Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

残照

2011年06月26日 17時34分21秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句

★暮れ残る横雲一筋梅雨夕焼
★残照に染まる夏蝶音もなく
★一瞬に遅れて一羽燕の子
★手に取れば紫陽花青き水こぼす
★紫陽花や弦楽の音の豊かなる
★梅雨湿り古き手帳の染みの跡
★梅雨曇空の低きはともし火に

本日の読了
「俳句の方法」(藤田湘子、角川選書)。

携帯電話依存症

2011年06月25日 15時29分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先日、携帯電話を家に置いたまま出勤してしまった。最寄の駅について携帯電話のスイカ機能を利用しようとして忘れたことにきずいた。家に戻っている時間はなく、やむを得ず券を購入して出勤した。
 私の私用の携帯電話には定期券の機能の他に、いわゆる「支払い」機能も活用している。職場の近くのコンビニかスーパーでその機能を活用して昼食などの買い物をしている。大抵はこれで事足りる。一日千円札一枚を帰宅途中のコーヒー代としてポケットに入れているだけですむ。便利である。職場の友人と帰り際に飲みに行くときは昼休みに銀行のATMで引出せば済む。無駄遣いをしない。そして私の携帯電話は歩数計もかねている。
 しかし私用の携帯電話に機能を集中してしまっているために、その携帯電話を忘れると悲惨な目にあう。昨年の秋には銀行のキャッシュカードをいれたカード入れも忘れ、行き帰りの電車賃代が辛うじて支払いできただけの日があった。
 それだけではない。本来の携帯電話の機能である通話・メール機能が活用できず、私用とはいえ不便極まりない。電話帳機能が使えないので、家族の携帯電話番号もわからない。さまざまな情報も手に入らない。家族・親族・友人に何らかの事故があったとしても連絡が取れないのである。
 幸い先日の場合、家に帰って携帯電話を見てみたら20件のメールと2つの留守電が入っていたが、緊急のものはなかった。

 そしてもうひとつ私が困ったのは、無意識にズボンのポケットに手を入れて携帯電話を探す動作を繰り返すことである。また携帯の振動モードが動作したような錯覚であわてて手を突っ込んだことも数度ある。
 これを携帯依存症というのであろう。
 同時に通勤電車の中での手持ち無沙汰がある。私はさまざまな美術館・博物館や出版社からの無料メールニュースを受信して毎日出勤時に読んでいる。これがないのは実に落ち着かない。これも一種の携帯依存症なのであろう。
 通勤電車の中で携帯電話から目を話さず一心にゲームをやっている人やメールを打っている人を見かけて、決していい印象はないが、実のところ悲しいかな私も同じ症状なのである。ただし歩きながらのメールやゲームなどという馬鹿なことはしない。

 更にもうひとつの教訓がある。3月11日の震災の日、私の勤めている区は全体が停電となった。緊急地震速報やら号外ニュースが頻繁に携帯に着信するため、電池切れ寸前となった。停電で充電もできなくなった。そして歩いて帰宅途中、隣の区でようやく電気がついていて、自動販売機で飲料水を購入したが、電池切れではコンビにでも役に立たない。
 それまで、キャッシュカードなどを入れているカード入れには5000円札を忍ばせていたが、その日以来1万円札を忍ばせることになった。

 世の中こぞって携帯電話依存症の様相を呈している。これは間違いのない現実である。
 

節電チャレンジ?

2011年06月22日 20時32分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は夏至、横浜でも30℃を越えたようだ。神奈川県の「節電チャレンジ」とかで我が職場も冷房の運転はなく、室内温度は窓を開け放していても32℃となった。執務環境としてはたまったものではない。窓を開けているため書類は飛び散るは、仕事の効率は下がるは、照明は暗くなるは‥ということでやる気は出ないという事態とあいなった。私は、午前中ヘルメットをかぶって現場を回ったが、「頭がゆで卵」との冗談が飛び交った。
 これでは日中3時間の計画停電の方がまだ過ごしやすいのではないかとの感想も聞かれた。また7月下旬以降の夏本番になったらどうなるのか、との声も冗談として聞くことができない。
 政府の脱原発の方向も見えずただ「我慢しろ」では大方の納得はできない。自民党政権下での原発推進の結果の福島原発の事故である。政府はもっとそのことを明確に言明の上、脱原発の方針を明らかにしてから現状での厳しさを言明すべきなのではないだろうか。自民党ではない民主党政権の存在が問われているのではないだろうか。今、原発推進、稼動再開を前提とした政策は受け入れられる国民感情ではないはずだ。政権の継続ではなく、政策の転換が問われているはずだ。

仙台往復

2011年06月19日 10時54分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は朝一番で仙台へ行き、22時過ぎ東京へ戻った。妻の実家の、今は人に貸している家の状態を確認するため。仲介してもらっている不動産屋を訪れ打ち合わせ後は、墓参り。
 その後東北大学の理学部・薬学部近辺を散策。昼食後作並温泉にて日帰り入浴を楽しもうと思い、仙山線で作並まで足を伸ばしたものの、送迎バスの運転手に確かめたところ日帰り入浴の受付時間は終了しているとのこと。仕方なく1時間後の仙台行が来るくまで作並駅で時間をつぶした。
 仙台市内に戻り今度は一番丁、中央通を散策して時間つぶし。夕食後、新幹線にて22時過ぎ東京着。
 約29000歩の歩行は運動にはなったが‥。

 くたびれるようなことはしていないが、列車の中で往復4時間を過ごすのは疲れる。入浴できればこれほどの疲労感はなかったかもしれない。

 仙台を歩いて出歩いている人の若さをあらためて感じた。学生が多い街でもあるが、年齢構成は他の都市と比べても若いのではないだろうか。比較したことはないのであくまでも感覚でしかないのだが、どうだろう。 仙台の繁華街は行くたびにあたらしい店ができている。活気があるようだ。これから都市としてますます大きく変貌していくような気がする。

収拾つかず

2011年06月17日 20時52分15秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日古書店にて「藤原定家-火宅玲瓏-」(塚本邦雄)を購入。塚本邦雄の名は歌人・小説家としてすでに知っていたが、小説を購入するのは初めて。1977年版2300円が630円也は安い買い物と納得。いつから読み始めようかと楽しみにはしているが、現在読み進めているいくつかが整理されてからになりそう。
 本日は朝から雨、午後も厚い雲に覆われた天候のように気分すぐれず。昨日から太宰治の短編をいくつか読み続けた。読みかけのもの、読みたいもの、読む予定のものが本箱からあふれ、机の上に積まれ収拾がつかなくなりつつある。困ったものである。
 明日は朝一番から仙台往復の予定。

「画家たちの二十歳の原点」展

2011年06月12日 20時40分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は平塚市美術館におもむき「画家たちの二十歳の原点」展を鑑賞した。
 実に多くの画家の二十歳の頃の絵を集めたものだと感心した。チラシでは54名の120点とのこと。意欲的な展覧会といえよう。
 印象に残ったのは、坂本繁二郎「町裏」、高島野十郎「傷を負った自画像」、佐伯祐三「自画像」、長谷川リン二郎「正ハリストス正教会への道」、佐藤哲三「赤い服の少女」、松本俊介「赤い建物」、靉光「コミサ(洋傘による少女)」。坂本繁二郎と靉光、佐伯祐三以外の絵は展覧会で見たことがあったりカタログに見慣れているものだ。この中で特に松本俊介の絵が気に入った。
 画家の二十歳を語るのであるから絵で評価しなくてはいけないが、その力は私にはない。しかし二十歳の頃の肉声とも言うべきさまざまな言葉(日記、詩、手紙など)が同時に展示され、それぞれの青春の時代との格闘が感じられた展覧会であった。カタログ3000円は手が出なかったのは残念だった。展覧会の場限りで忘却するのはもったいなかったかもしれない。

歩くということ

2011年06月09日 21時44分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 私は歩くのが好きだ。歩くということに意識的になったのはいつのことだったか。
 小学校入学以来走ることはとても苦手だった。それが小学校6年生のとき50m走で突如クラスで一番になった。7秒9だった。5年生の後半から横浜の郊外に移り、毎朝15分近く小走りに駅まで行き、一駅かけて学校に通った。学校建設が人口の急増に追いつけない時代の横浜であった。次の駅で降りてからも急坂を約5分必死に走って遅刻を免れるまいにちだった。50m走でクラス一番になった時、即座にこの朝の小走りのおかげと悟った。
 中学高校とやはり駅まで小走りを続け、学校の最寄り駅からの15分も小走りで必死であった。おかげで持久力はついたようだ。仙台の大学ではバス代を浮かすために1時間前後はいつも歩いた。大学に顔を出すにも、街中に出るにも、真冬でも素足にサンダルを履いて歩き続けた。このころから歩くことの楽しさを感じるようになった。
 就職後はしばらく歩くことからも遠ざかったが、20代後半から40代半ばまでひたすらジョギングと夏山登山、それ以降はウォーキングと足だけは自信がある。
 歩いていると実にさまざまなことを考えるし、思い浮かべる。脳が活性化するのであろう。その考えることが目的となって歩いているような気もする。その分周りの風景は見ていない、というか記憶にない。
 さて最近はあるきながら考えること、思い浮かべることは、仕事を早く卒業したい、定年を迎えたい、定年後は仕事はしたくない、仕事を辞めてこんな本を読みたい、あんなことをしたいなどと思うばかりだ。
 これはあと10ヶ月仕事を続けなければならない身にとってはちょっと危険かもしれない。定年までの最後の1年は長くつらいよといわれたことがある。この定年までの10ヶ月が長くしんどいものとすれば、歩きながら定年後のことを考えることを抜きにしたら、このつらいとよく云われる10ヶ月間もう身が持たないかもしれないのだ。
 私にとって歩くことは、このつらくしんどいといわれる10ヶ月を持たせるためにどうしても必要な行為なのであると思われる。

犬のこと

2011年06月06日 22時18分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日山吹の花のことを書いていて思いだしたことがある。函館にいた時分、実は幼稚園に通っていた頃だと思うが、近所で飼っている犬に「襲われた」事がある。つながれていなかったいなかったはずだ。当時の私の身長で胸まで前足をかけられさんざん吠えたてられた。その場にいた大人たちはだれも助けてはくれなかった。本当は吠え立てられたのではなく、犬がじゃれついたのかも知れない。しかしその恐怖は今でも忘れられない。
 私の犬の記憶はそのときからだ。そしてそれ以来幼稚園の帰り道、小学校の帰り道、犬が路上にいるともう動けなくなる。見も心も固まってしまうのである。「後ろを見せて逃げると追いかけてくる」ものだと誰かに教わったらしく、追いかけられるのも嫌で、震えながらただただ犬をじっと見据えていた。
 幼稚園や小学校の帰り道、それもあと50m位のところでいつも犬を見つけた。吠え立てられたのと同じ犬だったのか、他の犬だったのかはわからないが‥。30m位の距離を隔てて犬とにらめっこを長時間した。私の記憶では後ずさりはなかったので、犬が横にそれるかしていなくなるまで本当に固まっていた。
 当時ではそれが一時間にも二時間にも感じられた。本当に長く感じた。「助けて」と大声で泣き出したかったことも覚えている。たまたま通りがかりの近所の人に後ろについていって犬を避けたこともある。
 そんなことだから犬にあった日は玄関に着くのが遅くなる。母親にどうして遅くなったかと問われても、「犬が‥」といえば馬鹿にされそうでこれも怖くてとても言い出せなかった。友達にも言えず、学校の先生にも言えず、一人悶々としていた。
 小学4年になって転居してからは、放し飼いの犬にあうことはなかったが、それでもたとえつながれていても犬には近づけなかった。
 6年生になった時、短期間だったが家で犬を飼うこととなり、ようやく犬恐怖症から徐々に回復した。しかし未だに吠え立てる犬は嫌いである。犬を可愛がっている人には悪いが、小型犬だろうが、中型犬だろうが、吠え立てる犬は理屈ぬきで嫌いである。嫌悪感が先に立つ。

 私は、自分の弱みは、人には相談しても助けにはならず、ひたすら耐えるしかないことをこの犬の経験で身につけてしまったのか、とふと感じることがある。