30日夜、はからずも抽選であたりパナソニック汐留ミュージアムで開催されている開館10周年記念特別展「幸之助と伝統工芸」のブロガー向け内覧会に参加した。
汐留ミュージアムはルオーのコレクションで幾度か訪れ、ブログに記載させてもらった。ルオーをじっくりと鑑賞できていい勉強になったし、はじめてその魅力もたっぷりと味わうことが出来た。また最近は二川幸夫展も見て、これもブログに2回掲載した。図録が高価だったが、二川幸夫の写真にはすっかり魅せられた。
今回の展示は、前期・中期・後期の3期に分けて展示替えがあるようで、この日は中期の開始日に当たるとのことであった。中期は5月30日~7月9日、後期は7月11日~8月25日という長い会期である。
私は展示品に対するあくまでも私の感性で見た感想を中心に述べてみる。松下幸之助という方の思想や理念などには触れない。そして器以外は語る能力が無いので、器についてのみ書かさせてもらう。
まず私がこの展覧会に参加したいと考えたのは「茶道具の中でも茶碗の名品が展示されている、陶器を鑑賞する気持ちがあるなら見るだけでもいい体験になる」との情報をくれた友人がいるからだ。
陶器といっても私は器も皿も購入する資力も眼力もない。ただ形が手に馴染み、そして釉薬の色合いに飽きのこないお猪口が好きで、ごく安いものを旅行先の土産物店で購入するくらいのことしかしていない。それでも飽きがこなくて人の手に馴染む器というのは、ホッとする。心が和む。同時にこのような展覧会は、展示されている器の取捨選択・評価を自分なりにしてみて、解説などの評価と比べてみるという勉強の場にもなる。
人類だけが器というものを手にしてきた歴史があるのだが、その人類の歴史を感じさせてもくれる。不思議なもので見ているだけでも楽しいと思うことがある。遺跡から出てくる古代の土器も、ガラス器も、青銅器も鉄器などの金属器も、木製や漆の器も含めて器というものは皆、その土地土地の生活にはぐくまれた形と紋様と風合いや色彩などの特性を持っている。
今回も作品解説を読まずに自分の好きなものをまず選んでみようと思いながら会場に案内されてみると、最初に並んでいたのが茶碗の数々。会場での案内は幸之助の工芸に対する姿勢の説明から始まったが、申し訳ないとは思いつつ、私はその説明はほとんど聞かずに展示されている茶碗の間を回った。
私の目を惹いたのは、「黒茶碗 閑談」(作:樂一入、17世紀)と「黒茶碗 毛衣」(作:樂宗入、17~18世紀)、「赤茶碗 常盤」(作:樂覚入、20世紀)。そして萩茶碗(作:三和休和(十代休雪)、1967~74年頃)。
先ほど解説のパンフレットを見てみると、樂一入の黒茶碗と三輪休和の萩茶碗が掲載されていて、私の好みと一致してうれしかった。
樂一入については「樂家四代当主一入による黒茶碗。朱釉がきれいな景色を見せている一入らしい小ぶりでしまった作風」とある。萩茶碗については「萩焼の人間国宝自身が開発した失透性のある温和な白い釉薬「休雪白」を使用した休和らしい上品な白萩茶碗」とある。
当日の解説では、最近の茶碗は昔の茶碗に較べて大振りになり、扱う立場、喫する立場からするとどうなのか、という話もあった。これは私も同感である。当然手に触れることは出来ないのだが、それでもじっと見ていると手触りなどがなんとなく伝わってくる。現代の作は手に馴染むという観点からは大きさにちょっと難点はあると思う。私も小ぶりのほうを選ぶと思った。
また、黒茶碗・赤茶碗ともにその色合いがいい。光の具合で輝きに差が出てくるし、黒茶碗といいつつ朱釉がほのかに自己主張してくるなど、注目しようとする色合いが見ていると浮き上がってくるような錯覚に襲われる。
さらに茶碗の並ぶ一角の中央に「萬暦赤絵方尊式花瓶」と「萬暦赤絵枡水指」が色鮮やかに展示されている。鮮やかな3色の色の主張は、私の好みではないがそれでもこの方尊は赤・緑・青のバランスがいいと思った。水指は赤と緑の比率が高く青は少ない。私は赤と緑を主とした水指の方の色の配置がおとなしく感じて好ましいと思う。そして地の白の比率も高く、方尊よりも一層落ち着いた感じの図案に見えた。
次に私が見入ってしまったのが、「彩瓷壷(さいじつぼ) 晩秋」(作:石黒宗麿、1959年)。柿の実と枝が文様化して描かれ晩秋の景色をあらわしている。私はこの白っぽい地と柿の実の色の組み合わせがとても気に入った。さらにざらついた表面の感じが晩秋の空気も感じさせてくれる。これなどは手元に置いておきたいという贅沢な衝動に駆られる。収集家という人々の独占欲がわからないでもない。
解説文では「中国や朝鮮、唐津などの古陶磁器を範として、特に天目系の鉄釉陶器の再現をはじめ多種多様な表現に特有の気品と芸術性を獲得した。本作品は白化粧して高火度焼成した胎に絵の具で模様を描いて低火度で焼成する彩瓷(さいじ)という技法」とあった。
器では他に、河井寛次郎の「白地花絵偏壺」(1961年)、濱田庄司の「柿青掛分白格子文角皿」(1972年)、十三代今泉今右衛門の「色鍋島緑地草花文花瓶」(1978年)、角谷一圭の「芦鷺地紋真形釜」(1961年)の前でたたずんだ。
会場でこれらの器の前を何周したか忘れたが、時間ぎりぎりまで見飽きることがなかった。
このように陶器などを見飽きることなく眺める時間が訪れてこようなどとは、私自身にもとても信じられない。人間にはふとこのようなことに気分が傾く瞬間が訪れることがあるらしい。その時の気持ちを忘れずに持ち続けていれば何かの拍子に再び、今度は時間的なゆとりのあるときにそれが思い出されたり、共鳴したりするときがあるようだ。そんな時間をこれからは大切にしていきたいとあらためて思わせてくれた展覧会であった。
図録は購入していないが、パンフレットの図版も解説も丁寧で好感が持てた。学芸員さんの努力と力量に感謝である。
贅沢を言えば著作権などで難しいのかなと思うが、展示品のカードサイズの写真の販売があるととてもうれしい‥。二川幸夫展のときもそう感じた。ルオーの作品のカードは豊富にあるのに、といつも感じる。