Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

一区切りの感想

2014年08月31日 22時43分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 私の在仙時代の友人3人から私のブログの拙い文章に感想を寄せてもらった。魯迅と東北大と私たちの体験について記した記事に対する感想である。とても嬉しい。
 また山形県出身で同じ職場を体験した友人からも激励をいただい。同じ職場や組合で苦労した仲間と、ブログ仲間からもうれしい感想を寄せてもらった。
 私の思いばかりが先行した文章なので、私(たち)と対極にいた人からの意見や、その後に東北大学に入学した方の思い、先行世代である私たちに対する批判や違和感についての文章はまだ直接は目にしていない。間接的な批判としては目にしている。これはおいおい私自身の頭の整理をしながら、誤解もあるようなので少しずつ解いていきたいと思う。

 歴史は、勝ち残ったものの独占物であってはいけない。民主主義の時代となった以上は、また開かれた社会であるためには、そうであってはならないはずだ。そして現在起きていることも、過去にあったことも隠ぺいして無かったことにしたり、都合のいいことばかり並べたてたり、取り繕ってはいけない。
 まして当事者は死に絶えてはいないのである。生き残っているものには、いつかは言い尽くす機会と権利があってもいいはずだ。言い出すか、黙って棺まで持っていくかは、その人の判断だが‥。
 そして40年以上たった今も力を存続している組織が、現在も隠していること、無かったことにしたい思想こそが、当時も今も問われているのではないか。そんな自負を私は持っている。

寄せてもらった感想を読みながら、こんなことを思った。あまりに抽象的で具体性に欠ける本日の文章だが、こんな思いがあったことをとりあえず書き記しておくことにした。


またしても山行は不発に‥

2014年08月31日 20時35分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほど横浜駅にある有隣堂まで出かけて、恵那山の地図を購入し、行動食と塩味が強めのラスクを一袋購入してきた。明後日からせめて前夜泊くらいの山行に行きたいと思っていたからである。小屋に登山道の状況なども電話で確認したばかりである。
 ところが帰宅後天気予報をチェックしたら、今朝までは確か、1日(月)までが雨の予想であったのにいつの間にか2日(火)まで雨のマークになっている。3日中には戻りたいのでとうとう今回の山行は断念せざるを得なくなった。

 今年はもう無理かもしれない。だが、執念深く恵那山と丹沢は年末にかけて再度挑戦してみようと思う。

 ということで今夜は山で飲む予定であった少し高めのウィスキーを飲んで憂さ晴らしとする。

今年の南アルプスは断念‥

2014年08月31日 11時12分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩は朝3時過ぎまで南アルプスの登山地図をにらめっこをしていたが、天候と9月初めの日程上3泊4日は無理と判断せざるを得なかった。
 2泊3日ならば2週続けて山に出かけることは可能のようだ。近場でどこかを咲かそうと思う。
 候補ははじめての山としては恵那山、再訪ということならば奥秩父、丹沢あたりだろうか。今日1日かけて悩んでみるのも楽しそうだ。

 友人のKさんから、仙台と魯迅と東北大学についての私の記述に丁寧な感想をメールでいただいた。感謝。私の云いたかったことをわかりやすく言い換えてもくれた。
 友人では魯迅は読んだことがないので読んでみるといって購入してくれた方もいる。私ごときの記述をきっかけにしてくれるとは、うれしい限り。その方にとって無駄な時間とお金を掛けた、といわれないよう祈りばかりである。

 私は藤田嗣治を引き続きボツボツと読み進めている。

二代目高橋竹山「海をわたる女唄シリーズ(その2)」

2014年08月30日 23時19分20秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 先ほど、第3回二代目高橋竹山サラヴァ東京定期演奏会「海をわたる女唄シリーズ(その2)」《津軽の口説節からアイルランドの女唄へ。共演:小田朋美(ピアノ)ゲスト:大野光子(トーク)/ 企画・制作:佐々木幹郎。<http://l-amusee.com/saravah/schedule/log/20140916.php>》を予約した。

 6月11日の第2回公演に続いての参加。

 口上は

絶賛を博している、東北民謡のなかの女唄から、アイルランドの女唄まで、二代目高橋竹山が新境地を見せる「海をわたる女唄シリーズ」。シリーズ第2弾の今回で、佳境に入っていきます。前回の舞台で、「この世と違う地模様が浮かび上がってきた」、「会場で死者達と同席しているような戦慄をおぼえる」(演出家・和田周)とまで評価された、津軽三味線の鍛え抜かれた妙技と、声を、たっぷりとお聴きください。

二代目高橋竹山が、「女・竹山」として唄う「おれん口説(くどき)」。継母にまつわる物語。津軽三味線の源である「口説節」がいよいよ登場します。村で広がる噂、噂。女たちが取り巻かれている状況は、日本もアイルランドも同じ。そんな噂をからかい飛ばすアイルランドを代表する女性詩人、ヌーラ・ニー・ゴーノルの詩「みんなが言った」を津軽三味線でうたうと、どうなるか。今回も世界初演の新作品を披露します。もちろん、前回、初演したヌーラの詩「ファラオの娘」のセカンド・バージョンも。解説とトークに、アイルランド文学の専門家・大野光子(愛知淑徳大学名誉教授)を迎えて、ケルトの魂と津軽の魂が結びつく、情念のこもった一夜。ピアノ伴奏にCD「シャーマン狩り」で絶好調の小田朋美。

2014年9月16日 (火) 18:30 open 19:30 start
Adv. 3,500円(1drink付) Door. 4,000円(1drink付) ※学割【要ご予約、要学生証提示で】2,000円(1drink付)

となっている。大いに期待している。

ヘンデル「バイオリンソナタ」全6曲(グリュミオー版)

2014年08月30日 22時19分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日は私の好きなヨゼフ・スーク版のヘンデルの「バイオリンソナタ全6曲」を聴いた。本日は1986年に65歳で亡くなったアルテュール・グリュミオーの1966年録音のものを聴いている。チェンバロはロベール・ラクロワ。音源はアナログ録音であるが、それをまったく感じさせない澄んだ音質である。スークと違った澄んだ音質や厚味のある響きを感じることができる。テンポは早くて、スークよりは軽ろやかに弾むような気分を味わうことができる。スークの繊細に対して、音の奥行きと豪快さが身上なのかもしれない。
スークの演奏がどちらかというと楽譜の隅々まで神経を張り巡らして律義な雰囲気を感じ取って息苦しさが嫌だという人がいた。グリュミオーは左手の指のなめらかでよどみない演奏に、安心感を感じるかもしれない。
 あくまでも好みの問題であるが、ともに気に入っているが、常に控えめに評価されるヨゼフ・スークが私の贔屓である。右手の操る弓の弦に張り付いたような安心感がスークである。
 チェンバロ(ハープシコード)はグリュミオー版のラクロワの演奏の方がバイオリンに対して音量が控えめである。これはちょっと寂しい。

   


ヘンデル「バイオリンソナタ」全6曲

2014年08月29日 23時12分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 寝坊してようやく8時半過ぎに起床。昨晩というか今朝は、ブログの記事をアップしたのち、パソコン前で寝間着も着ないでうつらうつらしてしまった。布団に入ったのは3時過ぎ。風邪をひくような危険を冒してしまった。

 本日の飲み会は盛り上がったが、私はその場の後片付けが終わった段階でお暇した。幾人かは二次会に向けて組合の会館を後にしたが、私は本日も深酒をするわけにはいかないので、帰ってきた。
 霧雨のような天気のなか、石川町から高島町まで歩いたところで本降りになり、地下鉄に乗って最寄り駅まで。できればそのまま歩いて帰宅したかったが、雨のなか傘を差して歩く気力は失せていた。

  


 夜になって雨は本降りが続いているが、それほど強い雨ではない。雨の降る秋の夜長はこのような曲がいい。
ヘンデルのバイオリンソナタ全6曲。演奏はバイオリンがヨゼフ・スーク、ハープシコードがズザナ・ルージチコヴァー。1975年の録音。
 いかにもヨゼフ・スークらしい艶やかで混じりけのない伸びのある響きが秋のしとしと降る雨にふさわしい。ひとつひとつの音をじっくり味わうことができる。テンポはこれもスークらしくゆったりなのが、さらにこのような天気にふさわしい。
 音の豊かな響きに合わせて実際よりもさらにゆっくりと聞こえるような気もする。私がもう一枚持っているグリュミオーとヴェイロン・ラクロワよりも演奏時間はどの楽章もかなり長い。
 何回も聴いている曲であるが、飽きることがないのは、ヘンデルだからなのか、ヨゼフ・スークだからなのか。私がもっとも気に入っている第4番など、えてして少し重々しく演奏してしまいがちな曲想の部分もあるが、スークの演奏はあくまでも艶やかに明るい演奏に徹している。テンポの大きな揺れを使った情緒的な演奏ではない。かえってそれがこの6曲の統一したイメージを感じさせる。
 しかし6曲の作曲時期は不明で、まとまった時期の作曲ではないようだ。その上、第2、3、5、6番は現在ではヘンデルの作曲という確証がないという。これは長年この6曲に慣れ親しんできた私には、それが真実であったとしてもとても受け入れがたい研究成果ではある。

   

すっかり秋の雨の気配

2014年08月29日 01時55分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午後一番で友人を見舞いに行ったが、少し遅れて到着したら、直前に本人は手術室に連れていかれていた。2時間後に再度病室を訪れたが、まだ戻っていないとのこと。手術中に問題が生じたのではなく、単に前の患者の手術が少しずつ遅れた結果、戻ってくるのが遅くなっいるとのことを確認して、本日の面会は断念して横浜に戻ってきた。
 久しぶりの友人と石川町駅の居酒屋で話が弾んだ。先ほど無事帰宅。お酒はそれほど飲まずに終わった。明日は休肝日にしなくてもよさそうである。
 しかしこの文章を打ち込んでいるうちに気持ちよく寝てしまっていた。寝るのは得意技。つい先ほど目が覚めて、少しぬるくなりかけたお風呂に30分ほど浸かってきた。

 雨は歩いて帰ってきたころに比べたら本降り、雨音が秋の始まりの夜の静けさを引き立てている。夏の夜に気になった人の声、テレビの音、人の動く気配がない。夏の夜の空気に溶け込んでいる人の気配がすっかりこの雨で流されることを期待したい。

 明日は退職者会の幹事会。終了後軽く飲み会が設定されるかもしれない。500円でお酒も焼酎もビールもそれなりに揃えることができる。
 安く飲むということ、あるいは気楽に飲み会ということに関しては、高齢者を侮ってはいけない。安く仕上げるノウハウと嗅覚は衰えることはあり得ない。それが楽しみで会議に出ているといわれてもやむを得ないのかもしれない。
 若手である私は、机の並び替えなどの場所の設営、後片付けなど裏方に邁進する。買い出しや会計は私などよりさらに特技を発揮する方たちがいる。しかし飲み会というもの、昔から準備と後片付けが楽しいものである。参加予定の人の顔を思いだしながら、惣菜や焼酎などの銘柄を選んだり、座る場所や水・氷の場所など考えながら設営しなくてはいけない。

 この雨模様の一日、午後から随分歩き回った。ウォーキングの運動量には程遠いが、それでも汗が滲む程度の速さで2万9千歩あまり。明日はもう少し早い速度で、汗が流れ出るほどの速さを交えながら歩きたい。
  

印刷

2014年08月28日 12時00分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午前中に予定していた退職者会の会報の印刷は無事終了。いつものことだが、事前に校正、誤字・脱字チェックを念入りにしているつもりでも、印刷が終了し袋詰めの段階になると、チェック漏れに気がつく。これはもう組合のビラや機関紙を作り始めて以来変わらない。時々は妻にも目をとおしてもらうが、指摘されることが多々ある。そのたびに第三者の目というチェックが必要だと実感する。
 しかし20年も前のプリンターに比べ、印刷が早くなったし、仕上がり面が実に綺麗になっている。音が静かで印刷ミスや紙送りでのトラブルもまず起こらない。しかも両面印刷機能がほぼ標準装備されて楽である。

 午後には友人の入院した病院に見舞いに出かける予定。その後、夕刻から別の友人と久しぶりに石川町で会うことになっている。飲み過ぎないように自重しなくてはいけない。

 魯迅を語りながら42年も前のことを記載したら、いろいろ感想をいただいている。ありがとうございます。


「絶望の虚妄なること、希望と相同じい」(魯迅)

2014年08月28日 06時57分41秒 | 読書
「沈黙しているとき、私は充実を覚える。口を開こうとすると、たちまち空虚を感ずる。
 過ぎ去った生命は、すでに死滅した。私はこの死滅を喜ぶ。それによって、かつてそれが生存したことを知るからだ。死滅した生命は、すでに腐朽した。私はこの腐朽を喜ぶ。それによって、今なおそれが空虚でないと知るからだ。
 生命の泥は地に棄てられ、喬木を生ぜずして、ただ野草を生ずる。これ、わが罪過である。
 ・・・・私は、この野草の死滅と腐朽の速やかならんことを願う。もしそうでなければ、そもそも私は生存しなかったことになる。実際それは、死滅と腐朽よりもさらに不幸なことだ。
 去れ、野草、わが題辞とともに。」
              「題辞」(魯迅著「野草」所収、1927年4月26日)


「私の胸は、ことのほかさびしい。
 だが、私の胸は安らかである。愛憎もなく、享楽もなく、色と音もない。
 ・・・・
 わが青春の過ぎ去ったことを、私はとうに気づかないわけではなかった。ただ身外の青春のみは、当然在るものと信じていた。星、月光、瀕死の蝶、闇のなかの花、みみずくの不吉な声、血を吐く杜鵑(ほととぎす)、笑の渺茫、愛の乱舞……たとえ悲涼縹渺の青春であるにしても、青春はやはり青春である。
 だが今は、なぜ、このように寂しいのか。身外の青春さえもことごとく過ぎ去ったわけではあるまい。世界の青年がことごとく年老いたわけではあるまい。
 ・・・・
 私は自分で、この空虚のなかの暗夜に肉薄するより仕方ない。たとえ身外の青春を尋ねあたらずとも、みずからわが身中の遅暮を振い立たせねばならぬ。だが暗夜はそもそも、どこにあるのか。今は星なく、月光なく、笑の渺茫と愛の乱舞さえない。青年たちは安らかである。そして私の前には、ついに真実の暗夜さえないのだ。

 絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい。」
              「希望」(魯迅著「野草」所収、1925年1月1日)


 魯迅にこの二つの文章があることを思い出した。短いと分かりにくいので少し長いが引用してみた。長く引用したからといってわかりやすい文章ではない。理解できない、といった方がいいかもしれない。竹内好は解説の中で「『野草』は当時の急進的インテリゲンツィアの反抗の心理を代表する記念碑的作品であるが、これがこのような屈折の多い表現を取らざるを得なかったところに、時代と作者の負わねばならぬ制約があった。」と書き、魯迅自身は「誇張して言えば散文詩」と書いているとのことである。また「希望」は「青年の銷沈ぶりに驚いて「希望」を書いた」と記している。
 ふたつとも詩であり検閲を逃れるための文章であるから、比喩の読み解きから始めなければならない。
 野草、が何を喩えているのか、暗夜は何を意味するのか。
 これを読んだとき、私がどれだけ理解したかも自身はまるでない。アフォリズムをよむようにして、「沈黙しているとき、私は充実を覚える。口を開こうとすると、たちまち空虚を感ずる」「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」という言葉に寄っていただけかもしれない。
 前者の言葉は、わかりやすい。これはいつも実感することだ。しかし後者などはよくよく考えてもわかりにくい。前後の文章、あるいは「希望」という高々2頁の文章全体を読んでも難しい。それでも当時はわかったような気にもなっていた。それこそ「銷沈」していたからである。
 引用した文章の意味も、今の年齢になってようやくわかることもある。わからないことがより鮮明になることもある。
 いつも頭に残っている文章ではないにしても、時々ふと意識の中に浮かび上がってきて、あらためてどういう意味だったか、と頭を悩ませる言葉である。

非常用食料の買い出し

2014年08月27日 21時06分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一日中雨模様。雨があがったように見えても霧雨が続いていた。15時頃ようやく頭痛が弱まり、葦原の山姥様や通りがかり人様の煽りにのって、横浜駅まで歩いた。帰りも歩くつもりであったが、本降りになってきたので帰りは地下鉄を利用。
 頼まれた買い物は、非常用食料。といっても米・味噌・餅・麺類・アルファ米及びツナ缶・乾燥させた海藻はまだ保管品があるので、今回はイワシやサバやサンマの味噌煮・蒲焼・昆布巻の缶詰、レトルトのカレー・ハヤシルーを各2人で15回分。
 合計1824円。安いものである。缶詰類は高くても108円のもの。レトルト品は安いもので1袋54円からあるが、今回は86円のものにした。
 これらは半年位かけて昼食事に時々食べる。私が一人で昼食を食べるような時か、お酒のツマミにすることもある。
 常備するといっても気休めみたいな感じもするが、外に出るのが何となく億劫な時には助かる。

 明日は午前中に印刷作業の予定。

休肝日

2014年08月27日 10時10分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 少々頭が痛い。昨夜は少々飲み過ぎたみたいである。記憶ではビール中瓶1本と日本酒3合くらい。私にしては多過ぎたかも知れない。

 毎度のことながら飲み過ぎた翌日が休肝日となっている。あんまり休肝になっていないかもしれない。もっと悪いことに、週一回の休肝日の決意が、月2回にペースダウンしていることだ。飲み過ぎと思われる日が月2回程度だから。普段は缶ビールレギュラー缶1本。
 休肝日=飲み過ぎた日の翌日、という定式を変えた方がいいのかな?

 明日は石川町駅で友人と待ち合わせ。久しぶりに石川町駅前のカウンター形式の席が並ぶ居酒屋に行く予定。
 本日は雨の日でもありおとなしく寝ていよう。

「東北大学資料館」と「魯迅記念展示室」(2)

2014年08月26日 16時43分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 1960年代末から1973年までの紛争について、東北大学がどのようにとらえているのか、「歴史のなかの東北大学」という展示コーナーでどのように展示しているかでおおよそのことはわかると考えてみた。



 帝国大学時代から2014年までの長い歴史であるから、そんなに多くは展示はないものと考えた。しかし大学紛争の時代という区分で、横2メートルほどのパネル1枚と展示品から見る限りではそれなりのスペースはとっているようだ。
 だが、その内容は思った以上にひどいものであった、としか言いようがない。

 敗残兵は語ってはいけないのかもしれない。歴史は勝って生き残ったものが記すものであろう。だが、死に絶えたわけではない。墓に入るまでに以下のような捨て台詞くらい吐いても人生の汚点にはなるまい。しかしこれでも抑制を効かせたつもりである。

 「1969年には、全国的な学生運動の高揚のなかで、教養部を中心に、全共闘系学生による後者の占拠・封鎖が多発。こうした紛争は教育環境の破壊、留年者の大量発生などの形で、「一般学生」の学生生活にも深刻な影響を及ぼした。」と記載されている。」



 張り出されている写真は、教育課程分離と青葉山移転問題での学生集会(1966年)、薬学部棟の完成(1969年)、教養部バリケード封鎖解除(1969年)、入試合格発表(1974年)、宮城県沖地震被害(1978年)の5枚の写真が掲げられている。そして展示品のひとつが「国史闘争委員会の旗」と当時の機動隊が学生に向けて発射した催涙弾である。
 まず、「全共闘系学生」と「一般学生」の並列は昔からだが、「一般学生」と「全共闘系学生」の区別はどこにあるのか。学生大会で「全共闘系学生」を支持した「一般学生」とは「被害者」なのか。「学生生活に深刻な影響」は具体的に何を指すのか。
 さらに学生から戦利品のように旗を展示し、さらに催涙弾の残骸をその旗の上に飾る神経が私には到底理解できないものがある。
 そして1972年の紛争、バリケード封鎖と大量留年が1969年の紛争と区別もつかずに「大量留年」という言葉で代用されている。無論1969年から大量留年が3割を超えて常態化していたが、さらに突出して6割を超えたのが1972年である。しかも6割の留年は2年も続いたのである。
 大量留年は「全共闘系学生」の行為による「一般学生」の被害ではない。「一般学生」が封鎖解除に抗議して試験を「ボイコット」したのである。ここでも「一般学生」という言葉が意味不明に使用されている。みんな「学生生活」に多大の影響があるのを承知でボイコットをしたのである。そして「一般学生」であった私に限らず多くの友人が「全共闘系学生」にいつの間にかなっていたのである。
 私もまた多くの友人も、「全共闘系学生」であったことに特段後ろめたさも後悔もないと思う。自分の行為と思想とその後の人生に責任をもって生きてきている。「悪」が独り歩きしていたわけではない。
 そして1972年の紛争の写真は無い。あの大量の試験ボイコットの写真1枚ない。しかし何も私の関わったことを写真で飾ってほしい、と願うほどおめでたい人間では私は無い。
 1972年以降、それまでの騒動が無かったように授業をすることだけに汲々として学生の前から逃げ回っていた教養部教授会の体質が現れている。それを追求しきれなかった私たちの力不足があるのが、とても残念である。ここでも都合悪いことはなかったことにして写真も言及もしたくないという、「隠ぺい体質」が昔と変わらずにある。



 暗澹とした思いで、この資料館から足早に退場した。帰りの新幹線の中でパンフレットを見ると「歴史のなかの東北大学」(300円)、「魯迅と東北大学」(260円)という、展示内容をまとめたというガイドブックが販売されている。これに省略されたものが記載されているのかとも思う。
 両方ともに手に入れたいと思っている。

 さらに帰宅後、ネットで「東北大学資料館」のホームページを見ると「東北大学百年史」の存在を知った。第2、4、8巻に私が関係した時期の記載があるようだ。こちらも見ながら私の思いを記載しなくてはいけないと思うようになった。今度仙台に行くことがあったらこの資料館で「百年史」の閲覧・コピーを是非ともしなくてはいけないようだ。教養部史は入間田宣夫という有名な日本史の教授である。私も随分著書は読んでいる。キチンとした論考をされているのであろうか。それとも「大学」の論理が先に立っているのであろうか。

 もうひとつ不思議なことがある。この資料館のホームページでは、さまざまな時代の写真資料が閲覧できる。1969年当時の紛争の写真も少しはある。ところが1970年から1975年までの写真がほとんどない。特に紛争にかかわる写真はゼロである。当時の教養部教授会は機動隊の導入時や試験ボイコット時の写真を持っていないか、それを記録することすらしていないのである。ひょっとしたら宮城県警に学生を逮捕させるために秘蔵していて、いつの間にか私の手元に残った写真がそれにあたるのであろうか。だが、どんなに請われても私はその写真は絶対に提供する気など、今の時点ではまったくない。
 パネル展示では1969年の封鎖解除では河北新報の写真を提供してもらっているが、1972年当時の写真は河北新報にも東北放送にもないわけが無い。他の新聞社にもあるはずである。探そうという気がさらさらない、あるいは公開したくないだけなのだろうか。恥ずかしいことである。

 ちなみに仙台市史には次のような記述がある。昨年の同窓会では「僕たちの参加した運動というのはこんな程度のものに過ぎなかったかのかな?」などという感想もあったものである。客観的な時系列ではそうなのかもしれないが、せめてこの程度の把握があればあのような展示にはならないと思う。

   

 


「東北大学資料館」と「魯迅記念展示室」(1)

2014年08月26日 13時03分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨日魯迅を私がどのように読んだか、そして魯迅が仙台の地で(日本でといった方がよりよいかもしれないが)何を考えたのか、記載してみた。
 それは仙台の片平キャンパス内にある「東北大学資料館」の「魯迅記念展示室」の展示の感想を記載するにあたってどうしても自分なりに整理しておきたいと思ったからである。
 今年松島を訪れたとき旧仙台医学専門学校で魯迅が学んだ「階段教室」に触れた。「階段教室」は片平キャンパスの大学本部棟の裏手に人目につかない場所に隠れるように建っている。私はこの建物に記憶が無い。江沢民はここで魯迅が受講した席に座って感慨深げにしていた、というがどのような思念が去来したのであろうか。魯迅が生きていたら、江沢民の政治をどのように評価したか、江沢民を迎えた東北大学というものをどのように思ったか、ここでは触れないでおこう。

      

 この階段教室を挟んで立っている立派な本部棟の向かい側の古い建物に「大学資料館」がある。昨年の同窓会のときにはこの前をみんなで歩いたものの、まったく気にも留めなかった。話題にすればよかった。事前の下見、予習が足りなかったと反省している。

 この資料館は無料で一般開放されている。2階に「歴史のなかの東北大学」という展示や企画展示室(8月末まで「東北大学とノーベル賞」)があり、常設として「魯迅記念展示室」がある。2011年開設ということでごく最近である。



 魯迅記念展示室は当時の仙台の様子から、魯迅(周樹人)の入学許可などの資料のほか、藤野厳九郎教授が添削したというノート、人となりも中心になっている。そしてこのコーナーの最後は東北大学がいかに留学生を受け入れてきたか、特に中国からの著名な留学生の紹介で終わっている。
 藤野教授が魯迅に贈った実物大の写真や朱筆で丁寧に添削してあるノートなどは、教授の人となりを窺わせとても興味深く見た。そして小説「藤野先生」の記述が事実とかなり一致していると思った。魯迅の藤野厳九郎教授に対する敬愛は小説の末尾に記載されているとおりのものなのか、と感慨深かった。
 昨日引用しなかったのでここに記しておく。

 ‥彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。仰いで灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語りだしそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。
              「藤野先生」(1926年10月、岩波版魯迅選集、竹内好訳)

   

 さて私が引っかかったのは、展示のこの表現である。解説の文章を記すと、「「吶喊」の自序」によれば、医学生・周樹人が文学の道を志すきっかけとなったのは、仙台医学専門学校二年生のとき授業で見た日露戦争に関する幻灯写真のなかの、中国民衆の姿であったという。この話には文芸作品としのある種の創作が含まれていると思われるが、戦争に関する幻灯が学校で上映されたこと自体は、現在残されている資料からも確認できる。「幻灯」の記憶は、藤野先生の思い出とともに、作家「魯迅」の中に、重い記憶として永く留められていたのだろう。」となっている。
 私はこの記述を見てビックリした。
1.どうして引用が「吶喊自序」であって小説「藤野先生」ではないのか。展示の大きなスペースを割いて藤野厳九郎教授の人となり、周樹人に対する指導の熱心さなどを展示しているのにかかわらず。
2.どうして「幻燈事件」の内容が中国民衆の姿だけなのか。「吶喊自序」にも言及してある「見せしめのため日本軍の手で首を斬られようとしている」が欠落しているのか。小説「藤野先生」では、「首を斬る」は「銃殺」になっているが、この場面で級友が「万歳!」といって「みな手を拍って歓声をあげた」ことも重要な要素になっている。
3.確かに「藤野先生」は小説であり創作も含まれている。しかしもしも「記憶」の思い返しであってもそこには作者の思想を通過したフィクションは紛れ込む。何が創作か事実かは、現場にいた級友の証言を抜きにしては確定しない。大学の調査では級友からの聞き取りでそこまで確認できなかったと言いたいようである。それならば何故「確認が取れなかった」と記さないのか?
4.この展示では周樹人が医学をやめた理由はあまりに薄っぺらい。日本の民衆による一中国留学生に対する心無い様々な仕打ちや偏見(これが仙台だけの記憶ではなく日本での印象全般であったと推察することもできる)、そして対極にあるとしるされている藤野教授の指導など総体的にとらえなければならないのではないか。
5.展示では藤野教授のプラス評価だけがクロースアップされている。仙台医学施文学校と東北帝国大学、後身の東北大学の留学生に対するプラス評価ばかり並べていては、日中の歴史は語ることはできない。そこに横たわるマイナス評価も冷静に検証する姿勢は「大学」だからこそ問われるのではないか?
6.「展示」というものは展示を見たものに考える素材を提供するものである。展示する側があらかじめ得た結論はあくまでも検証の素材として提供されなければいけない。1960年代半ばの私に示された中学生の国語教科書の「記述削除」のように、隠ぺいするばかりでは正確な読みは出来ない。

 ここまで考えたとき私は、この「隠ぺい体質」という言葉がとても気になった。都合の悪いこと、対応の面倒なことを避けてとおる体質というのは私が体験した1970年代前後の教養部の体質そのものではないのか。東北大学というのは、そのころから何ら変わっていないのではないか。ひょっとしたら周樹人が学び魯迅へと飛躍しようとした時代からも変わっていないのではないか。
 私はとても暗澹とした気分になった。私は大学から逃れるように仙台から離れた。だからその後の大学に何ら関わっていない。外部の感想でしかないが、それでも「国立」である以上、私にも発言する権利くらいはある。

 そこで当初は見る気もなかった「歴史のなかの東北大学」の展示も見ることにした。当時のことがどのような視点から展示されているか興味が湧いてきた。

変換ミス

2014年08月26日 10時22分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 コメントをふたついただいた。ありがとうございます。

 「私の「魯迅」事始めと仙台」の指摘してもらった変換ミスと言葉の間違いを訂正した。一部言い回しも変えた。
 自分では間違いが無いと思っているので、2回ほど見直したのに見落としている。気がつくと情けないミスばかりである。校正とまではいかなくとも、見直しでちゃんと見つけられるようになりたいものだ。

 これからセキセイインコの籠の掃除と餌・水・菜っ葉の取り換えをしてからいよいよ大学史料館の感想に着手する。午後出かけるまでに仕上げることができるだろうか。心もとない。

 本日は曇空。空の雲が厚く垂れこめている。湿気もかなり高いようだ。夜に雨が降らないといいのだが‥。


本日の作業

2014年08月25日 22時39分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は、「私の「魯迅」事始めと仙台」と題した記事をひとつアップし終わったら15時を過ぎてしまった。その後退職者会の会報の校正をしたところで、目が疲れて明けているのがつらくなり、30分ほどベッドでうつらうつら。
 17時直前にウォーキングに出かけて90分ほどで13000歩、約8.5キロのコースを歩いた。朝一番の歯医者と若干の買い物がてら、5000歩ほどを速足で歩いた。毎日の目標に4000歩ほど足りないのでこれから30分歩いてくることにした。雨がふりそうな雲行きなのが心配である。

 今週中に藤田嗣治のエッセイを読み終わりたいのだが、ちょっと遅くなっている。来週中に近藤史人の書いた藤田嗣治の伝記も読み終わらなければならない。明後日から少しネジを巻いて読み進めようと思う。

 明日の夜は友人の入院を前にした励ます会という名の、友人たちが勝手に飲む会に招待されている。病人は飲めないのでかえっていい迷惑かもしれない。