Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日から台風9号の影響

2020年08月31日 22時25分41秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 一時は大雨警報が横浜市域に出されたものの、現在は雷注意報だけに切り替わっている。横浜市域の北部で弱い雨が降ってほぼ収束した。さいわい私の住む地域は雨は降らなかった。一時市の西部で強い雨が降った。被害は今のところ報道されていない。
 予報では明日の夜に北東から雨の区域が近づいてくるらしい。珍しい動きである。もう少し気温が下がるかもしれない。台風9号の影響という。
 しかし、明日もまた組合の会館へ出かける予定である。当然のように、すくなくとも出かけている間は降らないでもらいたいものだ。

★梯子あり颱風の目の青空へ       西東三鬼
★颱風の心支ふべき灯を点ず       加藤楸邨
★煙突は立つほかなくて台風が来ている  きむらけんじ
 


雷が鳴り始めた

2020年08月31日 17時57分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 

 30分ほど前に帰宅。今雷が鳴り始めた。大和市・座間市が80ミリ以上の猛烈な雨が降っている。横浜市域で西部の市境付近で降っている。
 雨の区域は停滞しているが、少しずつ東に移動しているようにもみえる。風も強まってきた。

 さらにテレビのニュースでは、昨日私が写真に撮った「カナトコ雲」が取り上げられていた。見た方よほど印象深かったのであろう。確かに珍しいが、私は数回は見たことがある。大きな雲なので視界が広くて、少し高いところから見るととても印象的である。
 私が印象深かったのは、筑波山から東京方面にかかっていたカナトコ雲であった。当時の東京がどんな気象だったかの記憶はない。
 それよりも「カナトコ」というものを妻も知らなかった。テレビのニュースでは「カナトコ」の画像が映し出されていた。もはや「カナトコ」は若い人には死語であり、生涯そのものの恩恵も、使い道も知らずに過ごすものになっている。

 本日は久しぶりに外回り。昼前に家を出て、退職者会の30年記念誌の広告掲載や原稿依頼で5か所ほどを回った。途中で組合の会館にもより、資料整理。
 記念誌や機関誌というものは「足で書く」とはよく言ったものである。普段付き合いのある企業や団体との顔つなぎの側面もある。
 しかし退職者会に入ってこのような活動を現職の頃と同じようにこなさなくてはいけないとは想像していなかった。
 労働組合、特に公務員の労働組合は営業活動はとても苦手である。これは私が現職のときに随分とイライラしたことのひとつ。「理屈は言うけど、体を動かさない」というのが当然の世界でもあった。なかなかそこから脱却は出来ていない。

 家に着いてみると歩数計は1万5千歩を超えていた。


 


カナトコ雲 2

2020年08月31日 10時32分13秒 | 天気と自然災害

 昨日の夕がたのカナトコ雲は北西の方向に見えた。観天望気ではカナトコ雲が現われると暴風ということらしい。
 この北西方向の山梨県や群馬県では激しい雷雨であったようだ。しかしこの雲はそんなに遠くには見えないので、この雲がもたらしたものではないようにも思える。
 このカナトコ雲、積乱雲の発達後の姿らしい。そして多毛雲という分類にくくることもあるようだ。
 本日の写真はこの細い線を強調してみた。

 本日は曇。中層の雲が空一面にかかっている。久しぶりにベランダ側の戸を開けて扇風機を回している。先週までは、痛いくらいの熱気が部屋に飛び込んできたが、本日は戸を開けてもそのような熱気のようなものは入ってこない。大気が落ち着いている。
 外ではクマゼミが心なしか元気のない声で鳴いている。

 これより外出の支度をして、組合の会館外、本日は外回り。ただし夕方には雷雨の予想。途中で切り上げないといけないかもしれない。


カナトコ雲

2020年08月30日 20時50分22秒 | 天気と自然災害

 西側の空にこの雲の端を見たとき、一瞬高層雲かなと期待した。秋の雲かと思ったのだ。
 しかし全体が見えて来るにしたがい、下部が積乱雲(入道雲)の様相を示していることに気がついた。いわゆる「カナトコ雲」であった。
 雲が筋となって横に広がっているのであるが、これは上昇気流が成層圏にぶつかってそれ以上に上に行けないために成層圏の下部に沿って気流が流れているためにできるという。
 この雲が出ると天気は荒れるといわれている。明日はどうなるのであろうか。夕焼けはこの雲に赤い光が反射して美しかった。

 まだまだ秋の雲が見えない。


「図書9月号」

2020年08月30日 19時45分26秒 | 読書

 岩波書店の「図書9月号」を読了。眼をとおしたのは、次の11編。本日は司修の表紙の作品に付随する文章の末尾を除いて引用は無しとする。



・表紙・・秋なのに春          司  修
「死はつらい。しかし悲しみはさらにつらい。」

・黒船トントン太鼓           細川周平
・幻の日本初新元素 ニッポニウム    山口幸夫
・けはいの文学             恩田侑布子
・コロナ禍と科学と政治         横山広美
・トルストイを訪問した少年       四方田犬彦
・語られざる何か            亀山郁夫
・ゴッホのひまわり パリ編・下     正田倫顕
・多摩川沿いの工場で 1        斎藤真理子
・原発とキツネが対峙するとき      赤坂憲雄
・ダンテの見た夢            長谷川櫂 


「ウッカリ・物忘れ」が続く

2020年08月30日 13時39分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 筋肉痛は朝になってようやく解消。しかし団地の自治会関係で出席を依頼された会議、午後からだったのに、朝からと勘違いしていた。玄関で靴を履いてからメモを見たら、午後となっていた。
 最近ウッカリが多い。自分では、この新型コロナウィルスの感染症ならびに猛暑による外出自粛や諸会議やイベントの中止で、刺激や緊張感が無くなったのが原因ではないかと思うようになった。先週の熱中症・食あたりの症状以来、外に出るのを控えてもいた。
 自宅で、パソコン相手に事務作業を少しずつこなしているが、それでは自分の内部の時間に従ってしまう。人との会話による緊張やさまざまな配慮、体を動かす行動が脳をいろいろと刺激するのではないか。
 直接対話する人間関係の緊張が無くなると、脳の活動そのものが低下してしまうのではないか、と思う。よく「定年後、引き籠っているとボケるよ」と言われる。人間関係という緊張の糸が切れ無いほうがいいのであろう。

 ということで、明日からは少しだけ気温も下がるかもしれないとの予報もあり、明日から再び出歩いて仕事をこなそうと思う。
 その前にまずは、午後からの団地の自治会からの出席依頼の会議に出ることから‥。そして、もう一度、スケジュール管理のこれまでのやり方を復習することから。


夜のウォーキングは中止

2020年08月29日 23時05分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の夜のウォーキングは中止。午前中の作業ですっかり筋肉がだるくなって、ずっと寝てしまった。この8月の疲れも出て来たのかもしれない。
 早めに就寝した方が良さそうである。本当は「図書9月号」を読む予定であったが、それを片手に持ったまま寝ていた。薄い雑誌なので、手に重みを感ずることなく、気持ちよく寝息を立てていた。自分で自分の寝息を心地よく聞いていた。

 明日もまた35℃の予報である。体力的にはつらい。しかしそれよりも二日続けて家に籠るのもつらい。明日は何をするか、どこで読書をするか。悩みながら寝ることとしよう。

 


「定家明月記私抄 続編」 その2

2020年08月29日 19時35分36秒 | 読書

   
 

 「定家明月記私抄 続編」(堀田善衛)は昨日までに「神剣海ニ没シテ茲ニ卅廻 建保元年記(1)」、「天下ノ悪事、間断ナシ 建保元年記(2)」、「幕府歌会 建保元年記(3)」、「明月記断続 建保二年-六年記(1)」、「拾遺愚草完成 建保二年-六年記(2)」、「源実朝 建保元年-六年」、「危機への傾斜 承久元年記」の7つの節を読み終わった。

 承久の変の2年前の源実朝暗殺を巡る時期に相当するが、明月記は空白部が多いところであるのこと。肝心なところで定家の去就や宮廷側の動きについての定家の判断がわかりにくい。この状況に接すると、鎌倉幕府寄りであった定家の主家である九条家との関係もあり、その立ち位置については、御子左家の当主として、定家がある意味では身の処し方に苦慮していたことの反映なのかもしれないと私は推察している。

「この当時にあって、(宮廷・貴族側では)肉親や兄弟などの家で起こった不祥事について、その一家族全員が責任を問われることがかいという、よい意味での個人主義が貫かれていることである。‥武家社会にあっては通用しない。この方はもう一家眷属総ざらいということになる。‥肉親というものは悲しいものである。」(「天下ノ悪事、間断ナシ」)

「吾妻鑑によって鎌倉幕府の日常を眺めていると、如何に武家による国家統治の草創期であるとはいえ、これほどにも血腥い政府というものは、世界史にも稀なのではなかったか、と思われてくる。政権は、ほとんど連続テロというべき手段によって維持されている。フランス革命時のテロル期がこれに匹敵するか、とさえ思われるのである。(梶原景時一族、阿野全生、比企一族全滅、頼家長子殺害、前将軍頼家惨殺、畠山父子殺害、千葉成胤・安念法師等陰謀、和田一族滅亡等々)。(にもかかわらず)実朝は月に一回というほどの頻度で幕府歌会なるものを開催している。‥京の不安が群盗や山僧の横行であったとすれば、鎌倉のそれは、残酷な内部闘争であった。‥「歌会」などを楽しむ雰囲気にはないのである。」(「幕府歌会」)

「実朝は、その家集をほんの二十二歳の時にまとめていて、その才能の高さは、京歌人の誰彼と比べるまでもなく、実に抜群のものと言わねばならないが、吾妻鏡などによって仔細にその日常を辿って行くと、成長するにしたがって現実が見えなくなって行く青年、と見えるのである。私は実朝の心境を推して考えようとするときに、次の「黒」と題する異様な歌を想起する。“うばたまや闇のくらきに天雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる”‥幾重もの雲が隠れていて、暗澹として底なしに暗い闇を、その闇を切り裂き、劈(つんざく)くように雁が鳴く。これはもう、狂、と言うほどの心的状態を思わせる。不吉な未来が闇の奥に待っている。」(「幕府歌会」)

「仁和寺宮五十首などの完成された歌、‥こういう、絵画的といっても音楽的といっても、到底言い尽くすことのできない、言葉の解説を一つしたにしてもぶち壊しになる、朦朧たる世界の構築。そういう世界は、されとして完成されれば、実はそれ自体で行き止まりである。そこから脱してもう一つの別の世界を見出そうとすることは至難の業であり、それはより一層に退廃の度合いを加えるか、それとも平明化の道を行くかの二つしかないであろう。“かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥す程は面影ぞたつ”の一首などは、エロティシズムの抽象化、あるいは抽象性のなかに香を焚きこめるようにしてこめられたエロティシズムとしては、マラルメとともに、世界文学の最高の水準に達したものである。」(「拾遺愚草完成)

「この当時すでに、神社は神道行事だけではもう保持して行けず、社には官寺が付随し、寺院にはまた、明神、あるいは権現信仰がくっつき、どれが神道とも密教とも、あるいは陰陽道とも見分けがつかふほどに、すべてが溶融して何とも言えぬ、それこそ中世的幽暗とでもいうべき時間空間を形成していた。‥この幽暗空間は、鎌倉という初体験の辺地にあって、拡大誇張されたエフェクトを持っていたであろう。実朝は、そういう幽暗幽冥空間の長であり、そこから出たことがなかった。‥実朝は、幻想の中に生きている。そうしてこの幻想のピークに来るものが、大船建造による、渡宋幻想である。」(「源実朝」)

「大船を無事進水させ得たとして、‥渡宋に如何なる名目をたてたものであったろうか。二重権力の一方の象徴が、外国へ行ってしまうのである。(いつ還るのか。大船を自在に操縦できる航海技術者がいたのか。航海中の身の安全は‥。留守の鎌倉の在り様。後鳥羽上皇が関東調伏の呪詛をしている情報があるのにどうするか。中国側にとっても施設でもない、武装集団をどう扱うか、身を拘束されない保証もない‥)。この渡宋船建造には、奇怪という以上に、何とも言えぬ暗さが感じられる。むき出しの絶望が船の形をとって由比ガ浜に遺棄されている。」(「源実朝」)

「無用の者は、骨肉であれ何であれ、殺してしまうのが鎌倉の理由木である。義経以降頼家にいたるまでその例に事欠きはしない。“箱根路をわれ超えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ”平安鎌倉期の和歌には、和する歌としての和歌の特質にもとづいて、いわゆる絶唱といった言い方に相当するものは、まず見当たらない。けれどもこの一首は、やはり絶唱というに値するであろう。現実を失ってしまった者の眼に、箱根路、伊豆の海、沖の小島はまさに現実そのものありながら、この風景はすでに現実から離陸してしまっていて、実朝の心象としての風景と化し、渺茫として風の音ばかりが耳に鳴っている。風景の自己分身である。この歌の周辺に、和すべき者も、和すべき歌も何もない。ありえない。孤独な実朝がいるだけである。絶唱たる所以である。」(「源実朝」)

 かくて鎌倉幕府第三代将軍源実朝は建保七年正月に甥の公暁によって殺される。

「(実朝の死により源氏の政党が皆無となり)院は評定の結果、雅成、頼仁良親王のうちの一人の下向は認めるが、直ちに行うわけには行かぬ、といういわば保留返答をしたものであった。‥皇子を鎌倉将軍とした場合、日本国が二分される危険性があるとして許可されるなかったのである。‥私が思い出すのは、国家形態が危機に瀕した時、近頃では太平洋戦争の敗戦に際して、皇族内閣なるものが出現してきたことである。伝統は生きているのである。」(「危機への傾斜」)


炎天下の作業のお手伝い

2020年08月29日 15時09分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前中は、30年記念誌の若干の作業と、団地のボランティア活動のお手伝いを、休み休みしながら炎天下での作業を約1時間ほど。まだ体力が完全には戻っていないので、ずいぶんと疲れた。10時からの作業だったが、11時過ぎから参加。一応最後まで。
 作業終了後はシャワーと昼食と昼寝。

 これよりベッドに寝転がりながらの読書タイム。
 先ほど、ツクツクホウシの声を聞いた。団地の中の樹から聞こえる。セミも少しずつだが、確実に種類が変わってきている。
 疲れた体にフッとマット―ジャーが実に気持ちがいい。このまままた寝てしまいたい誘惑。


本日の読書

2020年08月28日 22時27分10秒 | 読書

 午後から夕方までは、読書タイム&横浜駅まで往復のウォーキングなどなど。本日配達された岩波書店の「図書9月号」から4編ほど。「定家明月記私抄 続編」から5節ほど。
 「明月記‥」は承久の乱というクライマックスへ向かって行く。その前段のピークともいえる実朝暗殺に至る「源実朝」の前後を読んだ。引用などは後日にするが、「源実朝」と「危機への傾斜」は実朝追悼というか実朝挽歌ともいうべき力の入っているところ。実朝論、鎌倉幕府論としても面白い。


辞めたからといって済む問題ではない・・・

2020年08月28日 20時11分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 戦後最悪の首相がやっと辞意を表明した。「辞めたからといって済む問題じゃない」そのとおりである。だが、辞めてもらいたい人間の筆頭なので、辞めてもらっておおいに結構。そして大事なのは首相を辞めたから免責されるのではない、ということ。特に刑事責任は免れることはない。道義的責任は永遠についてまわる。

 憲法と三権分立を理解していない人間、利益誘導をしてはならないという政治家の最低限の規範も守る気のない人間が首相になってしまうという恐ろしい日本の民主主義の水準を身をもって示した人間である。
 この壊され続けた政治を元に戻すのは極めて大変な仕事と思われる。修復しようという意欲のある人に首相になってもらいたいものである。壊れたものはもとに戻すことが必要である。政治と社会を壊しっぱなしの共犯である今の与党には後継になる資格はないと私は思うのだが‥。
 戦後最長、という辞任の「花道」のために少なくともここ何カ月も無策の下に置かれた国民はいい迷惑である。「健康に問題なし」といい続けた閣僚は「ウソ」をいった責任をとってもらいたいものである。「ウソ」が当たり前になった日本の政治、どう修復したらよいのか。疑惑の追及に手心は許されない。


一段落

2020年08月28日 10時46分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

   

 昨日の雲を少しいじってみた。

 一昨日退職者会ニュースの校正刷りが出来た。数か所の訂正をお願いして、昨日最終版が送られてきた。これで校正は終了。あとは印刷と納品を待つだけ。納品は9月14日(月)。約一週間早めに出来た。早く終るとホッとする。「仕事」は一段落
 30周年記念誌の方に力を再び入れることが出来る。こちらはまだ原稿や広告の依頼の段階。依頼が済めば、あとは原稿が出来上がって来るのを待ち、そのまま入力すれば良いので、スムーズに出来上がるはずである。出来上りは来年の5月頃。まだまだ先である。

 昨日は太宰治の「東京八景」を読み終わった後の「定家明月記私抄 続編」の読書はあまり進まなかった。2つほどの節を読み終わった。もう少し先まで読みたかったのだが、目がショボショボで諦めた。
 本日は特に予定がないので、午前中から読書タイム。

 


夜のウォーキング

2020年08月27日 22時04分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 夜のウォーキングを再開してみようと思う。本日はゆっくりと。先ほど団地のなかから空を見上げたら、九日月が美しかった。半分雲がかかっていたが、全体が良く見えた。そして雲の部分だけは暈がかかっていた。
 夏の大三角、カシオペア、北斗七星の柄の部分、木星・土星といて座が美しかった。入道雲が白く美しく浮かんでいる。月も明るい、しかし空気の透明度が高く、星を眺めるにはいい日だった。

 レインアイよこはまを見ると、現在神川県の中部・頭部には雨の区域はない。西部に一部雨の区域が広がっている。気温の高い日がここまで続くと、ひと雨欲しくなる。「降れば土砂降り」そして雷雨では困る。適度に降ってほしいものである。


横浜市域には大雨・洪水警報

2020年08月27日 16時11分43秒 | 天気と自然災害

 横浜市域には現在、大雨・洪水警報と雷注意報が出ている。保土ヶ谷区と旭区では80ミリを超える雨の区域が通過していった。
 今のところ我が家の上空には雨の区域はない。陽射しも明るい。しかし14時頃、写真のように陰影が濃く、そして黒い不気味な入道雲が南東から北西に流れて行った。

【追伸】16時半までには大雨・洪水警報などは解除され、現在は雷注意報が継続している。空は明るいが、不気味な入道雲が多数に浮かんでいる。


太宰治「東京八景」を50数年ぶりに

2020年08月27日 11時57分19秒 | 読書

   

 昨日は「定家明月記私抄 続編」のふたつの節を読んだ。あまり進まず。

 そして夜になって太宰治の「東京百景」を読み始めた。これは枕元に放置してあった「東京百年物語3 1942~1967」(岩波文庫)の冒頭におさめられている作品である。ちょっと寄り道のつもりで読み始めた。
 もう50年以上前、中学3年くらいの時に一度読んでいる。太宰治の作品は結局あまり読まずにいつのまにか遠ざかっていた。太宰治の文体、どこかいつも言いわけめいて、自己合理化から自己肯定感だけが鼻についてしまって敬遠していたと思う。

 先ほど読み終わった。作家として歩み始めるまでの左翼体験とその挫折、自己解体、回生を辿る話である。こなれていない文章、全体の構成の不具合なども目につく。そこが太宰治そのものという面もあるが、私には気になる所でもある。
 三十歳の転機を次のように叙述している。

「何の転機で、そうなったろう。私は、生きなければならぬと思った。故郷の家の不幸が、私にその当然の力を与えたのか。‥不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼児から、私を卑屈にし、厭世的にしていた。金持ちの子供は金持の子供らしく大地獄に落ちなければならぬという信仰を持っていた。逃げるのは卑怯だ。立派に、悪業の子として死にたいと努めた。けれども、一夜、気が附いてみると、私は金持の子供どころか、着て出る着物さえ無い選民であった。‥もう一つ。‥私のからだが不思議にめきめき頑健になってきたという事実をも、‥。年齢、戦争、歴史観の動揺、怠惰への嫌悪、文学への謙虚、神は在る、などといろいろ挙げることも出来るであろうが、人の転機の説明は、どうも何だかそらぞらしい。その説明が、ぎりぎりに正確を期したものであっても、それでも必ずどこかに嘘の間隙が匂っているものだ。‥人は、いつのもにか、違う野原を歩いている。」

 津軽の素封家に生まれた生い立ちや経済的依存が通奏低音のように、そしてそれが外的な要因にも拘わらず、どこか本質してな要因のように語られるのが太宰治の作品の常である。生家への依存関係を前提としたままの左翼体験という体験が、太宰治にとっては忘れられない「傷」なのである。
 同時に「人の転機の説明は、どうもそらぞらしい」とその開削が上滑りしている印象がぬぐえない。「そらざらしい」で停止してしまっている。私は昔からここで太宰治の著作を放り投げてしまっていた。私はこの体験を転向とは言わないが「人生の転機」にこだわって生きてきた。体験の内在化だけが「説明」でもある。太宰治への違和感が、多分現在まで私の「こだわり」の核なのだと思える。
 さらにどうしてそんなにこだわるのだろう、という疑問も持っている。だれもが出自があり、そことの葛藤の中で生きている。
 こんなことを考えているうちに最後まで読み終わった。

 妻の妹の許嫁を見送るため、増上寺の山門の前で立ち尽くす主人公は、

「(通り過ぎる)バスの女車掌がその度ごとに、ちょうど私を指さして何か説明をはじめるのである。‥おしまいには、私もポオズをつけてみたりなどした。‥すと私自身が、東京名所の一つになってしまったような気さえして来たのでる。」

 この一節が転機の結果である。社会のなかでの自分の立ち位置が三十歳にしてようやく確定したことの現れである。と同時に、何も主人公を有名人としてもてはやそうなどというのではなく、たまたまそこに立っていただけなのだが、それに「ポオズ」をとってしまうという過剰な自己意識からこの作家は終生自由にはなれなかった。

「「安心して行って来給え」私は大きな声で言った。T君の厳父は、ふと振り返って私の顔を見た。馬鹿に出しゃばる、こいつは何者という不機嫌の色が、その厳父の眼つきに、ちらと見えた。けれども私は、その時は、たじろがなかった。」

 ここで厳父は日本の古い社会の象徴でもあろう。ここには左翼体験・政治経験のなかで、日本の古い伝統の社会と格闘してきた作者の経験が反映している。「たじろがなかった」のは自負のなせる業だろうか。あるいは虚勢をはっているのだろうか。いづれにしろ、生きた具体的な社会の中での立ち居振る舞いへの移行が、果たされたことが表現されていると理解できる。

「武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたって、差支え無い。‥芸術になるのは、東京の風景ではなかった。風景の中の私であった。芸術が私を欺いたのか、私が芸術を欺いたのか。結論。芸術は、私である。」

 しかしこのような自覚の後のことは残念ながら私はいまだ知らない。いつかもうすこしじっくりと読む機会があるだろうか。