私の在仙時代の友人3人から私のブログの拙い文章に感想を寄せてもらった。魯迅と東北大と私たちの体験について記した記事に対する感想である。とても嬉しい。
また山形県出身で同じ職場を体験した友人からも激励をいただい。同じ職場や組合で苦労した仲間と、ブログ仲間からもうれしい感想を寄せてもらった。
私の思いばかりが先行した文章なので、私(たち)と対極にいた人からの意見や、その後に東北大学に入学した方の思い、先行世代である私たちに対する批判や違和感についての文章はまだ直接は目にしていない。間接的な批判としては目にしている。これはおいおい私自身の頭の整理をしながら、誤解もあるようなので少しずつ解いていきたいと思う。
歴史は、勝ち残ったものの独占物であってはいけない。民主主義の時代となった以上は、また開かれた社会であるためには、そうであってはならないはずだ。そして現在起きていることも、過去にあったことも隠ぺいして無かったことにしたり、都合のいいことばかり並べたてたり、取り繕ってはいけない。
まして当事者は死に絶えてはいないのである。生き残っているものには、いつかは言い尽くす機会と権利があってもいいはずだ。言い出すか、黙って棺まで持っていくかは、その人の判断だが‥。
そして40年以上たった今も力を存続している組織が、現在も隠していること、無かったことにしたい思想こそが、当時も今も問われているのではないか。そんな自負を私は持っている。
寄せてもらった感想を読みながら、こんなことを思った。あまりに抽象的で具体性に欠ける本日の文章だが、こんな思いがあったことをとりあえず書き記しておくことにした。
また山形県出身で同じ職場を体験した友人からも激励をいただい。同じ職場や組合で苦労した仲間と、ブログ仲間からもうれしい感想を寄せてもらった。
私の思いばかりが先行した文章なので、私(たち)と対極にいた人からの意見や、その後に東北大学に入学した方の思い、先行世代である私たちに対する批判や違和感についての文章はまだ直接は目にしていない。間接的な批判としては目にしている。これはおいおい私自身の頭の整理をしながら、誤解もあるようなので少しずつ解いていきたいと思う。
歴史は、勝ち残ったものの独占物であってはいけない。民主主義の時代となった以上は、また開かれた社会であるためには、そうであってはならないはずだ。そして現在起きていることも、過去にあったことも隠ぺいして無かったことにしたり、都合のいいことばかり並べたてたり、取り繕ってはいけない。
まして当事者は死に絶えてはいないのである。生き残っているものには、いつかは言い尽くす機会と権利があってもいいはずだ。言い出すか、黙って棺まで持っていくかは、その人の判断だが‥。
そして40年以上たった今も力を存続している組織が、現在も隠していること、無かったことにしたい思想こそが、当時も今も問われているのではないか。そんな自負を私は持っている。
寄せてもらった感想を読みながら、こんなことを思った。あまりに抽象的で具体性に欠ける本日の文章だが、こんな思いがあったことをとりあえず書き記しておくことにした。