明日の午前中に印刷所に持参するデータ類や打ち出し原稿は、ようやくそろった。USBメモリーも忘れないようにリュックに入れた。ホッと一息。
明日の午後は8人ほどで、組合の会館で会議。役員会のようなもの。
15日には退職者会の幹事会。それまでにA4で1枚ほどの資料。ならびに私の属するブロックに配布する新聞。といってもA4裏表で、これは手作り。部数も75部ほどで済む。退職予定者への退職者会への勧誘活動の一環。
ということで本日はこれにて業務終了。
1年が経つのが早い、という感覚は私は未だ感じた記憶はない。慌ただしい業務をこなしていると、12月に一年が早いなどと感慨にふけるゆとりなどなかった。だが、2月はいつも気が付くと明日から3月、という気分を味わった。
現役のころは11月から4月中旬までが慌ただしかった。11月になると年度末の仕事の準備を始めなくてはならない。いつも12月は、ねじり鉢巻きでまだまだ気が抜けない時期だと思っていた。そして年度末の処理が完全に終了するのが、5月の連休明け。2月がたった2日間とはいえ少ないのは、業務量からするとつらかった。
しかも市役所の労働組合としては人員問題や異動対応、新年度からの業務変更、機構改革、予算要求など課題が目白押し。業務と組合課題が覆いかぶさってしまう。
5月中ごろになってようやく仕事と組合業務から解放されて、有給休暇を取得することができた。現役のころは、5月末日が1年の切り替え日になってほしい、と心底願ったものである。5月になって、ようやく長い半年が終了した、という感想を繰り返してきた。その癖が9年経っても未だに抜けない。37年の習性というものはそう簡単には消えないものである。
現役で働いている多くの方は、私のような公務員経験者に限らず、慌ただしい生活を送ることを余儀なくされており、私だけがつらかったわけではないはずだ。日本では仕事に携わる状況が確かに慌ただしすぎる、というのはよく言われる。その通りなのであろう。
ただし、私も桜の花だけは記憶に残っている。電車の車窓から見える桜並木にも目を奪われた。しかしもっとも記憶に残っているのは、私の職場の敷地の桜である。5本ほどのソメイヨシノが川側にのびのびと枝を伸ばしていた。それが一斉に咲くと、職場の窓が突然のように明るくなった。2階の窓を開けると花をつけた枝が室内に入り込むほど見事であった。メジロなども窓ガラス越しに間近に見ることができた。
さらにヤエザクラがウナギの様にながい敷地の端に2本あり、連休前のひと時はその旺盛な花をつけ方に圧倒されていた。あのヤエザクラのエネルギーが私にもほしいと思っていた。
いよいよ3月に入り、サクラの開花の話題がテレビの天気予報などで語られるようになる。妻はサクラを見て回るのが好きである。今年も私は後についてあちこちと歩き回ることになるであろう。コロナ禍の今年、これまでよりのんびりとサクラを愛でたいものである。
雲一つない、というほどに晴れ上がった。風が感じられない。気温は正午前に9.7℃であったが、それ以上に温かく感じた。
団地の管理組合の作業で朝から簡易的な樹木の剪定作業。ここ5年ほど腰の痛みと膝の痛みに悩まされている私は、本当に作業量が落ちた。悲しいと思う。すぐに腰が痛くなり、1時間過ぎたころからは、剪定ばさみも、のこぎりもやめて、剪定で出た小枝や葉をビニール袋に入れたり、箒で掃くことに回った。
正午直前に、参加者もかなり疲れたところで本日の作業は終了。
明日は、午前中に印刷会社に退職者会の記念誌の追加原稿と写真、差し替える画像や表などを持参する予定。そのデータのまとめをしなくてはいけないが、疲れたのでその作業は夜に延期。
軽く一休みしてから、いつものとおりコーヒータイムで出かけたくなった。
2月14日、元横浜市専任主幹の鳴海正泰氏が亡くなった。飛鳥田市政の生き証人がまた世を去った。
鳴海正泰氏は、横浜市長であった飛鳥田一雄氏の招きで1963年に横浜市に招かれた。1978年まで在籍し、企画調整局専任主幹として飛鳥田市長の政策遂行に大きく貢献された。
私が大学の5年目にあたり、横浜市役所を受けるときに、19年前に東北大学を卒業したかたがブレーンらしいということを初めて知ったが、名前までは知らなかった。飛鳥田市長の名前はよく聞いていたが‥。
1974年末に横浜市に採用が決まった時に「政策ブレーン、ふところ刀としての鳴海正泰」という名を恥ずかしながらようやく知った。1975年に就職して以降、「国の省庁でも鳴海正泰と田村明は有名らしいぞ」と教わった。
1978年に飛鳥田一雄市長が退任直後に市を退職。私が就職して3年後に退職したわけで、当然にも平職員の私にはまったく面識もないままであった。雲の上の人であった。しかしその後も多くの管理職が「鳴海さんは怖い面もあっが、ざっくばらんに意見交換ができた」という評価をしていたのを聞いた。1980年に関東学院大学教授に就任。
1990年、自治労横浜が再建されたとき以降、労働組合の自治研活動などで姿を見る機会が多くなった。横浜地方自治研センターの理事長に就任された以降、幾度か講演会などで言葉を交わす機会に恵まれた。集会や講演会の後の居酒屋で、「同じ東北大学」ということで仙台の川内の旧兵舎を利用した傾いた校舎の話や、大学の紛争の話、寮の話などをした記憶がある。
最近は、村雨橋で飛鳥田市長を先頭にベトナムに行く米軍戦車を道路構造令を盾に座り込んで戦車を止めた闘争が映画などで再び脚光を浴びた。多くの市民が直接道路に座り込んだ闘争である。来年はその闘争に50周年である。
最近では、林市長の「カジノ誘致」に反対する講演会などにも足を運び、年末には会場であいさつなどもさせてもらった記憶がある。飛鳥田一雄市長の「住民による直接民主制」の実現に奔走された鳴海正泰氏から見て、住民投票条例を求めた署名活動や、それに対する林市長の「住民投票条例拒否」の市長意見は、どのように映ったであろうか。意見・評価をぜひ聞きたかった。
1931年9月生まれなので、亡くなったときは89歳。
私が編集している労働組合の退職者会の機関紙にも急遽訃報を掲載することになり、先ほどまでレイアウトの変更作業であわただしかった。
昨日のカワヅザクラ、寒さにもかからず、ずいぶんと赤味を増していた。散るまでに色が濃くなるのが、カワヅザクラの特徴のなのだろうか。花の寿命も長いようだ。
メジロが何羽もいたけれどもスマホのカメラでは追いきれなかった。花の塊の中に入り込んでしまい、カメラには収まってくれなかった。
散っている花弁は、自然に落ちた花弁ではなく、メジロなどに啄まれたもののようにも思えた。
午前中の作業はとりあえず終了。夜にもう少しやってみたい。
さて、この間、退職者会のニュースの9月号、11月号、正月号、3月号、並びにこの5年で亡くなった役員を偲ぶイベントのリーフレット、そして40頁に及ぶ記念誌の編集をこなしてきた。ずいぶんと根を詰めて、時間的にもゆとりが少なかった。コロナ禍で行動が少なかったことがさいわいしたともいえる。
多分3月いっぱいで記念誌の作業も終了するはずである。4月に編集する5月号は記事がないのが気になる。しかし5月に予定している30周年記念式典と退職者会の年次総会の報告のニュースを6月中に編集して、一連の作業はひと段落となるはずである。一年間途切れずに続いた作業は、さすがにくたびれた。作業がひと段落すると同時に、コロナ禍の行動自粛も解除になってほしいものである。
どこかで一息つきたい。心身ともにそろそろ悲鳴を上げそうである。妻にもストレスがかかっていると思われる。年を取れば、息抜きの感覚が狭いと実感するこの頃である。
本日は、広重「冨士三十六景」から「駿河薩タ(さった)之海上」。
これはもう北斎の「冨嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」のパロディである。北斎が横長の画面ならばこちらは縦長の画面に大きな北斎もどきの波を押し込めている。北斎よりは富士山は大きい。北斎が波に翻弄される船を描いたのに対し、広重の波は手前だけ。奥のほうの波は凪いでおり、中景の船も静かに帆を上げ、手前の船も水平の姿勢を保ち、動いているようには見えない。時間も動きも止まっている。空の雁も、嵐の空ではなくのどかにすら見える。
波が大きく崩れ落ちようとしてるけれども、波のうねりともどもどこかぎこちない。手前も時間が止まっているようだ。
私はどうしても北斎に軍配を上げてしまう。
多分北斎の波と違って繰り返しが強調されていないためだと思う。
そして広重自身の「東海道五十三次 由井 薩埵嶺」にも軍配を上げざるを得ない。
北斎の「神奈川沖浪裏」は1831年ころ、まだ黒船来航には時間があるが、海の彼方からやってくる時代の不安が漂ってくる気配がある。広重の作品からはあまりそのような不安は感じない。広重の冨士三十六景のほうがはるかに不安な時代であったにもかかわらず。
ただし北斎の冨嶽三十六景と同時代の広重の東海道五十三次からは生き生きとした江戸の庶民の生活が伝わってくる。
この二人、並べて鑑賞するのが私の好みである。
本日の午後、ウォーキングで7000歩ほど歩き、コーヒータイム&読書タイム。そののち、1100円の理髪店で短く借り上げてもらった。頭がすっくりしたが、店の外に出ると寒さが頭皮に直接あたり、慌てて野球帽を被った。
その後も寒い中、ウォーキングで帰宅。約1万歩。寝るまでには、2500歩ほど追加で歩いてくる予定。
喫茶店では「眼の神殿」を続けて30ページほど読み進めた。
夕食後は、先日印刷所に送信した機関紙の校正刷りが早くも出来上がってきた。思ったよりも早くできた。慌てて、誤字・脱字のチェック。若干手直しをしてもらわねばならならないところがあり、月曜日に記念誌の打ち合わせで訪れるので、そこで最終打ち合わせの予定。
まだ記念誌の編集作業がひと段落しておらず、複数の作業を並行すると頭の中の整理がうまくいかなくなる。年は取りたくないものである。
帰宅してみたら本日は強風・乾燥注意報が出ていた。空は一面厚い雲が覆っていたけれども傘は必要なかった。
ベートーヴェンのビアノソナタの30番、31番を聴きながら昨日の作業の続き。だいぶ空白部分は埋まった。表の差し替えと画像の差し替え、並びに1ページ半ほどの文章がまだ必要。
表と画像の作り替えに時間がまだかかる。本日の昼間の作業はここまで。だらだら作業をしていてもはかどらないので、印刷所に電話をして、今度の月曜の午前中に修正原稿を印刷会社に持参することにした。期限を切ったほうが、目標ができて私もいい。
私の手元に届いていない原稿と写真は、月曜日以降に送信することで許してもらうしかない。発行日は5月1日だが、納品は5月10日頃。連休もあり、スケジュールは厳しい。
重い荷物はできるだけ早く下ろしたいものである。
外は寒々しい。これより、所用もあり、いつものとおりウォーキング&コーヒータイムで出かける。久しぶりに横浜駅近くの喫茶店に出かけてみることにした。地下街や人通りの多いところは避けて、駅の外周で用事を済ませたい。
傘を持ったほうが無難とのことである。
ベートーヴェンのビアノソナタの30番、31番を聴きながら昨日の作業の続き。だいぶ空白部分は埋まった。表の差し替えと画像の差し替え、並びに1ページ半ほどの文章がまだ必要。
表と画像の作り替えに時間がまだかかる。本日の昼間の作業はここまで。だらだら作業をしていてもはかどらないので、印刷所に電話をして、今度の月曜の午前中に修正原稿を印刷会社に持参することにした。期限を切ったほうが、目標ができて私もいい。
私の手元に届いていない原稿と写真は、月曜日以降に送信することで許してもらうしかない。発行日は5月1日だが、納品は5月10日頃。連休もあり、スケジュールは厳しい。
重い荷物はできるだけ早く下ろしたいものである。
外は寒々しい。これより、所用もあり、いつものとおりウォーキング&コーヒータイムで出かける。久しぶりに横浜駅近くの喫茶店に出かけてみることにした。地下街や人通りの多いところは避けて、駅の外周で用事を済ませたい。傘を持ったほうが無難とのことである。
夕食前2時間と夕食後2時間、退職者会の記念誌の編集作業を行った。さすがにくたびれた。本日の作業はここまで。これ以上やっても間違いが重なったり、時間が余計にかかって進捗しない。
さすがにくたびれた。2月あと3日でおしまい。この作業は28日までにはひと段落終えたい。A4で3ページほどの文章を作り上げることも終えたい。
40ページの冊子を作るということがいかに大変か、身に染みてきた。
明日は本日と同じくらいの気温であるが、曇りで横浜では午後にはところにより雨が降るらしい。
午前中は「美術の物語を読む」の連続講座の18回目「美術の危機 ヨーロッパ 16世紀後半」を受講。
午後からは、退職者会の30周年記念誌の編集作業を若干。手直しや新しい原稿などがたくさん寄せられてきた。しかも早くも印刷所から、校正刷りも送られてきて、これから一週間は入念な作業が必要になった。
しかも今のコロナ禍のもと、2ページ分の原稿は当分未確定である。記念事業やイベントの予定が立てられない。編集作業に携わるものとしてはヤキモキ、というより悲鳴が上がっている。発行日を見据えてスケジュールとにらめっこの日が続く。
作業にも疲れたので、これより休憩・ウォーキング・コーヒータイムということで出かけることにした。読書は眼がつらくなっているので本日は休止。
歌川広重の「冨士三十六景」から「甲斐大月の原」。大月のそばの岩殿山付近という説もあるらしいが、「大月の原」がどこにあったかは不明とのことが解説に記載されている。
人は誰もおらず、晩秋の草花を描くことに力点が置かれている。時にススキと女郎花の色合いが引きたつ。中継のススキの黒い穂も印象的である。
広重らしさ、というよりも私は酒井抱一の秋草図を思い浮かべてしまった。最初目にしたときは、水の流れが大きな川なのか、小さな水路なのか、よくわからなかった。
大きな流れとしては、草花との釣り合いが取れずに現実感はない。
視点が低く、それも人間というよりも秋の虫の視点のように草を見上げる視点に思える。そして虫の音が聞こえてきそうである。
尾形光琳の紅白梅図屏風や、酒井抱一の夏秋草図屏風のパロディの様にも感じた。
左右対称の富士山と手前の山並み(御坂山系か)とススキの原の間には距離があり、この原の広さがかなりのものであることをうかがわせる。よく見ると草原も左右対称に近く、西洋画の構図に影響を受けたとも解釈できないだろうか。