Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

一年のお付き合いに感謝

2022年12月31日 20時51分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 正味にしたら短い時間ですが、今年のこのブログはこれにて店仕舞いとします。
 今年はほぼ一年間右ひざ痛に苦しめられ杖を突いての歩行となりました。そのことで愚痴ばかりを連ねるブログとなってしまいました。
 コロナ禍で美術鑑賞もままならず、鑑賞する感性もおおいに鈍くなったまま3年も経過してしまいました。美術に関する読書に励んだつもりですが、実際に鑑賞せずに語るのもつらいものがありました。
 何しろわがままなもので、美術館の事前予約制というものがどうしても馴染めないまま時間がどんどん過ぎてしまいました。美術館・博物館というものは、「思い立ってフラっと行く時が見たいとき」という思いが強いのが原因。そういう時に心が開いていて「鑑賞」になると今でも信じています。
 このような凝り固まった姿勢では、せっかくいい書物や作品や考え方に出会ってもそれを素直に受け入れる能力が委縮してしまう可能性が大きいことは自覚しているつもりです。なんとかもっと柔軟性のある感性にしたいものです。
 一方で齢すでに71歳を超え、来年は72歳。思考の柔軟性をますます喪失していくものと思われます。
 訪問された方のお叱りと指摘が大切だと思います。

 かようにわがままに書き散らしているこのブログですが、また来年もお付き合いをよろしくお願いします。

 なお、正月は元旦の明け方から開店予定。

 


読了「私の絵 私のこころ」(坂本繁二郎)

2022年12月31日 18時34分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評



 この本、ずいぶん昔に購入した。1980年の第15版となっているので、今から42年前の発刊である。どういう経緯で購入したか全く記憶にない。
 日経新聞の「私の履歴書」に掲載された坂本繁二郎の口述筆記である。それに河北倫明が坂本の画論を集めて解説したものを併せてある。
 私が一番興味を持って読んだのは、始めのほうの青木繁と坂本繁二郎の関係、あるいは青木繁をどう見ていたのか、という点に尽きる。

(青木の代表作「海の幸」について)年に一、二度あるかなしやの大漁とかで船十余隻が帰りつくや浜辺は老いも若きも女も子どもも、豊漁の喜びに叫び合い‥。私はスケッチも忘れただ見とれるだけの数時間でした。夜、青木にその光景を伝えますと、青木の目は異様に輝き、そこに「海の幸」の構想をまとめたのでしょう。‥青木独特の集中力、はなやかな虚構の才には改めて驚かされましたが、あの「海の幸」は絵としていかに興味をそそるものとしても、真実ではありません。大漁陸揚げの光景は、青木君は全く見ていないはずです。現実に情景がまるで異なり、人は浜も海も実家とは違っています。彼は私の話を聞き空想で書いたのです。‥どこまでも写実、あるくでも写実を突き詰めていくうちに内的に純化され、心に投影される真実を描くのが、絵ではないのか、‥青木のやり方は真剣に考えねばならない背反する創作態度でもあったのです。‥青木繁の絵は、発送の根源が文学です。自然に立ち向かっていくのを意識的か無意識的にか避け、写実を空想に代え、自らの絵を弱くしてしまったと思うのです。「海の幸」や「わだつみいろこの宮」は空想的な構成に走っています。幻想は幻想でいいのですが、幻想を追ううちに夢ばかりが先行し、必然的に出てくる心の矛盾の解決に窮してしまう。青木ほどの色彩感覚と写実力は、その後もお目にかからないぐらいなのにいまもって惜しまれるのです。

 このように「尊敬と批判の交錯した」評を述べている。

 この文章に坂本繁二郎の画論の集大成もあるように思う。

 


読了「マルクス・アウレリウス」

2022年12月31日 16時37分57秒 | 読書

   


 午前中は「マルクス・アウレリウス 「自省録」のローマ帝国」(南川高志、岩波新書)を読了。第4章までは、マルクス・アウレリウスの生きた時代のローマ帝国の歴史的位置づけと彼の事績が中心で、私が勝手に期待した内容とはすれ違いがあった。ただし歴史については知らないことも多くあったので、無駄な読書ではなかった。
 第5章以降、マルクス・アウレリウスの生きた時代のローマ帝国の社会と「自省録」への言及となった。
 
マルクス・アウレリウスの前に統治した皇帝たちの治世にあっても、死は日常の身近なところにあった。マルクスの治世に入り、大規模な疫病流行と長期間にわたった戦争のために、ローマ帝国の人々、とくに戦争に明け暮れたマルクスは、それまでよりも一層死を見慣れるようになった。目を覆う惨状と大量の死が彼の身近にあり、彼は当地の責任者としてそれを直視しなければならなかった。‥マルクスの死に対する思いとは、「死を自然なものと受け取ろう」ということであったが、これは、ストア派の教説を超えて、おびただしい死に囲まれて生きねばならなかった大帝国統治の最高責任者マルクスの、心の処理の仕方であったと見ることができる‥。」(第5章「死と隣り合わせの日常」)

マルクスの名誉を求めない思いは、死を自然なものと受け止める考えと呼応している。その根本には、死を自然なもの、肉体の分解と受け取り、来世を否定するストア派の思想があるかもしれない。しかし、それとは別次元で、若き日からそばで見て来たアントニヌスの生き方、働き方に学んだところから醸成されたとも考えられる。」(第6章「苦難と共に生きること」)

マルクスは、帝国住民の安寧のために働こうと努力した。しかし、その治世において、枯葉疫病大流行、戦争、反乱に遭遇し、危機的状況の中でただ懸命に皇帝の職務に励むことしかできなかった。哲学の理念や政体の理想をめざしてではなく、先帝アントニウスの範にしたがって懸命に働くこと、それが彼の生き方であったといってよいのではないか。」(第6章「苦難と共に生きること」)

 ここで自省録からの引用を二つほど。
(この世で驚くばかりに光輝を放った人びとについても)すみやかに色あせて断節化し、たちまちまったき忘却に埋没されてしまう。その他の人びとは息を引き取る谷否や「姿も見えず、知る者もなし」なのだから。それに永遠の記憶などということは、いったいなにか。まったく空しいことだ。」(自省録第4巻33)
どれだけの人間が現在たぶん君を讃めていながら、たちまち君を悪くいうようになるであろうことか。記憶も、名声も、その他すべていかに数うるに足らぬものであることか。」(自省録第9巻30)

 私としてはこの第5章、第6章を敷衍した記述を期待していたのだが、かなわなかった。しかし「自省録」の理解には役立ったところも多かったと思う。

 


右膝の痛み

2022年12月30日 22時35分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 机の上の片付け、講座の資料などを整理しているうちにお昼が過ぎた。出かけて所用を済ませたのち、コーヒータイムに「図書1月号」を読了。
 夕食前後に「マルクス・アウレリウス」(岩波新書)を読み進め、ほぼ読み終わった。明日には坂本繁二郎の自伝の解説部分を読んで今年の読書は終了予定。

 右膝は家にいても時々痛みを感じる。明日は出かけないほうがいいかもしれない。ここでまた痛みがひどくなってしまっては元も子もない。痛みが再発しては、治るまでにさらに時間がかかるかもしれない。

 しかしここまで膝が悪化するとは、30代、40代に登山やジョギングに精を出していた時には考えもしなかった。もっともそんなことを考える人はいないであろうが。

 今夜は痛み止めを服用し、右膝に湿布をして就寝予定。


読了「図書1月号」

2022年12月30日 20時43分14秒 | 読書



 今月号で目をとおしたのは、次の12編。

・[表紙]ナポレオン         杉本博司

・年中行事             畑 尚子

・地名に込められた想い       阿部賢一

・こころの紡ぎ出した物語としての『モモ』  河合俊雄

・キーワードは〈遠近法〉      新関公子
仏像の起源にギリシャ彫刻の影響をみるなら、仏教伝来も間接的西洋との出会いであろうし、キリスト狂伝来と宣教師によるセミナリオでの聖画政策指導は、より明白な西洋美術の到来と見なせる。しかし仏教伝来もキリスト器用伝来も近代美術には遠すぎる。真に西洋の表現が日本美術に影響を及ぼす事態は、江戸時代中期、八代将軍吉宗が1716年に始めた享保の改革によりもたらされた‥。」
「雪舟は遠近法を心得た唯一の例外的存在であるが、日本人の描く絵は昔も今も概して平面的、遠近法は苦手である。そのなかで、浮世絵師の遠近法理解は傑出していておもしろい。‥小質点の位置をわざとあいまいにしたり、深奥へ向かう道や川をひょいと曲げて消失点を結ばせない。あるいは地上の現実の山である富士山を消失点の位置に置く。それでいて西洋人に抵抗のない奥行ある自然空間をそこに感じさせる。

・新春かるた                  柳 広司

・秋には幽霊がよく似合う            プレイディみかこ

・「本当」の松明を掲げて            古谷田奈月

・人生のかけらを集める             菊池 暁

・教員多忙化問題の本質             高橋 哲

・本の栞にぶら下がる              齋藤真理子
栞はたいてい、一冊に一本しかない。読み終えて、迷いなく、そこへ栞を挟んでおこうと思うページがわかる。そいていつかまたここを開いたときにもその意味がわかるだろうと確信でき。‥

・知的情熱を体で表現する            萩田泰永
「探検とは知的情熱の肉体的表現である。」

 


慌ただしくよぎる人波にもまれる

2022年12月30日 18時15分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 横浜駅で若干の買い物と所用を済ませ、有隣堂を一巡してから安いチェーン店でコーヒーを飲みながら読書タイム。
 人混みは昨日よりも多かっただけでなく、歩く人のスピードが早かったように感じた。私も足が少し痛かったので、足を惹きづるように地下街を歩いていたら、すれ違いざまにかなり多くの人と接触した。正面からぶつかるようなことはなかったものの、擦り抜けるように足早に人混みを塗って歩く人が目だった。殺気だった人通りというと大げさであるが、昨日に比べ急いでいる人が多くなったのは確かであった。
 出かけなければ良かったと思う。しかし同時に、そうはいっても感染リスクはあるものの、年寄りにもこなさなければならない用事はある。

 自分も若いころはあのように人の合間を縫うようにして歩いていたかもしれない。あの歩き方は杖を突いている人間に恐怖を与える。それを思うと赤面し、反省せざるを得なかった。
 
 明日は妻が今年初めて注文したおせち料理を取りに同じ地下街を歩く予定である。もしも人とぶつかった場合、杖を突いていれば転ばずに住む可能性は高くなる。また多少は早めに身を翻すことも出来る。妻に「杖を突いて歩いたほうが安全かもしれない」というと、一人で取りに行ったほうがいい、とのご託宣。確かに杖を突いていては荷物は持てない。


コロナ対策の欠陥

2022年12月29日 19時57分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

   

 先ほど政府発表の数字を見て、驚いた。これを一目見ただけで喫緊の政策課題が思いつくはずである。
 掲げた表は、オミクロン株対応ワクチンの接種率の政府発表の一覧である。12歳から40歳代までは、18%から28%と極めて低い。これに比べて50歳代以降は42%から70歳代の59%と格段に高い。40歳代以下と50歳代以上の差が大きすぎる。これを見ても第8派の罹患者に若い人が多いというのも頷ける。
 政策的に喫緊の課題は、働き盛りでかつ移動の頻度の極めて高いこれら40歳代以下の国民のワクチン接種率の拡大である。接種をしてもらうための条件整備、啓発、企業での接種機会の拡大、そして移動の前後でのPCR検査の機会の大幅な増大であろうことは誰が見ても明らかである。
 年末年始の行動制限が無く、そして外国からの入国制限の規制も緩めているなかで、せめてこれらの課題くらいはきっちりと履行してもらいたい。
 この政策を提示できない政府も与党もまったく信用ならない。政府の不備を指摘できないマスコミも、議会も、地方自治体もまた同罪である。
 この程度のことも政策立案できずに、第5類の検討などというのは一番の根幹を忘れている、としか思えない。


勝手に無効になったパスワード

2022年12月29日 18時18分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の朝は妻のガラケーと掃除機の故障・破損騒動でかなりてんやわんや。掃除機は私が台所とリビングルームの仕切りの簾の埃を掃除機で取り終わり、妻が床掃除を始めたときに故障。いろいろいじくっても治らず断念。

 イライラしながら、ブログを更新しようとしたら、今度はブログとツイッターの連動が突如できなくなった。
 昼を過ぎたころに別のアカウントのツィッターへは入っていけるようになった。私のスマホからもツイッターは問題なく入れるのだが。

 夕方になってその問題はいつの間にか解消していた。それでもメインのアカウントにはどうしても入れない。挙句の果てにパスワードが違うというメッセージがあらわれた。やむなくパスワードの変更を行いようやくま入ることができた。
 勝手にパスワードを無効にしておいて、新しいパスワードを設定しろというのもひどいものである。これに連動して問題なく表示できていたスマホのアカウントの表示も自動的に消え、こちらも新しいパスワードに変更する羽目に。なんという面倒を強いるのであろうか。

 年末の慌ただしいときに、しかも他の電気製品の故障や破損でイライラしているときに限って、なんでこんな目に会わなくてはいけないのか。
 本日は頭が飽和状態。イライラが昂じるとろくなことにならない。


電気製品、壊れる

2022年12月29日 17時21分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 妻のガラケーの電池がとうとう駄目になってしまった。ガラケーのサービス停止まで使うと言っていたが、その前に電池が破損。交換電池もすでに製造が停止されており、新規で買い替えるか、スマホへの転換を迫られている。
 本日再度ショップに出向いて最終の結論を出さないといけなくなった。契約にはファミリー割引をしていることもあり、私の同伴が必要といわれたらしい。

 さらに今朝になって突如掃除機が動かなくなった。部屋を掃除している途中でモーターが止まってしまった。すでに16年使い続けていたものなので、修理に出すわけにもいかず、新しい掃除機を急遽購入せざるを得なくなった。
 いくらなんでも掃除機なしに年末の大掃除を終えることはできない。

 という状況が生じ、急遽携帯電話のショップへ。しかし予約がないと受け付けないと冷たく言われ、機種の選定と取り寄せを依頼、新しいスマホの受領と契約は3日となった。それまで妻の携帯は使用不可能。
 掃除機は家電量販店で2番目に軽量のものを購入。ところが在庫がないということで、最短で大晦日の配送となってしまった。それまではやむなく親の家の掃除機を借りることにした。

 年末にこのように家電製品の故障ないし寿命を迎えると、お手上げである。
 帰宅時間も遅くなり、妻は草臥れてしまい、食事はスーパーで寿司を購入。横浜駅地下街のスーパーは正月用の食材を購入する買い物客でかなり混雑。キャリーケースを引きずる帰省客・旅行客は本日は少数派。生活感あふれる横浜駅界隈ではなかったろうか。

 


感染の急速な拡大

2022年12月29日 10時08分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩は酔ってしまってニュースも見ないで寝てしまった。夜中に起き出して入浴でやっとさっぱり。
 日付が変ってからパソコンを立ち上げて、全国の感染者数を見て、びっくり。予想していたとはいえ、全国の新規感染者数が215,965名、死者数も第7派の時のピークを大きく超え412名となっていた。神奈川県でも第8派で3回目の1万名を超え、12,105名にもなった。

 年末年始の人出、混雑がひどくなる時節、何らの対策が打ち出されないままでとんでもない感染となってしまいそうな予感がする。そして年末年始の間、感染者数の発表は土日と同じくなくなる。正月明けの発表が恐ろしいと思うのは私だけだろうか。
 一方で医療関係者と患者には休みはない。

 本日からは年末の人の移動のピークである。


ぐうたらの割には‥

2022年12月28日 20時29分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評



 本日有隣堂に寄ったところ、「図書1月号」が山積みになっていた。無料の扱い。我が家に配達されるのを待たずに、持ち帰って喫茶店で読み始めた。かなりの部分を読み終えてしまった。気になったところの抜き書きは明日以降。

 組合の会館の近くで友人と会ったのちは横浜に戻り、家電量販店、有隣堂、100円ショップ、喫茶店での読書を経て、居酒屋へ。

 ぐうたらの割には充実した読書タイムであった。本日はこれにて就寝。居酒屋でずいぶん呑んだと思われる。年内最後の居酒屋であった。


ぐうたら

2022年12月28日 10時47分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 友人の真似をして、雪を被る富士山を撮影しようと思い、朝のうちに富士山を臨む一角に出かけてみた。しかし富士山のあたりだけ雲に覆われていて、姿を隠していた。
 朝のうちにカメラを持って出かけるなど、「慣れないことをするから」と笑われている。昨日はきれいに見えたとのことであった。明日も挑戦してみる予定。

 妻は買い物、掃除と忙しい。私は昔から言われた軽作業にいそしむだけだが、本日は何も言われていない。主体的に動かないぐうたらを演じている。情けないとは思いながら・・・。

 


マスクの細工始末

2022年12月27日 22時51分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日は新しいマスクを着用して外出。鼻側には眼鏡の曇り止め用の仕切りが付いているものをいつも常備をしている。さらに口元にサポーターの取付、脇に出来る空間が狭くなるような縫い付けをしている。この細工をして2年過ぎた、と今朝記載したら、友人から鼻側の曇り止めのついているマスクの商品名を教えてほしい、と連絡があった。

 友人なりにいろいろと工夫を凝らしたいということであった。「工夫」は自分にあったやり方を自分なりに探すことに醍醐味がある。友人もそれは十分に知っていた。しかも今回の私の工夫は医学的な保証は何もない。
 私の経験では、何でも聞きたがる人よりも、自分で工夫を凝らす人が長続きする友人となる。その工夫を会った時に呑みながら自慢しあうのが楽しい。


帰省のあり方の変化

2022年12月27日 20時46分43秒 | 思いつき・エッセイ・・・

  火星とオリオン座を見ながら帰宅。といっても3人でタクシーから降りてからの約50m程度の歩行。

 横浜駅はかなりの混雑。旅行者も多く、キャリーケースを引きずる若いカップルが多かった。勤め人のような雰囲気の人は少なめ。義務教育ならびに高校の生徒はもう冬休みなのであろう。下校時なのにほぼ見かけなかった。

 年末の雰囲気というのは、私が40代の頃までは年末の買い物客や帰省客でごった返したものだが、この頃は若い人が遊びに出かける姿ばかりが目に付くように思える。
 この感想は年寄りのひがみなのか、社会現象なのか。ここ2~3年のコロナ禍での状況を除くと確実に社会現象として変化したと思うのだが、どうであろう。
 帰るべき遠い田舎というものを持っている人はほとんどいなくなっていると私は思う。実家といっても都会住まいがほとんどではないか。全国で面的に実家が存在するのではなく、地域の大都市圏に点在しているのが実情であるはずだ。
 実家に帰るにしても昔ほどの旅行時間は必要ではなく、そして「田舎」体験の旅行気分は希薄になっている。若い人たちにとっては、「田舎」体験よりも、都市圏の実家に気楽に寄り、その足でリゾート地へ出かける方が魅力があると思われる。あるいは実家には普段の日に立ち寄り、まとまった休みはリゾート地に行くことが価値なのではないか。
 横浜や東京では、リゾート地への旅行客ばかりが目に付く理由はこのあたりの実情が反映しているのではないだろうか。

 現在もコロナ禍、しかも感染の拡大局面に関わらず、この混雑、帰省以外の旅行者の増加に、政治はどのように対処しようとしているのだろうか。どうもお手上げで何の具体策も示されていないように見受けられる。
 検査の充実、大規模イベントへの対処方法、混雑対策、医療体制の充実の方策、医療従事者支援、ワクチン接種の効率化、就業支援・家庭支援、罹患者支援等々、目に見える何ものも提示されていない。中国批判は聞こえるが、それを他山の石としても自国の対策に目を向けてもらいたいものである。




 


マスクの細工

2022年12月27日 14時49分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前最初の集配に間に合うように早めに年賀状を投函。これで年末の仕事が終わった感じとなる。ホッとした。
 午前中は「私の絵 私のこころ」(坂本繁二郎)を読んで過ごす。本文と「問われるままに」は読んだが、書翰と河北倫明の「坂本繁二郎画論抄」はこれから。

 親と3人で、夕方から買い物に付き合うことになった。混雑しそうなので、少し早めに出るしかないようだ。

 本日も乾燥注意報が出ている。真冬の快晴が当分続く予報になっているようだ。

 これより新しいマスクに取り替えるので、針と糸で少々の細工と口元の空間確保のためのプラスチックのサポーターの縫い付け作業。この3年間、ずっとこの作業の連続である。最初の1年近くはいろいろと試行錯誤をしたが、この2年ほどようやく今の形態に落ち着いた。こういう「工夫」というのが、私は楽しい。
 しかし早くこの作業から解放されたいものである。