Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読書の反省

2011年02月28日 21時35分37秒 | 読書
 本日の帰宅途中、横浜駅の書店にふらっといつものとおり立ち寄る。「季語百話」(高橋睦郎、中公新書)を著者に惹かれて購入。俳句に関係した書籍というだけでなく、短歌や詩、古代から現代までの引用もふんだんにある。俳句に関する本、たくさん出ているが、新書等で食指を動かされる本はなかなかない。著者の高橋睦郎は、岩波書店の「図書」に「詩の授業」を連載中で、私は欠かさず読んでいる。終了後の出版を待望している。

 最近新書等の選択の眼が鈍っているようで、こちらが勝手に「このような内容だろう」と思い込んで購入し肩透かしをくらうことが多い。
 資力の点から単行本には手を出さず、購入はもっぱら文庫・新書類に限っているが、それでも肩透かしをくらったときはひどく落ち込む。昔は「著者が悪い」と八つ当たり気味であったが、最近はそれを見抜けなかった自分を呪うことの方が多い。歳とともにだんだん自虐的になってきたのだろうか。選択する眼が鈍っているようなので、少し読書の方向をかえようかと思い始めた。
 そこで気づいたが、最近は小説に眼を通さなくなった。3年ほど前、夏目漱石を高校の時以来久しぶりに再読しかけて、前期のものを読み返した。後期のものにまだ手をつけていなかった。そこで「行人」以降の作品の再読を再開しようかとも思うのだが‥。なかなか踏ん切りがつかない。
 再読したからといって、自分がどんな立派な感想なり評論を書けるわけではない。「読むことが目的」といわれればそうかもしれない。しかしまぁ、もともと小説なのだからそれで良しとしよう。

本日の読書

2011年02月27日 12時09分36秒 | 読書
「親鸞再考」(松夫剛次、NHKブックス)
 親鸞の思想内容に踏み込んだものかと思い購入したが、それよりも生い立ち等に力点がおかれているものであったことは少々期待はずれ。購入前にもう少し吟味すればよかった。
 しかし妻帯、配流、関東布教など考証は宗派のベールをはぎとっての試論で私には新しい知見もあった。


本日の俳句(110226)

2011年02月26日 16時23分46秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★花苗のどっしりと手に春の色
★色たけて花屋にぎわう春一番
★しもた屋の花桃しかと枝つたう

 先日12年も使った眼鏡のフレームが破損した。レンズは新しいのでひと回り小さなフレームで眼鏡を作り変えた。できるまでの時間、商店街の一角を占める花屋を眺めていた。春の風の下の花やは色とりどりの花が並び、にぎわっていた。
 古びたしもた屋に雛人形が飾られていたのが窓から見えたが、花屋にあった花桃が似合うと感じた。

 どうも情景描写に終わってしまう俳句ばかりのような気がする。不満である。何かの飛躍が欲しい。 

紹介

2011年02月21日 20時17分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 友人(先輩という方が正しい)がブログを始めた。ブックマークした「如月から」がそれだ。なかなかいい文章がある。同時代を経験した方なので、私にはすっと文意が伝わってくる良さがある。
 私のブログ、最近は読書の覚書と俳句だけなので、上記のブログを倣い、再び身近なエッセイを再開しようと思った。ただ人に感動してもらえる文章になるかどうかは保障の限りではない。
 素直に思ったことをつづっていくだけである。

俳句誌投稿句

2011年02月20日 14時40分53秒 | 俳句・短歌・詩等関連
俳句誌投稿句

★病棟の息はひそかに山眠る
★山眠る太古の海のたゆたいに
★冬萌にかかる人影長うして
★湯の宿は日の拠るところ椿咲く
★湯治して布団の上のほてりかな
★咆哮に日矢も鋭く冬怒涛
★春の雪町の明かりに膨らみて
★手のひらの雪をにぎれば脈熱し
★東京の土にやせたる雪だるま
★梅一輪黄色の蘂の円舞曲


本日の俳句(110219)

2011年02月19日 19時00分39秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★風ほのか梅のつぼみに蘂のぞく
★梅一輪また一輪の昼下がり
★梅一輪黄色の蘂の円舞曲

 本日は団地の梅をながめて一日のほほんと過ごした。俳句はなかなか思い浮かばなかったが、紅梅の薄い黄色の蘂と花弁の薄紅と緑色が眼に焼きついた。

本日の俳句(110216)

2011年02月16日 20時17分13秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★手のひらの雪をにぎれば脈熱く
★東京の土にやせたる雪達磨

 一昨日の雪はにわかに積もったが、日付が変わる頃には雨に変わった。夜に団地のこども達が造った雪達磨が芝生の上でやせ衰えてはいるが今晩も残っている。かなり大きなものが幾つも造られていた。
 私も雪を握ってみたくなり、雪を手にすくった。思わず自分の手の体温の暖かさに驚いた。

本日の読書

2011年02月14日 19時24分41秒 | 読書
「歎異抄」(講談社学術文庫)
 「親鸞をよむ」(山折哲雄)に刺激を受けて久しぶりに歎異抄を再読した。岩波文庫版ではなく今回は講談社学術文庫版(梅原猛全訳注)
 今回は原文と和訳を交互に読み、注・補注は省略。
「第六条 一。専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子といふ相論のさふらうらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふろう。」
 今回はこれが心に残った。人間である以上集団、組織をつくりそれに組み込まれることは否定しないが、どうも群れたがる人というのは、異常に派閥を作りたがる。排除の論理を振り回したがる。自分で考えない人ほどそうだ。指導-被指導、組織責任‥。人は常に、自分がどんなに尊大に見えてしまうか、一歩下がって反省しながら組織の中の自分の位置を見定める必要がある。

 解説で梅原猛は
「「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉は、法然の語った言葉と解せられるが、法然は思想において悪人成仏の思想まで進んでいたが、実際の生活において彼は‥有徳な聖僧であった。‥法然はこの学説と生活との矛盾に深い悩みを感じていたであろう。彼はいってみれば愚者をあこがれる賢者であり、悪人にあこがれる善人であったのである。しかしその弟子親鸞は、その矛盾を実践において解決しようとする。彼自身が悪人に、肉食妻帯の僧になろうとするのである。」
「『歎異抄』は、異常な魅力を持った本である。‥この本には一読して人の心を奪わずにはいられない魔力のようなものが備わっているのであろう。」
「親鸞が書いたものには、‥何かひどく判りにくさが存在している。彼の文章はほとんど論理性を無視したような文章であるようにすら見える。何か得体の知れない暗いものが、彼の心に重く澱んでいて、‥何か果てしのない暗さの中にひたされるいるような感じがする。しかし『歎異抄』の文章は違う。それははなはだ明快で論理的な文章である。親鸞自身の文章に、重さと深さにおいて劣るとはいえ、簡潔さと明快さにおいてまさっている。おそらくそのような違いの中に唯円の個性があらわれている。」
「宗教を学問や道徳と連続して考えようとする思想の批判なのである。深い罪業の自覚の中に、限りない阿弥陀の光が訪れる。この苦悩と、この喜びなしに何の宗教があろうかと唯焔はいいたいのであろう。」
「唯円の頭にあったのは、厚い信仰に結ばれた信仰共同体の思想である。学問もなく、地位もなく、貧しくとも、真の信仰に結ばれた人々からなるもの、ここに親鸞の振興は永遠に生きていると唯円は考える。そして、このために『歎異抄』は書かれた。唯円の頭の中には、内村鑑三が理想としたような無教会主義の理想があったと思われるが、その理想は唯円のものであるより以上に親鸞の理想であったように思われる。」
と記述している。

 飛躍と断定が多い解説ではあるが、それはよしとしよう。私が偉そうに付け加えるものはない。あえて言えば、政治の世界や組織の上に立つ人に真摯に読んでもらいたいと思う。
 歎異抄のように心を動かされた文章は、そのときの心の持ちようを忘れてはならないと思う。固定して捉えてしまうと、読みを浅くしてしまう。

本日の読書

2011年02月13日 12時18分52秒 | 読書
「ヤマト王権」(吉村武彦、岩波新書 シリーズ日本古代史②)
「日本列島の政治的統合のプロセスを、時系列で位置づけると、
①倭国としての統合の展開(一世紀末から二世紀初頭)
②近畿地方を中心とする定型的規格ををもつ前方後円墳秩序の形成(三世紀中葉から後半)
③ヤマト王権の成立(四世紀前半)
という三段階を設定し、考察するのが妥当であろう。」
「ヤマト王権が②段階を前提として生まれたことを重視し、この歴史的ステージを「プレ・ヤマト王権」と評価することとしたい。ヤマト王権の成立にあたっては、それ以前に、すでに前方後円墳を築造する政治的秩序が形成されており、それを継承していることは重要な問題だと考える。」
「倭国へと統合するプロセスのなかで前方後円墳による政治的秩序を捉え、さらに発展した形態として、列島史におけるヤマト王権の成立を考えるということになる。」
「歴代遷宮はなぜ行われたのであろうか、言葉を変えれば、どうして同じ場所に王宮が営まれなかったのであろうか。結論的にいえば、ヤマト王権は特定地域を政治的・経済的基盤にするような王権ではなかったため、必要なところに自由に王宮を造ることができたからである。」

 この最後の引用はなかなか示唆に富むと思われる。また前方後円墳ではなく王宮の遷移に焦点をあてて歴史を解くというのも私には新しい視点に思えた。
 しかし後半になるに従い、日本書紀の記述による叙述になっているのはうなずけなかった。

本日の読書

2011年02月12日 15時21分01秒 | 読書
「親鸞を読む」(山折哲雄、岩波新書)
「親鸞はそろそろ、イデオロギーの呪縛から解放されてもいい時期に来ているのではないであろうか。かれはこれまで、あまりにも近代主義的なイデオロギーの網の目にからめとられてきたと思う。親鸞の思想は、雑行か正行か、現世利益か浄土往生か、そして自力か他力か、といった抜き差しならぬ論理のラジカリズムによって、身動きできない硬直の中に押し込められてきたのである。
 しかしながら『教行信証』という作品の深層には、そのような親鸞解釈の定石を一挙にくつがえしかねないマグマのような内容が当初からはらまれていたのではないであろうか。」
 「『歎異抄』は過激な文章である。鋭い警世と批評の書である。それにふれる者の心を焼きつくし、それに近づく者を震撼させずにはおかない危険な言葉にみちみちている。それでもなお、ときに毒をさえ含むその言葉の一つひとつに、人間の怖ろしい真実を見出そうとする者がたえなかった。そこから発散される逆説の魅力に引きずりこまれていったので
 「親鸞はその『教行信証』のなかで、いったい何を主張しようとしたのだろうか。そこに凝縮されている主題は何か。枝葉を切りはらって結論をいってみよう。この作品に展開されている重大なテーマはただ一つ、父殺しの罪を犯した悪人ははたして宗教的に救われるのか、という問題だった。」
 「『歎異抄で説かれている論旨は、悪人正機論であれ、善悪=宿業論であれ、われわれ人間にはそもそも悪(=殺人)を犯す可能性があるという議論だった。いつでもそうなりうる可能性における悪であり、可能態におれる悪人の問題だったといってよい。ところがこれにたいして『教行信証』で展開されている逆害論は、アジャセという父殺しの悪が主題とされている。黄がついたとき、すでに殺人を実現してしまっていた人間の悪の問題である。可能性における悪の問題とは決定的に異なる状況といわなければならないのだ。
 そして、この父殺しという逆害をすでに実現してしまった人間の罪が償われるためには、「善智識」と「懺悔」の二条件が必須であると親鸞はいったのである。悪人アジャセが阿弥陀如来の慈悲によって救われるためには、それが絶対に欠かせないといって二つの条件をさしだしたのである。
 「可能性における悪のみを問題にしている『歎異抄』は、罪の大転換のために必要とされた「善智識」と「懺悔」の問題に、一言半句ふれてはいないのである。気がついたとき殺人の罪を犯してしまっていた人間の戦慄の感覚が、そこではまったく欠けているからだ。」

 山折哲雄氏は教行信証と歎異抄の関係をこのように理解した。私は教行信証を読み通すだけの力量は残念ながらない。いくど挫折をくりかえしたことか。しかしながら私もいつかは教行信証に挑戦したくなった。

本日の俳句(110211)

2011年02月11日 12時27分19秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★街灯の光に膨らむ春の雪
★春の雪町の明かりに膨らみて
★手のひらの熱も奪わず春の雪

 本日は昨晩から雪模様。横浜にも大雪注意報が出ているが、日本海側の大雪と比べものにならない。

 1句目、2句目街灯にあわせて丸く浮かび上がる雪の降るさまは幻想的だ。また丘の上から見下ろす町明かりも、雪を丸い天井から降らせているような雰囲気である。街灯の灯り、町の明かりを受けて雪が水気を含むようになる。そして落ちてくる軌跡も膨らんで見えてくる。
 3句目、外はたしかに寒いが、手のひらに落ちてきた雪片は、もう溶けかけていてあっという間に丸い水滴となる。手から熱を奪って解けるのではなく、自ら解けるべくして解けるように。

本日の俳句(110206)

2011年02月06日 19時00分42秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
 伊豆にて
★湯の宿は日の拠るところ椿咲く
★湯治して布団の上のほてりかな
★咆哮に日矢も鋭く冬怒涛
★見下ろせば日矢に丸みを春の朝

 伊豆はさすがに春の気分だったが、しかし日がかげると寒さはあり、また波の音は冬の様相。作った俳句も昼間の句は春、夕刻以降の句は冬。

本日の俳句(110202)

2011年02月02日 20時59分35秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★布団干す日差し短きその白さ
★托鉢の襟を正して寒の中
★世を避けて外套の背を猫背かな
★夜の月天の星見て根深汁

 布団が俳句の季語であることにふと気づくと同時に、眼にした真冬の団地の布団を干す光景。取り込むことも想像してみた。
 短い日照時間の中であわただしくベランダに並び、あわただしく取り込まれる。短い時間に白い長方形がいっせいに並びそしてはかったように昼直後に取り込まれる。そんなあわただしさを想像したら、白さが印象に残った。
 帰宅途中寒さの中で月を見、星を仰いで風が体を通り抜けた後の熱い味噌汁は何よりの馳走である。