Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

貰い湯ももう少しで終わる

2022年01月31日 22時46分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日も親の家の風呂を貰い湯。貰い湯は明日、明後日でいちおう終了の予定。いつもは23時半近くになってから入浴していた。貰い湯をしている時は21時半に入浴、するとどういうわけか早く就寝するようになった。湯冷めしないうちに布団の中に入りたいものである。貰い湯も悪くはない。
 こんばんは部屋を暖かくしたので、少し夜更かしである。

 明日は「図書2月号」と「世紀末美術」(高階秀爾)の残りを飲みながら、いつものようにコーヒータイムとしたいが、横浜駅近くの喫茶店まで出かけるか、家のそばのおいしいコーヒーを飲ませてくれる喫茶店か、家で自分でコーヒーを淹れるか。人出が多いからといって家に戻ってくるのもあまり意味はないと思われる。


「図書2月号」から その1

2022年01月31日 20時47分27秒 | 読書

 本日岩波書店の広報誌「図書2月号」が配達された。モバイルノートパソコンはスキャナーに接続できないことはないが、面倒なのでいつものように表紙の画像は次回。

 本日読んだものは、
・【表紙】オスカー・ワイルド     杉本博司
文学とジャアナリズムはどう違うのか」「ジャアナリズムというものは読むに堪えないし、文学は今日では読まれていない。それだけの違いなのだ」(オスカー・ワイルド、「芸術論」吉田健一訳)
 毀誉褒貶、評価は難しいオスカー・ワイルドらしい一句というところか。私は多分食わず嫌いで手を点けることはなさそうである。

・アコークローにさらわれる     平松 麻
波が引くタイミングに合わせて夜がわたしをひっ掴み、一気に海の中へ連れて行こうとする。いっそ全てをほっぼり出してこのまま海に飛び込むのはどうだろう? そうすればわたしも景色の一部になれるだろうか。さっきまでつかまえたいと思っていたような景色の色に。憧れるモティーフに自分自身がなる恍惚をイメージした。でも鞄の中の絵の具がわたしを引き止める。

・ドストエフスキーと現代日本    亀山郁夫・中村文則
(2001年の)池田小事件の犯人をはじめとして、これから紹介する全員(2008年秋葉原連続通り魔事件の犯人、2016年相模原の障碍者殺傷事件の犯人)が死刑判決を受けることになる人たちと、かなり近いところにラスコーリニコフ自身がした、ということをやはり忘れてはならないでしょう。」(亀山郁夫)
ラスコーリニコフにすごく似ているようで、同時にやっぱり決定的に違いもあるのではないかというように僕は思います。これらの事件は、殺人じゃなくてもよかったということです。彼らは生活の行き詰まりにおいて出口を求めていた‥。何かの代替案としての犯罪であって、それが必ずしも犯罪である必要もなかった‥。ラスコーリニコフはひとつの思想を持つんです。後々にものすごく人類のためになる人間が‥犯罪をする権利がある、みたいな英雄思想‥。でも先に挙げられた三つの事件の場合は、僕から見ると彼らの人生の問題と殺人が実は結びついていないです。‥別の問題があるのに、そこから逃げて彼らは人に対して恨みを持って犯罪に走っているだけだ、という気が、僕はどうしてもするんですね。」(中村文則)
ドストエフスキーは、おそらく和解の小説を階て終わろうと思ったんですね。それがロシア民衆とかエリートたちと「皇帝との和解」の問題にスライドする。「未成年」における「父と子の和解」の問題に、より歴史的な広がりの中で描こうとしたのが「カラマーゾフの兄弟」の「第二の小説」ということになります。‥しかし作家自身の死によってその目論見は挫折した。」(亀山郁夫)

・染師 吉岡幸雄先生へ      篠原ともえ
(吉岡先生も)合理的に作業ができないものかとも機械を取り入れるなど試みたようですが、あえなく失敗に終わったそうです。植物染めはやはり古儀に準ずるものであれ。結局辿り着いたのはいにしえからの技法だったそうで、‥。効率や合理性を求める現代社会において、時間をかけて向き合うことの大切さを、先生は暗に教えてくださった‥


「勝ち」「負け」ということ

2022年01月30日 21時01分13秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日電車のつり広告で「新庄剛志「自分に勝てれば誰に負けてもいいんだよ」」というフレーズが目についた。
 私は特に新庄剛志氏が嫌いなわけではない。特に好きでもない。ただ、現役時代の氏のプレーにはあの過剰なパーフォーマンスの是非は別として「花があった」という肯定的な印象は持っている。
 さて私がどうしても気になるのは、どうして現代といわず人々は「勝ち」「負け」にこんなにこだわるのだろう、ということである。スポーツ競技に関わる人も、応援団もそこにこだわる。スポーツに限らず「勝ち」「負け」という価値基準がどうしても理解できない。
 「人に勝つ」とはどういうことなのだろう。
 「私よりも優れた知識・思考力等を持っているので何とか凌駕したい」というのが「勝負」というのだろうか。
 しかし「他人」を仮想敵として認定しないと自分自身の向上が測れないのだろうか。それは人としてとても情けなく、そして不幸なことなのではないか。
 私は中高の体育の教師から、「他人に勝つことで自分を高めることができる」と言われ続けて、いつも「違う」と心の中で叫び続けてきた。根拠となる論理立てはできなかったが、感覚的に絶対にそんなことはない、と叫び続けてきた。

 私は「勝ち」「負け」という判断基準をいったん取っ払ってみることを実践してきたと自負している。こういう価値判断を離れると、とても自由でのびのびとした世界が広がってくる。
 人の価値はひとつのことでは測れない。さまざまな側面を人は持っている。自分より優れたものを他人の中に見つけることの方が楽しい。そのほうが人を十分に観察できる。そして冷静に自分の欠点を多面的に見つめることができると思う。他人に対する評価が多面的となり、コミュニケーションも豊かになること、間違いない。

 さらにまた「自分に勝つ」というのは、どういうことをさすのであろう。わかったようで具体的なことは私には想定もできない。気持ちの向いたもの、好きなこと、興味のわいたことに忠実にまい進すればいいだけの話である。「寝たい・楽をしたい誘惑に負けずに頑張る」ことに価値があるわけではない。時間が限られた課題は別にして、十分に休養しながら頭を柔軟にして目標に向かえばいいだけの話である。

 スポーツ、成績‥何事につけ何か敵を想定しないと前に進まない、自分を高めることができないという思い込みを捨てる地平というのはなかなかいいものである。昔「書を捨て街に出よう」というフレーズが流行った。私は「勝負という概念を捨てて人とコミュニケーション」したいと思い、実践してきたつもりである。
 結果がどうだったかはわからないが、十分に今は幸せである。「勝ち・負け」と「幸せ・不幸せ」は同じものではない。「勝ち・負け」という判断基準から自由になれば、「幸せ・不幸せ」という概念も違ったものになると思う。

 このことはまた別の機会に長々と書いてみたい。


疲労感たっぷりの日曜日

2022年01月30日 11時39分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 昨晩は8時間半も睡眠。8時少し前に起床。
 日曜美術館を見たのち、続けて録画してあった、「BSⅠスペシャル “迷子”の50年」を見た。

 日曜美術館の終了後、強烈に睡魔が襲ってきた。30分ほどリビングルームで寝てようやく目が覚めた。やっと「BSⅠスペシャル “迷子”の50年」を見る気になった。

 60分に満たない番組なのであれもこれも、というのは難しいのだろうが、政治・行政・経済のトップの思いがアラベスクのように散らばっているが、当然のように互いにずれはある。そのずれが表現されているとは思えなかった。また庶民の生活レベルからの視点の比重が少なく感じた。
 無論、判断すること、考えることは受け手にゆだねられている、ということもできる。それが企画者の意図ともいえる。しかしそうであるならば、照屋林助氏や津波信一氏の登場があいまいとなる。
 不満は不満としてあるが、総体として沖縄の現状の理解の端緒が示されたと思う。思いや感想はまだまだあるが、誇れるほどの知識も体験も不足しているので、批評は私もこのへんでとどめておきたい。


人の存在感

2022年01月29日 22時30分06秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日多磨霊園からの帰途、第三京浜から見る富士山と丹沢山塊が美しかった。普段と違う角度・距離から見えても、富士山・丹沢山塊がひとかたまりに見えるとホッとする。横浜に戻ってきてもうすぐで家に着くという気持ちになる。
 雲があっても無くても、夕陽を背景にシルエットとして見る山の形は心に残る。これ見よがしに大きくそびえたつ富士山とは違う。小さくて見落としてしまうほどの大きさではない。どうだ、というのではなく静かに佇んでいる大きさが私には好ましい存在感がある。
 人の存在感というのもそのようなものだと思う。自己主張ばかりの人の存在感は、その場限りの存在でしかない。気が付いたら好ましい印象として記憶に残っていた、というのが本当に信頼される人の存在感である。
 70歳になってそのような人を一人ひとり思い出しながら、自分がはたして人に対して信頼される像として印象に残っているだろうか、振り返ることがある。はなはだ心もとない願望である。
 多分頼りない、単なる頑固者・理屈屋として若い人の心に残ってしまっているのではないだろうか。


納骨終了

2022年01月29日 20時47分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の納骨は何事もなく無事に終了。これで一連の取り組みのおおきな節目を終えた。あとは来月中旬にもうひとつの節目を迎えれば、ほぼ終了。

 本日は歩くこともなく、体力はほとんどつかわなかったが、かなり疲れた。風呂に入る気力もなく、軽くシャワーだけで就寝するつもり。

 歳を取ると精神的な疲労は肉体的な疲労に匹敵するほどの疲労になる。若いころは精神的な疲労はほとんど気にならなかったが、最近は強く感じる。


明日は納骨

2022年01月28日 20時54分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の午後はいつもよりさらにゆっくりと歩いて外出。バスに乗って横浜駅まで。急に体を動かすとまた眩暈になりそうな具合。明日は亡くなった叔母の納骨で外出予定なので、具合が悪いといって寝ているわけにはいかない。多磨霊園まで車で移動である。

 本日は早めに就寝予定。


風呂釜が思いのほか早く入荷

2022年01月28日 19時56分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩風呂上がりに軽く眩暈がした。湯あたりをしたようだ。就寝前も今朝も、血圧は少し高めだが特に心配のない範囲。
 10時前にパソコンの内部SSDを取り換えるために業者に来てもらった。その後は正午過ぎまで2時間ほど布団の中で寝て休養。
 風呂釜の取り換えを依頼していた業者が手続きなどの書類を持ってきてくれた。3月にならないと製品が入らないかもしれないと思っていたが、2月第1週に入荷があるらしい、という情報がもたらされた。おおいにありがたい話であった。

 


家の調度の不具合が重なる

2022年01月27日 23時03分15秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 風呂釜が作動しなくなり、親の家の風呂に入れてもらっている。生き返りはわずか4分ほどであるが、本日は北風が強く寒かった。団地の中を洗面器にタオルと替えの下着を入れて歩くのはとても恥ずかしい。昔ならば銭湯への生き返りというのは当たり前の世界であるが、今の時代、それも団地の中を歩くのは場違いである。不思議なことをしているような気分である。

 いろいろな電気製品が続けておかしくなっている。毎日の髭を剃る電気カミソリも充電しても2回くらいで電池切れになってしまう。そろそろ電池の寿命が来ている。パソコンは修理予定。風呂釜の制御が聴かなくなり取り換え工事待ちである。リビングルームとパソコンルームのガスファンヒーターはときどきギーギーという音を出すようになった。洗濯機も時々ガーッという故障したような音を出す。
 フローリングもところどころへこむ箇所が出てきた。風呂場の塗装の剥がれも気になるところがある。
 一度に不具合が生じてくると対応しきれなくなる。頭が痛い。

 


またもパソコンがダウン

2022年01月27日 20時27分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩23時30分頃、パソコンが起動しなくなってしまった。昨年末いったん直してもらい、調子よく稼働してくれていたのだが、今回はとうとう「内部ハードディスクに機械的トラブル」、「修理窓口へ」という表示が出た。
 内部にハードディスクは使っていないので、内部SSDが早くも損傷してしまったのだろうか。明日業者に見に来てもらうことになっている。内部のSSDを取り換えるしか修理方法がないかもしれない。
 メーカーの保証期間は12月初めで切れてしまっている。メーカーのCドライブを総入れ替えしてもらっても不用で煩わしいソフトがいっぱい入っているので、シンプルで余分なソフトが入っていないウィンドウズに改善してもらうには業者に依頼した方がベターである。ついでに面倒なソフトのインストールやネット環境の設定もお願いするつもりである。

 しかしタワー型の20数万円のパソコンがこんなに早く壊れてしまうのは困ったものである。ときどき不具合が多発してしまう製品に当たってしまうことがあるが、これはそういう製品だったのか。あるいは私の普段の使い方がハードすぎるのであろうか。あるいは接続しているいくつかの外部記憶装置のSSDやディスクドライブ、プリンター等との相性が悪いのか、原因はわからない。

 またまた修理費用がかかる。悲しい、パソコンが動かないとお手上げである。小型のモバイルパソコンではなかなかこれまでの使い勝手は望むべくもない。


ようやくひと段落

2022年01月27日 20時03分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日のようやく業務終了。これでとりあえず最終段階にたどり着いた。最終ゴールはもうすぐ。だいぶ草臥れて、近くの駅の界隈でビールで夕食を摂るつもりでいたが、蔓延防止措置下ということで、この店ではアルコールの提供は停止中、と言われてしまった。やむなく定食のみで慰労会。
 家についてから焼酎のお湯割りで一人乾杯。

 いつものとおり、21時過ぎに親の家の風呂に入れさせてもらう。足は水で洗ったものの、冷たいので石鹸の泡が立たない。足がきれいになった実感のないまま、靴下を取り換えた。

 

 


旧正月・春節

2022年01月26日 23時01分10秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 退職者会ニュース3月号の原稿のいくつかと写真をすでにメールで送信してもらっている。しかし私の都合でまで整理がしきれていない。
 編集作業は2月の中旬から具体的に開始をするので、心配はないがもらったデータの整理は早くしないといけない。来週早々にも整理を完了したい。本当は受信したらすぐに整理しなければならないし、これまでもそうしてきた。
 早めに協力してくれている仲間には申し訳ないが、今回はなかなか整理できない。1月29日を過ぎればなんとかなると期待している。

 さてそろそろ春節。旧正月のこと。旧暦での正月が旧正月となり、俳句の季語としては旧正月で、旧正と略して使う場合が多い。
 横浜など中華街では旧正月を春節として賑やかに祝う。銅鑼や爆竹が鳴り、獅子舞が各店を訪れ、色鮮やかな飾りがあふれる。
 日本、特に都会で暮らす私などには旧正月という雰囲気はすでに持ち合わせていないし、記憶にもないものがほとんどではないだろうか。寂しく、そして何をイメージしていいかわからない。すでに死語に近い。
 しかし春節というと明るく、賑やかなイメージとなる。同じ時候を表すのにこんなにもイメージが違う後も珍しいのではないだろうか。
 そんな旧正月と春節の雰囲気を並べてみた。

★旧正や旅をうながす南の星    大野林火
★密やかに旧正月も来て去れり   相生垣瓜人
★春節や銅鑼の巨濤に呑まる路地  高澤良一
★春節や空を鳩翔け地には獅子   岩崎照子
 


110円と1540円

2022年01月26日 21時29分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午後からは陽ざしもあり、また風も弱かったので少しは暖かく感じた。午後からは妻と横浜駅の地下街に買い物に出かけた。いつものとおり混雑はしていたが、それほどひどい状況でもなかった。妻は購入したものをもって先に帰宅。
 私は百円ショップで杖をテーブルなどに持たせかけるクリップのようなものを購入。杖につけてみた。少ししゃれた同じようなものが某百貨店では1540円となっていた。110円のもので充分役に立つ。
 その後は整形外科経由で帰宅。本日はヒアルロン酸注射の2クルー目の2回目。1回目は少し痛かったが本日はほとんど痛みを感じないうちに終わった。

 明日は大切な業務があり、帰宅後は書類の点検などに追われた。初めてのことではないが、めったにないことなので緊張する。もっとも私は当事者ではなく、代弁者的な立場。時間的には、明日の午後いっぱいかかるとのことであった。

 

 


ユニークな居酒屋

2022年01月26日 09時41分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩の居酒屋でのおつまみはユニークであった。日本酒と合うように「スルメイカの沖漬のルイベ風」というのを注文した。イカ丸ごとではなかったと思うが量はかなりあった。醤油味が私にはとてもきつかった。甘目の日本酒には少し味が強かった。今度からは別のお酒と合わせたいと思う。ただし一人では量が多い。沖漬というのはもともとこのように味の濃いものなのだ、と思える。現代風に味が薄目なのは邪道といえば邪道なのだろう。

 次に「いぶりがっこのクリームチーズ添え」を注文した。以前にいぶりがっこ10枚ほどを乗せたさらに一匙分ほどのクリームチーズが添えられているものを出されて、なかなかいい取り合わせだと感心したことがあった。今回もそのようなものを期待していた。しかし出てきたものを見てびっくり。いぶりがっこが見えない。ポテトサラダのような白いゴルフボール大のものが3つとクラッカーが5枚ほど添えられていた。
 よくよく見ると白いゴルフボール大のものはかなりねっとりと硬めのクリームチーズ。そのなかにいぶりがっこが小さく刻んで混ぜてあった。そして鰹節が少しかかっている。
 箸ではなかなか一口分を分けることが出来ず、スプーンと箸を使ってようやく口に入れた。味はいいのだが、肝心のいぶりがっこの存在感は味わえない。しかも私の好みでは、日本酒ではなく明らかに焼酎やウィスキーなどの蒸留酒向け。

 日本酒を急いで飲み干し、芋焼酎のロックを追加注文して、このいぶりがっこのクリーム添えを平らげた。塩分は摂りすぎであった。
 店主のこだわりが私の意表を衝く形で現れる店である。他の一品料理がどのようなものなのか、興味津々というところ。メニューの行間を読み取るのがなかなか難しい居酒屋であった。

 こだわりの日本酒、それも神奈川の地酒をそろえており、嬉しい店である。そしてこのようにつまみがユニークである。私の感覚とズレがある。不思議なのだが、このズレがひと月も経つともう一度覗いて、味わいたくなる。


予定より呑み過ぎ

2022年01月25日 23時40分45秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 最寄り駅の近くの居酒屋に入って軽く呑もうと思っていたが、美味しい神奈川の地酒を1合半だけでなく、つい芋焼酎のお湯割りを2杯も呑んでしまった。
 言い訳としては出てきたおつまみが殊の外美味しいだけでなく、量が多かったためである。食べきるために追加の焼酎を呑んでしまった。

 帰宅後、そのままベッドにもぐりこんで寝てしまい、先程ようやく目覚めた。本日はブログを更新していないことに気が付いた。慌ててこの文章を記載。

 空は雲が厚く覆い、星の姿を見ることができなかった。それだけではなく、帰り際には小雨がパラついた。少し濡れて帰宅。