「万葉集の起源-東アジアに息づく抒情の系譜」(遠藤耕太郎、中公新書)を読み終えた。
第7章では、天智天皇の死の前後の倭太后や額田大王などの歌を、そして第8章では、後の草壁皇子への挽歌を取り上げている。後者では柿本人麻呂の登場など興味深かった。
終章にまとめ的な記述があるので、覚書として引用したい。
「東アジアの喪葬儀礼は、全体として死者の魂を呼び戻そうとする招魂から、それを恐れ、死者の世界に送る送魂へと移行する大きな流れを持っている。‥古代日本において、送魂を担当したのは野中古市の遊部に属するネギとヨヒと呼ばれる呪的職能者であった。‥送魂ストーリーに抗するところで、哭き歌は歌われた。ヤマトタケルの后や御子たちが、白鳥となって翔りゆくタケルの魂を追いかけながら、何度もその送魂ストーリーに抗して歌う大御葬歌、天智天皇の魂が徐々にあの世に行くというストーリーに抗しながら、倭太后らの歌う挽歌には、送魂ストーリーに則りつつも、それに抗するところに生ずる心の機微や抒情を表現するという声の歌の技術が継承されている。‥漢詩文的発想を取り込むことによって、夫婦間の悲しみを歌い上げるという新たな死に関わる抒情表現へと飛躍していた。(「大化薄葬令」で)仏教の浸透や火葬の開始などによって人々の死生観は大きく変化する。死は合理化され、死者は恐怖するものではなくなっていく。‥柿本人麻呂は、中国の誄(るい)の形式を受容しつつ、残された遺族や儀礼の取り仕切る呪的職能者の立場に降り立って死者に語りかける技術を継承し、さらに哭き歌を基層にもつ女の挽歌の表現をと見込んで、新たな殯宮挽歌や物語的な挽歌を創作した。そこに、喪葬儀礼から離れて死の悲しみそのものを追求する抒情表現が創りだされる。招魂から送魂へという喪葬儀礼の大きなストーリーを逆転させ、合理化された死から死の狂気に引き込まれていくというような、死をめぐる新たな抒情表現の創出でもあった。」
「この列島に国家が誕生し、貴族文化が確立する中で、歌垣歌は貴族の恋歌へと飛躍し、また死生観の変化に応じて、それまでの喪葬歌は時代に見合った新たな宮廷挽歌へと飛躍した。飛躍したれども、しかし変わらない部分がある。それは、貴族の恋歌も新たな宮廷挽歌も、声に出して歌われるという点である。それは和歌がずっと持ち続けてきた歌の本日である。」
音数律についての言及、日本語の5・7・5等についての言及も興味深いものがある。しかしこれは是非とも次の著作を期待したいと思った。最後に「おわりに」から引用しておく。
「1877年の西南戦争後、新政府は天皇に恋歌を詠むことを禁じた(丸谷才一)。丸谷はそのわけを、天皇は軍隊の大元帥であるから、軟弱な帝であっては困るからで、恋心を詠むなどとんでもないと考えたからだという。‥その流れは大正、昭和天皇が恋歌を詠まなかったことにも連続している。‥同記事で丸谷は、「日本文学の中心にあるのは和歌で、そのまた中心に位置を占めるのは天皇の恋歌である」といい、その伝統を断ち切った新政府の方針を「わが近代最初の(そして最大かもしれない)文学的弾圧」であったという。」