではないだろうか。
ようやく机の上の整理と本箱の若干の移動が終了。あとは机とパソコン台の周囲の雑巾がけと部屋全体の掃除機がけ。疲れたので雑巾がけ、掃除機出動は夕方にすることにした。
昼は三が日に食べる「煮〆」の試食。まだ味が浸みていないが、八つ頭と昆布が美味しかった。
妻の台所仕事がもう一段落したら横浜駅まで出かけてコーヒータイムの予定。
★大年の暮れてゆく山仰ぎけり 茨木和生
ようやく机の上の整理と本箱の若干の移動が終了。あとは机とパソコン台の周囲の雑巾がけと部屋全体の掃除機がけ。疲れたので雑巾がけ、掃除機出動は夕方にすることにした。
昼は三が日に食べる「煮〆」の試食。まだ味が浸みていないが、八つ頭と昆布が美味しかった。
妻の台所仕事がもう一段落したら横浜駅まで出かけてコーヒータイムの予定。
★大年の暮れてゆく山仰ぎけり 茨木和生
明日はいよいよ大晦日。といっても特に私はすることもない。部屋の片づけの仕上げと、お屠蘇の用意くらい。あとは買い物の荷物持ち。
私の部屋以外の我が家の大掃除は妻に任せっぱなし。正月料理も大晦日の夜の食事の支度もおまかせ。すっかりぐうたら亭主が板についている。これほど恵まれた夫というのも、最近では稀有の存在なのだと思っている。
拝まなければいけないのは、初詣の神仏ではなく、わが妻ということになる。
私の部屋以外の我が家の大掃除は妻に任せっぱなし。正月料理も大晦日の夜の食事の支度もおまかせ。すっかりぐうたら亭主が板についている。これほど恵まれた夫というのも、最近では稀有の存在なのだと思っている。
拝まなければいけないのは、初詣の神仏ではなく、わが妻ということになる。
昨日、銀行に行って記帳をしようとしたら、ATMの前は長蛇の列。10数台もあるATMのコーナー、いつもと違って二つのグループに分けて並ぶように誘導していた。それでもATMのコーナーはいっぱいの人。私もやむなく並んで記帳だけ済ませた。あとから妻に「記帳だけなら専用の機械があったのに」と教えてもらった。そういえば後ろにあった両替機ともう1台には誰も並んでいなかった。「先に教えてくれよ」とぼやきつつ、特に急ぎの用事もないので5分ほどの待ち時間は苦にはならなかった。年末・正月休みのための現金化なのだろうか。整理にあたっていた行員もガードマンも声を枯らしていた。
部屋の片づけは午前中に2時間ほど頑張ってみた。一応ほとんどの「紙」類は廃棄。明日はシュレッダーの出番。とりあえず31日までには終わりそうな気配である。ただし、美術展などの図録がもう収納する場所がない。
新しく購入した「ゴッホ展」の図録、どこにしまうかあてがない。古い本を売り払うか、捨てるか、年度が替わるまでに決断しなくてはいけないようだ。
部屋の片づけは午前中に2時間ほど頑張ってみた。一応ほとんどの「紙」類は廃棄。明日はシュレッダーの出番。とりあえず31日までには終わりそうな気配である。ただし、美術展などの図録がもう収納する場所がない。
新しく購入した「ゴッホ展」の図録、どこにしまうかあてがない。古い本を売り払うか、捨てるか、年度が替わるまでに決断しなくてはいけないようだ。
朝は退職者会のホームページの更新を行った。先週の幹事会の模様など3つの記事をアップした。これが予定より時間がかかった。
その後、机の上の片づけを再開、シュレッダーを駆使してかなりの書類を廃棄。しかしまだ机はきれいには片付かない。
★おでんやのうしろに夜の波止場あり 鮫島春潮子
横浜駅のすぐ近くの川沿いに50メートルほどにわたって、十数件のおでん屋台が並んでいたが、いかんせん道路の不法占用であった。屋台も移動式ではあっても現実には固定してあった。
しかし長年の営業が続いて、定着していた。私も年に数回は利用していた。冬におでんは確かに美味しかった。横浜ならではの具としてシューマイがあった。焼酎の水割りを頼むと大きなコップに4割ほども焼酎を入れ、かち割り氷も大きかった。アルコール類1杯もおでん一皿も同じ値段で清算してくれた。決して安くはないが、小さな細い木のベンチで肩を並べて呑むアルコールとおでんはとりわれ美味しく感じたものである。
ベンチに座ると川の向かい側に立つ大きな商業ビルのあかりが明るいのだが、ベンチが低いこともあり、その明るさよりも幅の広い河の暗い水が目の前に迫る。護岸のコンクリートが高く、川面にうつるはずの商業ビルの明かりはさほど気にならないのも不思議だった。明かりが写らない夜の河、それも流れがほとんどない澱んだ河は闇の塊のようにも見えた。
しかし水道も便所もなかった。大きなポリバケツにためた水で皿を洗い、ペットボトルの水が水割り用。便所は向かい側のパチンコ屋のを利用できたらしいが、ほとんどの人は路地で立ちション。やはり衛生上大きな問題を抱えていた。
それが2年前だったか、とうとうきれいに撤去された。今ではもう跡形もなく、若い人はそこに屋台が並んでいたことすらもう忘れているであろう。
私はバス通り側から1軒目、2軒目、3軒目の店をよく利用した。あるとき一年ぶりにくらいに寄ったら、店のおかみさんに「久しぶり」と云われた。あんまり来ないのだから覚えているわけなどないと、思っていたら「あなたはひたすら食べて、ひたすら飲んで、しゃべらずに去って行くので、とっても印象に残っている」と云われた。そんなおかみさんに挨拶することもなく、撤去された屋台迹を今も歩いている。
冬になり、おでんが恋しくなると思い出す。
その後、机の上の片づけを再開、シュレッダーを駆使してかなりの書類を廃棄。しかしまだ机はきれいには片付かない。
★おでんやのうしろに夜の波止場あり 鮫島春潮子
横浜駅のすぐ近くの川沿いに50メートルほどにわたって、十数件のおでん屋台が並んでいたが、いかんせん道路の不法占用であった。屋台も移動式ではあっても現実には固定してあった。
しかし長年の営業が続いて、定着していた。私も年に数回は利用していた。冬におでんは確かに美味しかった。横浜ならではの具としてシューマイがあった。焼酎の水割りを頼むと大きなコップに4割ほども焼酎を入れ、かち割り氷も大きかった。アルコール類1杯もおでん一皿も同じ値段で清算してくれた。決して安くはないが、小さな細い木のベンチで肩を並べて呑むアルコールとおでんはとりわれ美味しく感じたものである。
ベンチに座ると川の向かい側に立つ大きな商業ビルのあかりが明るいのだが、ベンチが低いこともあり、その明るさよりも幅の広い河の暗い水が目の前に迫る。護岸のコンクリートが高く、川面にうつるはずの商業ビルの明かりはさほど気にならないのも不思議だった。明かりが写らない夜の河、それも流れがほとんどない澱んだ河は闇の塊のようにも見えた。
しかし水道も便所もなかった。大きなポリバケツにためた水で皿を洗い、ペットボトルの水が水割り用。便所は向かい側のパチンコ屋のを利用できたらしいが、ほとんどの人は路地で立ちション。やはり衛生上大きな問題を抱えていた。
それが2年前だったか、とうとうきれいに撤去された。今ではもう跡形もなく、若い人はそこに屋台が並んでいたことすらもう忘れているであろう。
私はバス通り側から1軒目、2軒目、3軒目の店をよく利用した。あるとき一年ぶりにくらいに寄ったら、店のおかみさんに「久しぶり」と云われた。あんまり来ないのだから覚えているわけなどないと、思っていたら「あなたはひたすら食べて、ひたすら飲んで、しゃべらずに去って行くので、とっても印象に残っている」と云われた。そんなおかみさんに挨拶することもなく、撤去された屋台迹を今も歩いている。
冬になり、おでんが恋しくなると思い出す。
本日は東京都美術館にゴッホ展を見に行った。帰りに案内を見ると「現代の写実-映像を超えて」と「近代の写実」展が開催されていた。ゴッホ展の半券提示で無料ということで、3つに分かれた展示を見て回った。
展覧会の案内には「東京都美術館、東京藝術大学などがある「上野」は、多くの芸術家が育ち、輩出してきた長い歴史のある芸術家のメッカです。なかでも「公募展のふるさと」とも言われる東京都美術館は、さまざまな芸術家の発表と成長の場として大きな役割を果してきました。その歴史の継承と未来への発展のために、一定のテーマを決めて、現在公募団体で活躍している現代作家を紹介するシリーズ「上野アーティストプロジェクト」を開催します。第1回のテーマは「現代の写実― 映像を超えて」です。都市の看板や大型スクリーン、そしてテレビやスマホなどを通して写真やビデオの映像情報がめまぐるしく氾濫する現代社会の中で、絵画でしかできない「現代の写実」を真摯に追究する画家たち9人を紹介します」と紹介されている。
同時に「近代の写実」展については、「東京都現代美術館所蔵品の中から、明治、大正、昭和の写実的洋画を紹介します。明治洋画の先駆者本多錦吉郎による精緻な油彩表現、大正期の洋画グループ「草土社」の一員だった河野通勢による細密な油彩とデッサン、さらに昭和前期の人々の暮らしと社会の様相をヒューマニズムに満ちたまなざしで描き出した池部鈞と吉井忠、そして穏健な写実による画風で知られる牧野虎雄など。明治、大正、昭和の美術と公募団体を支えた洋画家を中心に展示して、写実絵画の近代を紹介する展覧会です」と記されている。
私は小野田尚之の「発電所跡」(2013年)が強く印象に残った。この喪失感、虚無感が私の心に共振した。残念ながら私の鑑賞眼が至らないためと思われるが、他の作品については今ひとつ心は動かされなかった。「近代の写実」展も同様の感想であった。
本日ゴッホ展に出かけるまでに聴いているのは、昨日と同じシューマンの「クライスレリアーナ」。ただし演奏は伊藤恵で録音は1988年。伊藤恵のシューマンのピアノ作品全曲録音のシューマニアーナの第1巻。ショパンに献呈されたこの「クライスレリアーナ」は初期の作品ながらシューマン自身がもっとも「最良のもの」といったという作品。第2曲が気に入っているが最近第8曲もいいと思うようになった。
最近知ったことであるが、伊藤恵はショパンの「24の前奏曲」とこのクライスレリアーナを同梱でCDを出したらしい。バッハの「平均律クラヴィーア曲集」に倣ったというショパンの「24の前奏曲」と、シューマンとの組合せ、是非聴いてみたい気がするのだが‥。このふたつの組み合わせ、どういう意図の組み合わせなのだろうか。
妻も大掃除と正月の料理作りにつかれたのであろう。「明日は上野の東京都美術館にでも行きたい」と言い出した。「ゴッホ展-巡りゆく日本の夢」のリクエストである。願ってもないお誘いなので、同行することにした。出かけるのは午後になるであろうが、私も楽しみである。
妻は国立近代美術館の「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」展も見に行きたいと言っていた。猫の絵を見たいとのこと。こちらは来年の3月までの会期なので後回しである。
混雑していないことを願うのみ。
妻は国立近代美術館の「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」展も見に行きたいと言っていた。猫の絵を見たいとのこと。こちらは来年の3月までの会期なので後回しである。
混雑していないことを願うのみ。
一応私も年末年始の一環としてさっぱりしようと理髪店に行った。いつもの1000円の理髪店である。本日は木曜日、それも14時過ぎなので普段はそんなに混むことはないのだが、年末ということで、10人ほどが並んでいた。急ぐこともないので待つことにした。待っている間、店のなかに掲げられている日付の数字の大きな暦をそれとなく見ていた。写真もなく、書き込みもない暦であるが、薄黒いシミがあった。そのシミも含めて、暦というのは見ていて飽きないものである。
★古暦過去を捨て去るごとく捨つ 戸田豊
★海に出て暦の果を漂へり 佐々木六戎
過去を捨てることなど私にはとてもできない。過去を忘れることもできない。過去は捨てたり忘れるのではなく、止揚するのであると教わり、体得し、身につけて来た。第1句のように振る舞えるようになるというときには、それなりの内部のつらい葛藤が横たわっている。人から見れはそれは古着をさっと脱ぎ捨てるように新しい衣をまとって飛び立つように見えて、その実は棄てられない過去をどこまでも引きづっているものである。飛び立つさっそうとした姿ばかりを追いかけていては、人は物事の本日を見ることは出来ない。第2句のようにためらい、逡巡し、漂い、逡巡しながらあらたな暦を獲得できる。ここに着目した第2句に私は句の深みを感じる。
過去を捨てられなくて七転八倒、もがき続けて人は始めてその生を全うする。
★古暦過去を捨て去るごとく捨つ 戸田豊
★海に出て暦の果を漂へり 佐々木六戎
過去を捨てることなど私にはとてもできない。過去を忘れることもできない。過去は捨てたり忘れるのではなく、止揚するのであると教わり、体得し、身につけて来た。第1句のように振る舞えるようになるというときには、それなりの内部のつらい葛藤が横たわっている。人から見れはそれは古着をさっと脱ぎ捨てるように新しい衣をまとって飛び立つように見えて、その実は棄てられない過去をどこまでも引きづっているものである。飛び立つさっそうとした姿ばかりを追いかけていては、人は物事の本日を見ることは出来ない。第2句のようにためらい、逡巡し、漂い、逡巡しながらあらたな暦を獲得できる。ここに着目した第2句に私は句の深みを感じる。
過去を捨てられなくて七転八倒、もがき続けて人は始めてその生を全うする。
本日はいわゆる「御用納め」「仕事納め」。最近は勤務時間の流動化で「一斉に」ということが少なくなっているという。「一斉休業」ということばがかすんでしまった。
私の職場ではそれまでの一週間をかけて原材料の棚卸や在庫確認も済ませ、この日までに忘年会は終わっている。この日は就業時間までに執務室の掃除や片付け、机の周囲の書類の整理などいわゆる大掃除を終了。就業時間とともに軽くビールを飲んで、後片付けを終わると近くの居酒屋に繰り出した。
ひとりの時間を持つのは29日。しかしその29日も今度は自分の部屋の片づけを妻に厳命されて、あたふたとする。これが毎年の恒例であった。
この毎年の「繰り返し」を思い出していたら、「繰り返しの妙」ということで、シューマンのクライスレリアーナを思い出した。第2曲が好きである。8音の山なりの音階が繰り返し出てくる。特に発展するわけでもないのだが、飽きることがない。モーツアルト、シューマンという人は実に音階を美しく聴かせる名人だと思う。たぶん誰かの指摘があったと記憶している。
本日はアルトゥール・ルビンシュタインの演奏でこの曲をかけてみた。
私の職場ではそれまでの一週間をかけて原材料の棚卸や在庫確認も済ませ、この日までに忘年会は終わっている。この日は就業時間までに執務室の掃除や片付け、机の周囲の書類の整理などいわゆる大掃除を終了。就業時間とともに軽くビールを飲んで、後片付けを終わると近くの居酒屋に繰り出した。
ひとりの時間を持つのは29日。しかしその29日も今度は自分の部屋の片づけを妻に厳命されて、あたふたとする。これが毎年の恒例であった。
この毎年の「繰り返し」を思い出していたら、「繰り返しの妙」ということで、シューマンのクライスレリアーナを思い出した。第2曲が好きである。8音の山なりの音階が繰り返し出てくる。特に発展するわけでもないのだが、飽きることがない。モーツアルト、シューマンという人は実に音階を美しく聴かせる名人だと思う。たぶん誰かの指摘があったと記憶している。
本日はアルトゥール・ルビンシュタインの演奏でこの曲をかけてみた。
納豆汁の記事をアップしたら、知人が「山形では芋がらを入れるのか必須」と写真入りで指摘してくれた。(⇒「A Story of Love&Hate」 @naokisato)。
指摘してくれたのは多分、山形盆地を中心とした村山地方のことだと思う。山形県は地域的にも村山地方、置賜地方、庄内地方、最上地方の4つの地方に分類され、歴史や文化、そして味にも違いがあるといわれる。
妻は庄内地方の作り方なので微妙に味付けも違いがあるようだ。妻は芋がらを入れるということについては初耳だという。私も初めて聞いた。今度機会があれば、挑戦してみたいものである。
指摘してくれたのは多分、山形盆地を中心とした村山地方のことだと思う。山形県は地域的にも村山地方、置賜地方、庄内地方、最上地方の4つの地方に分類され、歴史や文化、そして味にも違いがあるといわれる。
妻は庄内地方の作り方なので微妙に味付けも違いがあるようだ。妻は芋がらを入れるということについては初耳だという。私も初めて聞いた。今度機会があれば、挑戦してみたいものである。
22時5分ごろ地震があったが、妻も私もたまたま近くのドラッグストアからの帰り道を歩いていたので気がつかなかった。
震源地は千葉県北西部で、震源の深さは約80km、マグニチュードは4.5と気象庁では発表している。私の家の近くでは震度2、保土ヶ谷区と港北区で震度3を記録したところがあるようだ。
最近地震を感じないなぁと話したばかりであった。災害は忘れた頃にやってくる、というがやってこないことを期待したい。といっても残念ながら火山と地震の巣の上の列島では無理な話だ。
震源地は千葉県北西部で、震源の深さは約80km、マグニチュードは4.5と気象庁では発表している。私の家の近くでは震度2、保土ヶ谷区と港北区で震度3を記録したところがあるようだ。
最近地震を感じないなぁと話したばかりであった。災害は忘れた頃にやってくる、というがやってこないことを期待したい。といっても残念ながら火山と地震の巣の上の列島では無理な話だ。
15時過ぎにはまだ机の上の書類の整理は端緒についたばかり。疲れたと思った途端に買い物の荷物運びの依頼が来た。これさいわいに机の上の片づけは止めて、荷物用のリュックを背負って付き従った。街中や、スーパーの店のなかはさすがに年の瀬の活気があふれている。
★歳晩やひしめく星を街の上 福永耕二
★はらわたの紆余曲折を年の暮 中原道夫
第2句、はらわたで感じる年の暮、なかなかの感慨だと思う。腹に据えかねるさまざまな思いも「年の暮」ということで、何とかおさめたうえで、新しい年を迎えようというのであろうか。しかし腹に据えかねること、腹膨るることはそう簡単におさまってしまうものなのだろうか。出来の悪い私にはなかなか出来そうもない。
★歳晩やひしめく星を街の上 福永耕二
★はらわたの紆余曲折を年の暮 中原道夫
第2句、はらわたで感じる年の暮、なかなかの感慨だと思う。腹に据えかねるさまざまな思いも「年の暮」ということで、何とかおさめたうえで、新しい年を迎えようというのであろうか。しかし腹に据えかねること、腹膨るることはそう簡単におさまってしまうものなのだろうか。出来の悪い私にはなかなか出来そうもない。