Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「図書6月号」

2019年05月31日 23時11分08秒 | 読書
 夕食日に、本日手に入れた資料を封筒詰めにして明後日の会議の資料作りが終了。



 さて夕刻家に戻ると岩波書店の「図書6月号」が届いていた。作業終了後に読み始めたが夜のウォーキングで中断。
 目を通したのは次の3編。

・「ルクレチア・ボルジア」を観たあと    司  修
 ここ数か月、司修の描く表紙の作品が明るくそして鮮明である。何か変化が作者に起こったのであろうかとも思った。
 私は「ルクレチア・ボルジア」についての基本的知識がないに等しいので、村松英子の演じるルクレチア・ボルジアとその劇から、作者の夢との関連が皆目見当がつかない。冒頭の作者の姪のエピソードと夢に出てくる少女との関連もわからない。
 だが、とても気になる不思議な作品である。

・或る風景                 三木 卓
「こんんな鮮やかな色彩あふれた風景をだんだん見ることができなくなっていて、83歳の今、とつぜんそれを取り戻したのである。」
 やはり私も「年齢なりの白内障だが、まだ手術の必要性はない」と緑内障の診察のときに毎回言われる。パソコンの画面が見づらくなっている、というよりも不鮮明で見えていない。勘で変換している場合が多い。やはりそろそろ白内障手術を考えた方がいいのだろうか。切実に悩んでいる。

・北斎のたくらみ              朝井まかて
「細部のリアリティがなくては虚構は成立しない。誰しも、それと気づかせない巧妙な嘘には酔いたいが、下手な嘘には興ざめをする。それは現代も江戸時代も変わらない。‥北斎ほどの腕があっての「外し」や「嘘」が真と混然一体となって初めて、観るものをワクワクとさせる遊び心が成立する。北斎はそれをわかっていて、「どうだ」と挑んだ‥」


ホタルブクロ

2019年05月31日 19時41分16秒 | 俳句・短歌・詩等関連
   

 ホタルブクロは蛍袋とも、釣鐘蒼、提灯花、風鈴草ともいわれる。6~7月に咲く、といわれるがすでに私の住む団地で花開いている。

★ほたるぶくろ薄紫七月の思案      大沢君江
★貧しさはほたるぶくろの白さほど    岡本 眸


 第1句、ホタルブクロが薄紫、ここまではなんの変哲もない説明でしかないのだが、七月の思案、が突如として続く。七月の思案と薄紫のホタルブクロの生態、どういう関係なのだろうか。さまざまな思案事で悩んでいるうちに初夏に咲くホタルブクロが目についた。ということだけなのだろうか。思案中のことがホタルブクロが目に映ることで解決したり、ほどけたりしたのだろう。何か小さな解決を得て、ホタルブクロに明かりが灯った、と想像してみた。ホタルブクロは頭の中に灯った幻影かも知れない。その方が面白い。
 第2句、貧しさと白の優ったホタルブクロの花弁の色、これは何の関連もない。しかし妙に「貧しさ」が似合っている。夏の花であるユリの花が強い印象で、悪く言えばこれ見よがしの白である。だがホタルブクロの花弁の白は、控え目である。貧しさに振り回されない自由、活殺さが伝わってくる。願望も含めて‥。

どくだみの花

2019年05月31日 12時07分31秒 | 俳句・短歌・詩等関連
   

 匂いをほとんど感じなくなってしまった鼻であるが、それでも強烈な匂いは記憶に残っていて、匂いではなく鼻の刺激として顔をそむけてしまう場合がある。特に酸っぱいような匂いであったはずのものの場合にその傾向があるように思う。その一つがドクダミである。花の季節になると、見た目には控え目で、好ましい姿であるが、顔を近づけたくない。匂いではなく鼻の刺激に負ける。
 ドクダミという名も強烈である、と思っていたら「毒を抑える」という意味なのだということ、また毒を持っていないことを知ったのは遠い昔のことではない。葉・茎・根は薬用である。繁殖力がとても強く、厄介な植物でもある。別名として十薬がよく使われる。

★十薬のさげすむたびに増えており    大牧 広
★身の丈に生き十薬の花の白       小島日登美


とんでもない間違い、お詫びと訂正

2019年05月31日 11時29分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 通りがかり人様から「庄司福・庄司貴和子」は「荘司福・荘司貴和子」の間違い、と連絡をしてもらった。
 確かに私の地の文章はすべて「庄司」になっていた。「荘司」の間違いであった。急遽ブログの記事は5月以降の分は訂正した。しかしツィッターとフェイスブックに連携している表題が直せない。ブログの内容は訂正はしてあるので、何とか勘弁してほしい。


二十六夜の月

2019年05月30日 23時20分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は2日のイベントの準備を終える予定だったが、本日の昼間に資料がもう一種類明日でないと手に入らないことが判明し、中止。明日また昼頃に関内駅まで出かけることになった。
 夕食後に予定していた作業がなくなり、拍子抜けがして、先ほどからボーッとしていた。テレビは野球を放映しているチャンネルにしていたが、妻は読書中。私も特に何もせずにうつらうつらしていた。テレビの音がいい子守歌になっていた。野球も終わり、結果も見ずにテレビの電源を切ってしまった。妻に結果を聞かれたがまったく記憶にないので答えられず。

 明日から読む本は「絵を見る技術-名画の構造を読み解く」(秋田麻早子、朝日出版社)にとりあえず決めた。根拠は特にない。強いて言えば読み易そうな感じが何となくしたから。そんな予想はだいたいが外れる可能性が高い。

 夜のウォーキングは45分ほどで切り上げてきた。明日は湿度が高くなるという天気予報であった。

 本日は二十六夜の月、逆向きの三日月である。早朝4時頃が月の出。この月の出まで起きていて月を待つのを「二十六夜待ち」ともいう。私にはとても見ることはかなわない月の出である。これから月はさらに細くなって、6月3日が新月である。


本を2冊ゲット

2019年05月30日 20時39分28秒 | 読書
 本日は実に爽やかな日和であった。湿度も低く、気持ちよく歩いた。そして注文していた2冊の本が入荷し、本日神大の生協まで取りに行った。

・「絵を見る技術-名画の構造を読み解く」(秋田麻早子、朝日出版社)
・「マネの絵画」(ミシェル・フーコー、ちくま学芸文庫)


 本を手に入れたあとは、JRの最寄り駅まで歩き、電車で組合の会館のある石川町駅へ。関内駅周辺でもいくつかの用事を済ませた。

 さて、明日はどちらの本から読み始めるか。


「荘司福・荘司貴和子展」感想2

2019年05月30日 19時37分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 作品が大きな転換を経たと思えたのが「物化」(1976、左)と「生々」(1977、右)だと感じた。


 私が以前に見て惹かれた「風化の柵」(1974)とも同じ流れの作品だと思う。
 「物化」の解説に作者の言葉として「風化して行く古い仏像と、風化して行く樹根の構成。樹根であり仏像であるのも一刻の形象」、「生々」には「朽ち果て化石化しようとしている樹幹や草花と、そこに芽吹く新芽を描いている」と記されていた。
 その芽吹いている新芽が画面中央の下側の根をともなっている。新芽よりもさらに生を感じる。また左側には海の生物のヒトデも描かれている。
 「物化」では中央と右に青、左に微かに赤が描かれ、これが生のシンボルと思われる。「生々」では色ではなく、芽やヒトデなどでそれに変えたのであろうか。いづれの作品も黒い背景から浮かび上がる白が樹根や古仏の質感・存在感を際立たせている。



 「刻」(1985)は「一乗谷の朝倉氏居館跡に取材。織田信長に滅ぼされた」とある。
 作者は「石以外は何もない白い空間の中に、多くのものが重なり合って充満している虚の空間、石を見てそんな空間を描いた」と書いている。
 苔むした石の中に、朝倉氏の繁栄の何者かを読み込んだのか、あるいはその石を取り巻く「白い空間」に繁栄の時間の累積を認めているのか。
 苔むした岩・石に拮抗する白い空間、その白い空間が何の象徴なのか、いろいろと詮索したくなる。



「荘司福・荘司貴和子展」感想1

2019年05月29日 23時17分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 先ほどの「読了「美術の力」」に★以下を加えてみた。

      

 さて、以下は「荘司福・荘司貴和子展」の感想を少々。
 展示の概要は図録の表紙の右側に記載してある。
 2009年4月~6月にかけて、神奈川県立近代美術館葉山において、「生誕100年 荘司福展 花、大地、山-自然を見つめて」という全96点が展示された大きな回顧展が開催されている。私はこの展覧会を見損なっている。残念なことをしたと悔やんでいる。2年後の2011年に東京都美術館で開催された「世紀の日本画展」ではじめて荘司福の作品「風化の柵」(1974)を見たときはとても感動した。それ以来、いつか回顧展が開催されないか、期待をして待っていた。
 今回は神奈川県立近代美術館所蔵の作品23点が展示されている。前回の葉山で開催された回顧展の図録でも残っていればとても嬉しいのだが‥。こんど葉山まで足を延ばしてみたいと思っている。以前訪れたときはそのことをすっかり忘れていた。

 今回の展示を見て回って最初に受けた印象は「白」であった。多くの作品で、白く塗られたところが何しろ印象が強いのである。「白」がこの作品群を解くカギなのかとすら思った。



 最初は「千手千眼」(1968)である。京都国立博物館で展示された金戒光明寺の千手観音像に取材しての作品という解説があった。千手観音を見てこのような印象を受け、表現したということに新鮮な印象を受けた。千本の手の印象や千の顔の印象が強く焼き付くのが私の印象だが、千の「眼」と千の手が持つものが作者の眼に強く焼き付いたと思える。そして中央の横に細く鋭く見つめる「眼」が異様である。
 眼の描写では、中央の眼の白目部分だけが白で他の眼の白目部分は黒、手に持つ様々な物のの9点のみが白で他は金、黒目の周囲の虹彩も中央を除いて金という彩色である。
 この白に私はたじろいだ。仏敵に対して厳しく、衆生に対しては柔和な千手観音の一般的な表情が、この眼によって、相対するわれわれを射すくめるようである。手にする様々な品物のうち白と金で色分けしたそれぞれの意味するところは解らないが、中央の白目に視線を誘導するように配置されていると思える。二本の同心円もまた同様の役割を果たしている。
 このように具象と抽象の狭間を飛翔するような表現の作品に私は惹かれる。



 すぐそばに展示されているのが「虚」(1969)。カンボジアのアンコールトムでの取材による。作者は「蒼古とした広大な仏跡の音もなく迫りくるむなしさにうたれ、引き込まれるような息をのむ様な思いであった‥」と記している。
 私この唇のあまりの生々しさ、艶めかしさに驚いた。唇の向かって左側の白い部分がその生々しい、或いは艶めかしいさまを強調している。左右の天女や女神はヒンドゥーの神のようでもあり、さらに艶めかしい。
 「静かに動いていく刻の中で全てのものが形を変え変化して行く、そんな刻々の形にぶつかって、美しいと思ったり、驚いたり、虚しいと思ったり心をゆさぶられる。」
 作者は1967年、67歳で文化大革命のさなかに中国にへ趣き、翌年にインド・ネパール・カンボジアを旅行する。なかなか大胆な行動である。



読了「美術の力」(宮下規久朗)

2019年05月29日 15時07分43秒 | 読書
 予定していた親族の家の工事は早めに終了。助かった。これより日曜・月曜のイベントの資料を揃えに観光案内所まで行く時間が確保できた。明日はその資料の袋詰め作業でイベントのための準備作業は終了となる。

   

 本日工事を見守りながら「美術の力 -表現の原点を辿る-」(宮下規久しい朗、光文社新書)を読み終わった。

 いつものとおり気に入ったところ、気になったところ等々を覚書風に記載してみる。

「子どもの感性や個性を伸ばす自由画教育は、大正デモクラシーの民主的な風潮の下で歓迎され、山本鼎の活躍した信州からやがて日本中に広がった。‥日本の美術教育にもっとも大きな影響を及ぼした思想であったといってよく、一見、子どもの自主性や創造性を伸ばす理想的な理念のように思われる。‥山本は自然という最良の手本さえあればよいと述べているが、子どもはいくら自由に描けといわれても困惑するものである。‥古今の名画を模写する経験は、子どもの技術や鑑賞眼を養うことにもなる。‥創造や個性はいつも模倣から生まれるのだ。‥日本の学校教育の中には、美術作品をどのように見るかを教える「美術史」という科目がない。‥美術とはそのような趣味的なものではなく、文字と同じく、感性だけでなく、知性に働きかけるものでもある。作品の意味や機能、作者や注文者の意図などの知識があれば、鑑賞を深めることができるのだ。日本の美術環境にはこうした技術軽視と知識軽視の伝統が息づいており、それが日本の現代美術がふるわない要因になっている‥。」(第3章 知られざる日本近代美術 クレパスと日本の近代美術 自由画教育運動の功罪)

「西洋とちがって日本の絵画は、公共性よりは、私的な性格が強かった。絵巻も掛軸も屏風も通常は巻いたり畳んだりしてあり、基本的に内輪の者しか見ることがなかった。仏画も基本的に法要の時期のみに掛けられた。春画も、ひそやかな鑑賞にかぎられたために世界でも類を見ない一大芸術に発展した‥。‥太平洋戦争の時代、画家たちに公的な美術を制作する機会が大々的に与えられた。戦争画は、明治以降の西洋画学習の集大成であり、大画面の群像構成や明暗実現などの成果が示されたのであった。‥軍部の圧力で描くのを強制されたとか、戦意高揚のプロパガンダであったというイデオロギー的な観点から戦争画を批判するのはたやすいが、それらは日本で美術がはじめて公共性を獲得した記念碑であり、日本の近代美術の到達点といさてよい。(藤田嗣治の戦争画は)ルーヴル美術館などで見た西洋の歴史画に倣ったものだが、‥自分の画技のすべてを捧げたようだ。生と死のせめぎあう極限状況を表現した藤田の戦争画は、たとえ想像で描いたものであるにせよ、戦争の真実のある一面をとらえているのはたしかだ。」(第3章 知られざる日本近代美術 藤田嗣治の闇)

「(不染鉄の作品は)彼にとっての愛着のある風土の様々な要素を一つの画面に集めたものである。それは結果的に、富士山に抱かれた日本という国土全体の象徴にもなっているようだ。超越的な神の視点ではなく、生活者としてそこに同化できそうな身近で親密な視点であり、郷愁を誘わずにはいない。」(第4章 美術家と美術館 神の視点と人間の視点)

「本来キリスト教は偶像崇拝を認めていないし、プロテスタントでは聖像を拝むことを禁じていた。布教のために聖像を積極的に用いたカトリックでも、聖像は神を見る窓であって、その中に神はいないと規定している。もし西洋で踏絵が行われたとしてもほとんど効果はなかったであろう。キリスト教(カトリック)に入信した日本人の多くは、神を表した像には何であれ仏像と同じような聖性を認めてしまい、それを踏むことをかたくなに拒んで命を落としたのである。信仰の拠り所としてかたちあるものを求め、そこに生命を見出す心性は、禁教下のキリシタンや日本人だけでなく、そもそも人間の造形本能の根本であり、美術を生み出す原動力となっているのだ。」(第5章 信仰と美術 踏絵と信仰)



★そういえば私も小学生の頃は、「見たままを書きなさい」とだけ言われて具体的な描き方や公図のとり方などの指導は皆無だったことをおぼえている。とても苦痛だった。私のような子供は見たままといわれると、実に細部まで細かく描き分けないと気が済まなかったので、気わら一枚、木の一本、葉の一枚一枚、花の中の雄蕊の一本一本を書いているうちに1時間などあっという間に終わってしまい、翌日までに仕上げて来いと宿題となり、そのたびに重い水彩用具を持ち帰らされて、苦痛だった。細部と大まかな描き方のバランスがどうしてもわからなかった。だから「写生」はとても嫌いな課題であった。

★藤田嗣治の評価は私はもう少し言及が欲しい。藤田がなぜあの軍部のプロパンガンダの片棒を担ぐことにのめり込んだのか。これにもこだわった論考を私もしたい、そして聞きたい、読みたい。

本日は一日部屋ごもり

2019年05月29日 09時22分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩、雨が降る前に軽くウォーキングと思い出かけたのだが、15分ほど歩いたところで急に雨が強くなり、慌てて戻ってきた。小さめの傘を持って出たのだが、ズボンも上着もだいぶ濡れてしまった。

 昨晩は平塚市美術館で購入した「荘司福・荘司貴和子展」の図録を読み終わり、気に入った作品をスキャナーで取り込んだりと、2時過ぎまでかかった。夜静かになると作業がはかどるのがうれしい。
 本日は一日がかりで業者が来る予定。親族の家の壁紙の一部張替えをしてもらうので、立ち会うことになっている。パソコンは持ち運びできないので、その時間は読書タイムということにしたい。



平塚の道路を見ながら‥

2019年05月28日 20時12分25秒 | 山行・旅行・散策
               

 平塚駅から平塚市美術館までは1キロ以上はある。旧東海道はアーケード街となっており、本日のような雨の日でも傘を差さずに歩くことができる。
つい現役時代の癖で下水のマンホールの模様を見ながら歩いた。平塚宿を図案化した者、そして何のハンドホールかわからないが七夕を図案化したものが多数路面にあった。七夕を図案化したものは飾りの棹を指すものだろうか。それにしては横断歩道の延長上に位置しているものもあり、よく理解できなかった。仙台の者よりも大きいようだ。
 街路樹として植えられている紫陽花は横浜よりも開花が進んでいるものが多かった。

   

平塚市美術館にて荘司福・荘司貴和子展

2019年05月28日 16時32分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等




平塚市美術館で「荘司福、荘司貴和子展」「空間に線を引くー彫刻とデッサン展」を見てきた。
自宅を出てすぐに雨が降りだし、横浜駅まで歩くことを断念。平塚駅からも小降りの中を歩いた。
荘司福の作品、やはり牽かれた。荘司貴和子の作品もひとつ、どこかで見たような既視感があった。
詳細は後日。

今も小降りながら降っているし、風も強い。ウオーキングは断念。東海道線で横浜駅へ。



風が強い&登戸の惨劇

2019年05月28日 10時16分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩は、夜になって30分ほどのウォーキングをしてみた。南西の風が強くなり、最大瞬間風速は10メートルを超えている。生暖かいと感じた。
 空はすっかり曇って星もまったく見ることができなかった。
 朝になって風の音で目が覚めた。瞬間風速15.5メートルの南西の風が吹いているとのこと。
 さて、夜からは雨が降るという予報。平塚市美術館に出かけ、帰りは辻堂まで歩くのも一興かと考えていたのだが、この風では歩くのはつらいかもしれない。また平塚市の西部では現在小雨ながら雨も降り始めている。ウォーキングは難しそうである。


 朝食が終わって一息ついていたら、川崎の登戸での惨劇のニュースが始まった。朝からこのようなニュースを聞くのはつらいものがある。現場では各種シートも風で煽られており、作業がしにくそうである。
 救急隊員・警察・病院・学校も、むろん被害者の家族も地域でも、区役所・市役所・消防署・消防局・所轄の警察署もその関連部所も大騒ぎであろう。思いつくままに記すと、市の教育委員会、区のたぶん総務課、市長室、市立病院の統括部所、県警本部、知事室‥。報道関係は省略している。近くはバス路線があるようなので川崎の交通局もバスの運行が出来ずに営業所も交通局も対応で追われているはずだ。

 

明日は急遽平塚市美術館

2019年05月27日 23時42分54秒 | 読書
 予定の作業が思ったより進んだので、明日は平塚市美術館に行ってみることにした。ちょっと悲観的になっていたが、問題はなくなった。以前にも概略を記載したが、「荘司福・荘司貴和子展 院展の巨星・創画の新星」について、平塚市美術館のホームページには以下のように記されている。

 荘司福(1910-2002、松本市生)は、女子美術専門学校師範科日本画部(現女子美術大学)卒業後、結婚して仙台に移り住みます。夫と死別後の1941年河北新報社が主催する東北美術展(現河北美術展)に初入選し画家として出発しました。1946年院展に初入選、郷倉千靱の画塾・草樹社の塾員となり研鑽を積むと、次第に院展で頭角を現し、1964年同人に推挙されます。1967年以降千葉、東京を経て1975年に横浜に居を構え、画業の後半生を展開していきます。作品は、初期の構成的な群像表現から、朽ちてゆく物象のモチーフを経て、1960~70年代には中国やインド、カンボジア、エジプトやケニアなどに取材旅行し、仏教遺跡やオリエントの神々の造形に着想を得て壮大なイメージを展開。さらに自然物や自然景を対象とした根源的な世界観の表現へと移行しました。
荘司貴和子(1939-1979、神戸市生)は、東京藝術大学日本画科を卒業後、高校で教えながら制作活動に取り組みました。1964年から新制作協会日本画部に出品を重ね、1973、74年には春季展賞を受賞して画家として頭角を現します。1974年に新制作協会を離脱した日本画部会員により創画会が結成されると、1978年まで創画展に出品。1975~78年にかけて連続して春季展賞を受賞し、その後の活躍が期待されましたが、1979年腸癌のために39歳という若さで惜しまれながら死去します。旅先でみた自然や建物をモチーフにしたその抽象的な作品は、簡潔な構成の中に、どこか懐かしさを感じさせる情感と気品を漂わせ、見るものの心に迫ります。
 1971年以降、義理の親子として一緒に取材旅行に出かけ、それぞれの違いを認めながら制作に励んだ二人は、互いの才能に尊敬の念をもって相対しました。本展では、92歳で没するまで人間や自然と真摯に向き合った荘司福と、若くして没したがゆえに広く知られることがなかった荘司貴和子の作品、併せて約50点を紹介します。


 私は荘司福の「春律」「到春賦」などの作品がどういうわけかいたく気に入っている。キリッと引き締まった風景が好きである。障害の作品を今回見て、私なりの評価がどう変化するのか。庄司貴和子はひょっとしたら横浜美術館で収蔵品があれば目にしている可能性はある。初めて眼にするつもりで臨みたい。

 平塚市美術館は幾度か行っている。なかなかいい美術館であり、展覧会も惹かれるものを多く開催している。期待をしてみたい。
 天気がもてば、そして足が痛くなければ、帰りは辻堂駅まで歩いてみるのも一興である。 

今年初めて蚊にくわれる

2019年05月27日 20時52分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 早くも蚊にくわれた。午後一番で団地内に隔離組合のチラシを配布していたら、いつの間にか左腕が痒い。蚊にくわれてしまった。今年初めての被害である。いつもより間違いなく早い被害である。
 いつものとおり歯ブラシに石鹸液をつけてゴシゴシこするとすぐに痒みは消えた。何処の場所だったか、まるで覚えていない。
 天気予報を聞いていたら、今年は長梅雨で冷夏の予測が出ていた。この暑さからは想像できないが、天気予報氏は結構自信ありげなようすであった。

 横浜駅まで歩いて喫茶店で読書タイム。本日はアイスティー。お酒をたくさん飲んだ翌日は水分をたくさん飲みたくなる。特に紅茶や烏龍茶が欲しくなる。