Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

昨日の読書「図書11月号」(岩波書店)

2016年10月31日 22時29分05秒 | 読書
 昨日から本日の朝にかけて横になりながら、「図書11月号」(岩波書店)をつらつらと読んでいた。
・「今、政治まんがは」(佐藤正明)
・「漱石の「一字下ゲ」」(宗像和重)
・「ヒマラヤの秘境ラダック紀行」(色川大吉)
・「ほんとうはよく分からないこと」(高村薫)
・「月を愛でる-抱一のクレイク・オブライエン現象-」(三浦佳世)
・「思想家の自信」(若松英輔)
・「山之口貘と向き合う」(池澤夏樹)

 色川大吉、高村薫、三浦佳世は毎号楽しみにしている。今回池澤夏樹は嬉しかった。山之口貘の詩集を読んでみたいと思っていたところであった。岩波文庫で山之口貘詩集が観光になっていて購入しようかと思っていた。私が理解できるか自信がなかったので購入をためらっていた。今回の論評を読んだからといって理解できるかどうか、疑わしいが購入して読んでみたいという意欲は湧いてきた。
 転送性に関する高村薫氏のエッセイは私の気持ちと極めて近い。「「象徴」という言葉の意味がよく分からなかったし、いまも分からない。「象徴」であるゆえに、天皇は国民の前では生身の人間の顔を隠し、タブーに包まれ、見えないヴェールで国民と隔てられいるのだが、ここに国家の制度としての無理はないのだろうか。この自由な日本で、込みんが<これは言ってはならない>と反射的に口をつぐむような対象として在る「象徴」とは、いったい何なのだろうか」。なかなか惹かれる言葉である。
 色川大吉の「チベットの自立実現の可能性が今の中国共産党独裁の政権下にはほとんど無いことを思い、重いこころをひきずってレーを離れる」にも同意をしている。

本日から「馬車道まつり」

2016年10月31日 20時58分26秒 | 山行・旅行・散策
      

 出かける寸前に妻から本日から「馬車道まつり」であることを教わった。新聞の折り込みチラシの中に案内が入っていたとのこと。
 最近は毎年11月3日に馬車道に吹奏楽の演奏を聴きに行っているが、本日が初日で本日(10月31日)は「ガスの日」で1872年10月31日は馬車道に最初にガス灯が灯った日ということであった。

 17時ちょうどからのジャズ演奏は「菊地虔郎とトワイライトセッション」というグループ。会場横では、ワイン1杯200円、お代わり100円のサービスがあり、二人で3拝飲んだ。風もなく、のんびりととてもいい演奏を楽しませてもらった。17時45分過ぎからの点灯式を見た後、家で夕食タイム。
 今年はジャズプロムナードを聴くことが出来なかったけれど、短時間であってもいい演奏を聴くことが出来て満足できた。

バッハ「ブランデンブルグ協奏曲」全6曲

2016年10月31日 13時50分29秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 10月最後の日、秋らしい陽射しがときどき射して、静かな午前中であった。本日は特に予定がなく、のんびりしている。

      

 朝からバッハの「ブランデンブルグ協奏曲全6曲」を聴いている。この曲集は私が一番最初に購入したレコードである。演奏者はこのCDの演奏者ではなく、記憶ではイ・ムジチ合奏団だったと微かに記憶しているが、自信がない。演奏者に興味がなかった。多分1965年、中学2年位だったのではないか。4枚組だったと思う。翌年に「四季」を購入したと思う。
 当時家にステレオのセットを購入したばかりだったが、南北を丘に囲まれた低地を造成した家今でFMもAMも電波状態が悪く、視聴できなかった。テレビのアンテナにFMのアンテナ端子を接続するなどという技は理解していなかったのでほとんどステレオ装置は意味をなしていなかった。レコードを購入する趣味は両親にはなく、今思うと何のために購入したか不明である。そこで私が小遣いを貯めて購入したブランデンブルグ協奏曲をかけた。父親は最初は珍しそうに聴いていたが、二度目はもう興味を失ったようだ。
 どういうわけか、当時私は第5番がとても気に入った。第1楽章から第3楽章まですべて頭の中に定着している。何回も聞いたので、とうとう第5番だけ雑音がひどくなり、高校2年生の頃には第3楽章針が飛ぶようになってしまった。飛んだところから先に再度針を置き直して聴いていた。何かにとりつかれたように第5番ばかり聴いていたと思う。
 下塾先にはこのレコードは待って行かなかった。
 就職してしばらくしてレコードプレーヤーを処分するときにすべてのレコードもまとめて廃棄してから、この曲を聴くことは無くなっている。たまにFM放送で耳にすることがあった程度である。

 このCDは1978年に録音したものを1980年代後半にCD化したもの。1990年代に再度発売されたようだ。私はたぶん十年ほど前に購入している。演奏者にヴァイオリンにヨゼフ・スーク、フルートにオーレル・ニコレという往年の懐かしい名前にひかれて購入したと思う。

            



ストーブを出して来た

2016年10月30日 23時11分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩から寒くなり、例年私の部屋を暖めるために浸かっている小型のガスストーブを、押し入れから妻が出してきてとりあえず居間に据えた。毎冬部屋が18℃を切るとストーブに火をつける。温風が噴き出す式のストーブだが、やはり暖かい。21℃になるとストーブのスイッチは切ってしまう。妻の操作はなかなか厳格である。毎年居間に置く大きい方のストーブはまだ仕舞ったままである。
 せっかく出したストーブであるが、居間に置いてあるので、私の部屋はまったく温まらない。パソコンに向かっている間の私の部屋の温度は18℃以下のまま。一応は文句らしきことは云ったが残念ながら却下された‥‥。
 やはり5階建ての1階は温度が低い。それでも部屋の中は外気温よりは通常はこの季節で3℃は高い。

 明日はまた20℃近くまで気温が上がるらしい。太陽も少しは顔を出すようだ。
 明日は予定がはいっていない。予定が入っていないと何やら落ち着かない。

バッハ「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」#4~#6

2016年10月30日 21時01分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日に続き、シェリングとヴァルヒャ―の組み合わせによる「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」のCDの2枚目、ソナタの4番から6番を聴いている。しかし私はあまりこれには惹かれない。第1番から第3番の方に惹かれる。どういうわけなのか分析したことはない。
 あえていえば、以前から感覚的には第4番の第3楽章には惹かれていた。どこか寂しい。だが、バッハの醸し出す寂しさは首を下に垂れさすまではいいが、それで終わってしまうもどかしさがある。安易な救いのような曲調にならないことはいいのだが、寂しさに浸る気分になる前に終わってしまうのだ。何か肩透かしを食らったような気分である。
 ケチ付けのような感想といわれるのは承知をしているが、昔感じてしまった感想から抜けられないでいる。
 今回あらためて聴いて、第5番の第1楽章のヴァイオリンとチェンバロ応答に惹かれた。これはこれまで気がつかなかった。静かな落ち着いた会話を聴いているようだ。6曲の中ではもっとも長く6分48秒の楽章である。それだけ余計しみじみと聴くことが出来る。こういう発見というか気づきがあると嬉しいものである。
 なお、第6番の第3楽章はソナタといってもチェンバロの独奏曲である。

 


ベトナムフェスタ in 神奈川 2016

2016年10月30日 18時06分27秒 | 山行・旅行・散策
 とても寒い一日となった。13時前に記録した横浜の最高気温葉気温が13.7℃となっている。風も4m。体感温度は10℃を切っていたと思う。

   

 神奈川県庁舎前の日本大通りを中心に「ベトナムフェスタ in神奈川 2016」が本日までなのでフォーを安く買いたいとのことで出かけた。

   

 会場は多くの人が来ていて、食べ物の店はフォーなどを求めて長い列ができていた。昼食として鶏のフォーとバイミーとベトナムビールを各500円で購入、植樹枡の囲いに腰かけて食べた。決して安くはなかったけれど長い列の割にはすぐに購入出来て満足の味。
 山下公園の像の鼻地区に水上人形劇の舞台もセットされていてまもなく開演だったが、ハノイで見たので省略。大通公園のステージはドクター・ミケという日本のグループが登壇したばかりだったが、あまりの大音量に耳を塞いで逃げ出してきた。幾らなんでも、声が割れて聴きづらいあんな大音量のスピーカーの前にたむろしていられるのか、私には理解できなかった。あれではせっかくの舞台のパフォーマンスが台無しである。



 横浜公園の手前の物販の店でフォーなど6点とニョクマム1本を1300円で購入して帰宅。

 天気は結局太陽はまったく顔を出さず、熱い雲のまゝ一日が過ぎてしまった。

インフルエンザ予防接種

2016年10月30日 11時22分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年もインフルエンザの予防接種の頃合いとなってきた。最近はできるだけ接種を受けるようにしている。65歳になったことでもあり、多少は安くなるかもしれないと思い、横浜市のホームページをのぞいてみたら、65歳以上は2300円となっている。医療機関はかなり掲載されている。
 来週あたり実施している病院に出向いてみるつもりである。

 65歳以上のインフルエンザ予防接種の費用が安くなるのは、どの自治体も全国的に一律の対応のようでうる。それぞれのホームページの状況はほとんど同じ様式なので、国の関与なのだろうと思う。しかし自己負担額には自治体ごとにかなり差がある。政令指定都市でも差がある。同じ神奈川県内でも自治体ごとに差がある。
 横浜市と川崎市は同一で、2300円となっている。東京の区部は2500円。ちなみに横浜市に隣接する同じ政令指定市の相模原市は1700円。横浜市に隣接する都市では、横須賀市は1700円、藤沢市は1600円、鎌倉市は1700円、大和市は2000円。東京都町田市は2500円。
 東京都から西に次第に安くなっているともいえる。それぞれの自治体の歴史的な経過や地域事情、財政事情などの累積の結果だと思われる。私はそのことに異論はない。市長や議会の政策的な力点の置き方でも差は出てくる可能性は否定するわけにはいかない。人口の密集地域か否か、高齢化率の評価の仕方‥。ただし説明責任はある。
 横浜や川崎など広域の自治体は大体の市民は市内での医療機関を受診する場合が多いだろうが、それでもかかりつけの病院な隣接する市にあったりすると面倒なのかな、と思ったりもする。「公平」であろうとすることと、「公平感」との間に横たわる溝というのはいつも難しい。


欲の深さ・・・

2016年10月29日 22時41分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では雨が降り始め、一時は本降りとなった。一応今は降ってはいない。明日の天気予報は曇。最高気温が15℃となっており、本日よりも5℃も低い。長袖1枚では寒い。
 明日は予定は無いが、出歩くほどには裕福ではないので、一日家でくすぶっていなくてはいけないらしい。読書三昧となるか、ただ寝ているだけの日になるか、あるいは鈴木其一の感想をまとめられるか‥‥。
 見に行きたい美術展はいくつもある。読みたい本は膨大にある。歩きたい個所も数知れずある。
 人は欲張ってはいけないという。しかし貪欲さを一概には否定できない。人は自分の尺度に合わせて他人の欲深さを評価する。残念ながらいつも基準は「自分」である。時間とお金が足枷になる。時間とお金におおきく関与しているのが家族である。人間の振舞いにブレーキをかけるのもアクセルをふかすのも家族である。家族の意向を無視しては欲も貪欲もない。自分と家族の関係の中でもがき続けるのが、人生なのだろう。
 家族という関与がなくなったら、私は糸の切れた凧のようにどことも知らずに飛んで行ってしまうことは確実だ。
 だんだん自分が情けなくなるので、本日はこの辺で就寝としよう。

本日からの講座「日本ナショナリズムの解剖学その1」

2016年10月29日 13時11分43秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日からはじまる講座は「日本ナショナリズムの解剖学 その1」(講師:橘川俊忠神奈川大学名誉教授)
 不勉強ながら講師の橘川俊忠氏の著作は読んだことがない。
 最近の氏の著述は以下に掲載されている。
「戦争を論じない戦後論の陥穿-「長い戦後」が提起する問題についての考察」
→【http://gendainoriron.jp/vol.07/feature/f01.php
 なかなか示唆に富むと思える。期待している。


バッハ「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」

2016年10月29日 11時02分52秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 このCDは何時頃購入したのか記憶にないが、かなり昔だとおもう。まだCDが主流になる前だとおもう。ヘンリク・シェリング(1918~1988)もヘルムート・ヴァルヒャ(1907~1991)もともにまだ存命の頃だと思う。シェリングは古典的な作品の演奏で評価が高かったといわれている。そしてヴァルヒャはバッハのオルガン作品全集を二度も行っており、バッハのオルガン演奏で有名であった。私などの世代の人間には神様のように云われていた。
 この「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」の録音は1969年。

 この演奏を聴いて最初の曲のヴァイオリンのふたつの弦を同時に弾く重音の美しさ、豊かな音量と確かな音程に驚く。そしてそれは当然のように全曲で味わうことが出来る。重音から単音への移行、その逆もごく自然に音色が変わっていく。弦に弓の全面が吸い付くように演奏されているのであろう。力は感じられないが、響きは豊かである。先日取り上げた天満敦子の力のこもった響きとは対極にあるのかもしれない。
 楽器は、1743年製グァルネリということである。
 オルガンやチェンバロの楽器のことや、奏法のことはまったくわからない。ヴァルヒャについてウイキペディアを調べてみたら、次のような「語録」が紹介されていた。そういえばどこかで聞いたこのあることばである。ヴァルヒャの言であったかと再認識した。
「バッハの音楽は宇宙へと目を開いてくれます。ひとたびバッハ体験をすれば、この世の生にはなにがしかの意味があることに気づきます」。

 私の好みは第2番の第1楽章と第3楽章。切れ目のない旋律を切れ目なく弾ききるボウイングは右手首の柔軟さとタイミング。上げ弓から下げ弓に変わる時、逆も同じだが、どうしても弓をとおして弦にかかる力に差が出てしまう。それが感じられない。ごく初歩的ともいえる演奏技能だが、だからこそ人に悟られないように弾くのはとても難しい。重音の演奏もしかり、そのような所で破たんを見せないということは確かに名人芸であると思われる。

         

「秋風秋雨人を愁殺す」

2016年10月28日 21時55分28秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は新聞づくりですっかり草臥れてしまった。いつもの内科から帰った後、購入したワンカップを飲みながら半分眠ってしまった。食事ができて起こされてすぐに夕食。眠気の方が強かった。食事後もこれといってなにごとをするでもなく、何となく時間を過ごしている。
 外は冷たい雨が降り続いている。朝から強風注意報が発令されたままである。今夜は布団をかぶって寝てしまうのが一番いいようだ。

★町ふかく吹く秋風を聴きねむる     石田波郷
★秋風や殺すにたらぬ人ひとり      西島麦南

 秋風の句を探しているときに、西島麦南の句に出会ったが、これから「秋風秋雨人を愁殺す」という言葉を思い出した。魯迅も言及している清末の女性革命家秋瑾。清軍にとらえられ、処刑されるときに「秋風秋雨人を愁殺す」という辞世の句を残した、とされる。魯迅の小説「范愛農」やエッセイ「『フェアプレー』は早すぎる」でも言及されている。武田泰淳にも「秋風秋雨人を愁殺す・秋瑾女士伝」(1968年)という作品がある。武田泰淳の作品は今手元にない。残念ながら古書店に間違えて売り払ってしまった。ちくま学芸文庫だったと思う。懐かしい作品である。再読したいと思った。

 さて、ここに掲げた西島麦南の「秋風や‥」はこの「秋風秋雨人を愁殺す」を踏まえているのだろか。不明である。


本日の作業がどうにか終了

2016年10月28日 18時39分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ほぼ予定の15時半頃に一応ニュースの作成作業は終了。「白桃」というウーロン茶を3煎まで飲んで気分を落ち着けた。熱いウーロン茶はこのような寒い日に気持ちを落ち着け、温まるにはいい。体を暖める効果があると盛んに喧伝されている。確かめたわけではないが、あの香りは確かに気分を落ち着かせてくれる。ちなみに夏には冷やして持ち歩くと水分の吸収がスムーズに感じるが、それはどうも単なる気分的なものらしい。
 降圧剤が本日の夜になくなるので、いつもの内科医院へ。血圧も安定しているので、二週間ごとに通院する必要もないから、ということで4週間分の薬を処方してくれた。診察料のことを考えると費用的にも助かる。
 現在は病院で計測すると130-85の間でおさまっている。むろん降圧剤を服用してのことであるので、薬をやめるわけにはいかない。しかし時々125-82ということもある。自分で計っても上が123~135、下が80~90でおさまっている。薬を飲まずに計測するとどうなるのかはわからない。
 これから寒くなるので、一般的には血圧は高めになるとのことである。私のように薄着で推移する人間は、血圧に対してどのような効果があるのだろうか。負の効果ならば改めなければならないが‥。こんど聞いてみることにしよう。
 病院の帰りについワンカップを購入してしまった。

寒い雨の一日、作業は順調

2016年10月28日 13時07分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 寒い1日、予報どおり昼少し前から横浜でも雨が降り始めた。朝からパソコンにしがみついているので、寒さが身に浸みる。お昼は体を暖めようと、暖かいうどんにたっぷりのネギと揚げを入れ、唐辛子をいっぱいかけて食べた。
 退職者会ニュースはほぼ記事を書き上げた。記事が多いので割り付けに苦労する。記事をあっちへ持って行き、こっちに戻し、ということを幾度も行いながらようやくあと一つの記事を書き上げれば一段落。後は小さな修正、罫線処理、必要なら写真の交換等々、そののち誤字脱字等の点検。夕方までには終わらせたいものである。
 できれば夕食前に傘をさしてでも横浜駅まで歩いてみたい気もする。

 根を詰めて作業をしていたら、CDをかけ忘れていた。昨日と同じバッハ「インヴェンションとシンフォニア集」にしたい。 

閲覧数が200万突破‥感謝申し上げます

2016年10月28日 01時44分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 日付が変わって28日(金)となった。

 先ほど自分のブログを眺めていたら、トータル閲覧数が200万を突破していた。閲覧に来てもらっている方には、心から感謝申しあげます。閲覧数を増やすことを目的とはしていない。あくまでも書きたいことを書いているだけだが、読みにくい文章を読んでいただいていることにあらためて感謝します。始めた頃の文章に比べれば多少は進歩していると自負しているが、いかがであろうか。

 なお、トータル閲覧数とは何かについてブログの説明を探しても定義されていないので私にはまだ飲み込めない。「自分を含む同一人物による閲覧や、検索エンジンなどの機械的なアクセスも、全てカウントします。」と記されているが、ページごとの閲覧数を足しても、それ以上の数となっている。
 それでもとりあえずそのカウントが200万という膨大な数になった。登録したのは2007年7月だが、実質2009年8月から投稿を始めた。現在は毎日2000ほどのカウントとなっている。
 どこまで続けられるかわからないが、引続き楽しみながら書き続けたい。引き続きお目通しをお願いします。
 

新聞づくりは楽しくもあり、つらくもあり‥

2016年10月27日 22時10分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は午前中の講座に出席したのち、夕方から退職者会のニュースの原稿作り。まず何よりも優先して作成してしまわないといけない。明日夕方までにA3の裏表のせめて9割方は作り上げて印刷所に入稿しないと申しわけない。取りあえず5割は作った。のこりを明日中に何とか作り上げたい。
 記事はいっぱいあるのだが、2か月のことを短く全部記載するには無理がある。明日は短くすることの難しさを味わうことになる。少ない記事を多くすることも難しい。どちらが難しいのか、ということでは記事が少ない方が困難であることは十分承知をしている。
 9月は取組みがかなり多かったこともあり、取捨選択が難しい。

 まったくのボランティアであるということが、楽しくもあり、つらくもあるということを増幅している。

 本日は最高気温が昨日よりは3.5℃も低い22.2℃であったが、寒いという感じではなかった。気持のいい日和だったと思う。

本日聞いていたバッハの「インヴェンションとシンフォニア」は、聴いていると気分が落ち着いてくる曲である。こういう曲に出会う楽しみというのはなにごとにも代えがたい。