Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

暑い夏を今年は乗り切れるだろうか

2017年06月30日 23時29分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はどういうわけか疲れがたまったようで、帰宅後すぐに寝てしまった。湿気が多いと体もだるい。歩き方教室ではそれなりに体は動いたが、家に帰ってそのままベッドに直行して夕食までそのまま。
 読書もする気もなかった。正月から風邪や膝痛や坐骨神経痛、風邪と調子が悪い。このまま暑い夏を乗り切れるのか、心もとない。

 明日も退職者会の行事の取材に昼前から夕方にかけて出かける。明日は歩き方教室のような健康志向のものではなく、会議でのあいさつと懇親会のお付き合い。懐かしい人との賑やかな会と思われる。
 楽しい会であることと、健康的なのか否かはまた別問題。問題は飲み過ぎないことだが、これがむつかしい。私自身が勝手にむつかしいことにしてしまっているのではあるが‥。

 しかし家に戻ってこの会と懇親会の模様をすぐに記事にしなくてはいけない。飲み過ぎて寝てしまってはまずい。


歩き方教室

2017年06月30日 20時25分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は退職者会で、歩き方の講習を受けた。登山やハイキング、ウォーキングに精を出しているが、歩き方の基本を学んだことがない。正しい姿勢や、腰の動かし方、そして靴の選び方、紐の結び方などいろいろと教わった。90分間、休憩をはさみながらの講習は最後にラジオ体操第一で締めくくり。
 歩き方も、ラジオ体操も、私が小・中・高時代に口汚く怒鳴られ、罵声を張り上げる体育教師に押し付けられた体の動きとはまったく違っているところが何か所もある。一見理屈を教える体育教師もいたが、陰に回ると理由もよく分からないまま陰湿な小突き回しをされ、随分いじめられた。
 今回は理にかなった説明は実に楽しい。私の登山やウォーキングの体験からも頷けるものであった。自分なりに理にかなっていたと思われる動きも、意識すべきポイントを整理してもらえるとすんなりと頭の中に入ってくる。ただし体で覚えるまでには何回も指摘をしてもらわないと身につかない。何しろ合点がいっても数分で忘れてしまうのが高齢者の得意技である。
 そんな楽しい会話と笑いを繰り返しながらの90分は楽しかった。


「図書7月号」続き

2017年06月30日 07時54分35秒 | 読書
・「大きな字で書くこと 父 その1」          加藤典洋
 1頁の短い連載であるが、この「父」のシリーズは、作者の父の「特高主任」としてのことを記載しようとしているようだ。
 共謀罪というものがいま国会で審議され、一強の自民党主導で通ろうとしている。この原稿が活字になる頃には、国会をどのような形でか通過しているかもしれない。この法律は、一名、現在板の治安維持法である。そう聞くと私の中でびくりと反応するものがある。
 という文章から今回ははじまる。次回以降も注目していきたい。

・「サイエンスの視点、アートの視点」(ルビンのツボ①)  齋藤亜矢
 頭よりからだを通して感じるようにすると「!」に出会えるように思う。それは、アートに対峙するときも同じかもしれない。頭の奥をちょっとゆるめる感じで作品に向きあうとき、アーティストが見いだしてきた「!」に出会えることが多いからだ。
アートとサイエンスの交差する場をフィールドに、自分のからだを通して「!」を探すことからはじめたい。そこに、アーティストの「!」やサイエンスのさまざまな視点からの「?」を添えて、ゆるゆると綴っていければと思う。

「図書7月号」(岩波書店)

2017年06月29日 23時19分40秒 | 読書
 本日届いた本は「図書7月号」(岩波書店)。目をとおしたものは、

・「迷宮から迷宮へ」          司 修

・「もう同じことはやりたくない」    鈴木敏夫

・「落語の神様-三遊亭円朝」      桂 歌丸
 日本語というのはやっぱり面白い。円朝師匠のものだって、これは速記で言葉をそっくり移してあって、読めば筋とは別に、円朝という人物まで浮かんでくるじゃありませんか。つくづくすごい人だったと思いますね。

・「三笠宮との対話」          原 武史
 人文社会系の学者にとって、研究対象との「距離」をどうとるかは難しい問題である。大正から離れれば離れるほどとらえづらくなるが、かと言って逆に没入してしまうと客観化できなくなるからだ。私の場合、神道や天皇制を研究している関係上、神社を訪れても参拝はせず、皇居や元御用邸や歴代の天皇陵は見学しても天皇や皇族には会わないようにしてきた。

・「大きな字で書くこと 父 その1」  加藤典洋

・「ガン退治に効果的な食事法」     高橋三千綱

書籍1割引きの誘惑

2017年06月29日 20時21分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は神奈川大学の生協の加入手続きを終了。加入する根拠となったのは「書籍10%オフ」ということ。これはとてもおおきい特典である。退会時に戻って来る4500円を払って手続き終了。
 六角橋のキャンパス内は多くの学生で溢れており、その中を通り抜けるのは、どこか恥ずかしさをともなわないと歩くことができない。すれ違う学生の若さが眩しいと同時に、ふと45年も前の時分を思い出す恥ずかしさである。後者の方がずっと恥ずかしさをともなう。
 咳と痰がまだ治まらない妻を冷房の効いた新しい校舎にすえられているベンチで休ませている間に、加入手続きを終えた。待っている妻にとっても居心地はあまりよくなかったようだ。
 その後は買い物を付き合い、コンビニのイートインコーナーでコーヒータイム。朝からの歩数は1万歩ほど。夜にもう一度ウォーキングに出かけることにした。

どんよりとした空気は何時まで続くのか

2017年06月29日 11時29分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほどまでは曇り空でとても蒸していた。どんよりとした空気が重く感じられた。団地内を一周して必要な写真を数枚撮ったが、それだけで汗をかなりかいた。
 今は少しだけ雲に切れ目が出てきて、ときどき明るくなる。フラームスの「交響曲第4番」の第1楽章、木管の音が空の明るさに比例して明るく聴こえる。
 14時くらいまでには、本日の仕事は一応終わらせたい。

 しかしこのどんよりとした雲と空気以上の「政治の劣化」の進行は本当にひどいものである。安倍総理は稲田某のトンデモ発言に「総裁としてお詫び」といったらしいが、総理大臣・任命権者としては何も言わずに「続投」なのか。もうめちゃくちゃである。復興大臣の罷免は早かった。トンデモ発言であるが「東北で良かった」は法には触れていない。今回は憲法と公職選挙法と自衛隊法や国家公務員法に抵触するのではないかという状況である。「違法ではない」という根拠が本人からも、政府からは示されていない。にも拘わらず「撤回したい」である。「(この部分を、あるいは発言全体を)撤回します」とは断定していない。「(具体的な部分を示さずに)撤回したい」だそうである。撤回したい、で済むならば「言ったもの勝ち」ということである。発言を具体的に示さずに「撤回したい」で撤回したことになるなら、もっと楽であろう。人に迷惑をかけて第三者に「謝りたい」と語ったたとしても、それでは謝ったことにはならない。そんな社会になってほしくないものである。



少しだけ気持ちにゆとりが‥

2017年06月28日 23時01分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の作業は思った以上に進んだ。明日で予定の作業は終わる可能性も出てきた。順調にいけば、30日、1日の退職者会の行事に参加できる可能性が出てきた。助かった。取材を兼ねた参加であるがひょっとしたら参加が無理になるかもしれないと、あきらめていた。
 最近は慌ただしくて、予定が入っていない日も団地の管理組合の作業が続いて、ウォーキングに支障が出ている。時間的なゆとりがあるようなときも、体が疲れて喫茶店で本を読んでいても、寝てしまうことのほうが多い。
 明日は曇り空、作業が順調ならばウォーキングは出来るかもしれない。しかし、頭と体が「休みたい」モードになっている可能性が高い。「体が休みたい」モードの時は、寝るか温いお風呂か、ボーっとするかで済む。「頭が休みたい」モードの時は難しい。ボーっとしたり体を休めたりするのも有効な場合はある。また忙しかった分野以外の本を読むか、ウォーキングをするか、ということも有効な時がある。お酒を飲むと有効なこともある。どれがより有効か、選択が大切である。




「大伴家持」(藤井一二)

2017年06月28日 20時35分23秒 | 読書
 久しぶりに夕方に横浜駅に出て喫茶店でホットコーヒーを飲みながら読書タイム。



 リュックに本を入れ忘れたので、やむなく中公新書で「大伴家持-波乱に満ちた万葉歌人の生涯-」(藤井一二)を有隣堂にて購入。
 しかしなかなか面白そうな著作であった。まだプロローグと序章しか読んでいないが、楽しく読めそうである。
 プロローグの中で、大伴家持についての論考が掲げられている。
 北山茂夫「大伴家持」、尾山篤二郎「大伴家持の研究」、中西進「大伴家持」をあげている。
 この内、北山茂夫「大伴家持」は平凡社ライブラリーで購入し、2010年に読み終わっている。内容はほとんど記憶にないので、これを読み終わったら読みなおすのも楽しいかもしれしない。さいわい古本屋に売り払っていないので、まだ残っている。

ブラームス「交響曲第4番」

2017年06月28日 11時44分38秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 退職者会のニュースの原稿をようやく本日印刷所に送信できた。予定より1日早く送ることが出来た。あとは校正刷りが出来上がるのを待つことになる。
 少し気分が楽になった。



 ということで本日はブラームス「交響曲第4番」。カラヤン指揮のベルリンフィル管弦楽団。録音は1988年10月。
 この曲の冒頭の3度の下降と6度下降の主題が、ヴァイオリンと木管のカノンのように絡み合っていく。これを聴くと心が広々とした海か空に広がっていくようだ。対照的な第2主題も唐突な感じはしないで第1主題と不思議に寄りそうような感じである。ティンパニーが効果的に配置されているのも気に入っている。
 第2楽章の第1主題もホルンによって奏せられるので、のびのびとした印象である。第3楽章のスケルツォはデモーニッシュという評もあるが、私には明るい軽快な曲想に聞こえる。
 フィナーレは変奏曲。30の変奏がある。起承転結があるように聴こえるのが不思議である。この楽章も私にはおおらかな曲調に聴こえる。11番目の変奏のフルートのソロが美しい。とても気に入っている。

 随分と聴きこんでいるこの曲、楽譜を追っていくと複雑な構成であることがわかるが、楽譜を離れて全体のたっぷりと味わいたい響きを持っている。

羽抜鶏

2017年06月27日 23時18分36秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★羽抜鶏片目にわれをとらへけり    古館曹人

 この羽抜鶏、かなり鋭い眼光のようだ。羽抜鶏というといいイメージは少ない。疲れ切った様を思い浮かべる人もいよう。だがこの句の鳥は違う。鋭い眼光の奥に野生を保っている。人はそれを鳥の矜持だと捉える人もいる。
 決して人に心を開かない鳥かもしれない。一応なついていてもどこかで人間に対する警戒心を執拗に持っている鳥がいる。あるいは常に怯えている鳥もいる。
 片目で睨む眼光にたじろぎ、びくっとする私は、どこかに疚しさがあるように見抜かれている。怖い目である。

国立西洋美術館の常設展

2017年06月27日 21時59分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日は、午前中に国立西洋美術館に集合して36名で常設展を鑑賞した。アートナビゲーターの中村宏美様の素敵な解説をいただき、13時近くまで全員が満足して解散。中村様には感謝してもしきれないほどお世話になった。
 初めて美術展を見た人、初めて国立西洋美術館に入場した人、企画展は見たことがあるが常設展は初めてだった人、解説を聴いてまた来ようと思ってくれた人‥企画した側としては嬉しい感想を貰った。
 上野駅傍のうどん店で昼食後は6人で日暮里駅⇒谷中銀座⇒へび道⇒善行寺坂⇒東京藝大⇒上野駅と周回、アメ横の居酒屋で16時から19時まで打上げを行った。
 飲んだ割には1850円というかなり安い支払いで済んだ。もっとも肴は漬物などの一番安いものばかりをひとり一皿頼んだだけなので、あとは飲み代ばかり。お店の人にとってはあまりいい客ではなかったと思う。

 私はカメラマン、切符手配、案内係‥と雑用係で作品を見る時間は皆無。まあ致し方なかった。

杏の実

2017年06月26日 23時20分25秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★落ち杏(あんず)踏みつぶすべくいらだてり     杉田久女

 踏みつぶすのは別に杏の実でなくとも、梅でも枇杷でも李でもいいのかもしれない。しかし少し赤みのかかった大ぶりの杏ならば、桜の実などの小さい実よりはもっと生々しい印象を与える。かといって林檎や桃ならば大きすぎる。
 小さい実ではなく、杏の実の大きさからかなり苛立っているのであろう。そのいらだちは誰に向かっているのか、誰が原因なのかには触れていない。
 苛立ちは杏という自然を見たからと言っておさまってはいない。地面によそよそしくおさまっている杏が作者には内面のいらだちと等価なものしてと釣り合っている。その杏をこれから踏みつぶそうとしている。
 作者の存在を踏みつぶされるような敵意を相手に感じて、怒りが沸き上がっているというような激しいものではない、と私は受け取った。逆にやさしく扱われて、逆に自尊心を傷つけられたような場合なのかもしれない、と思うこともできる。そんな自分への苛立ち、そんなことに思い至った。人の心の襞をくすぐられたのかもしれない。そんな風に考えた方が、杏の容や味覚に沿うような気がしてきた。
 ひょっとしたら愛の一瞬なのかもしれない。

ブラームス「交響曲第3番」

2017年06月26日 18時50分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 カラヤン指揮のベルリンフィルの1988年の録音である。
 実は私が初めて聞いたブラームスの曲がこの交響曲第3番であった。19歳になりたての頃だったと思う。そのままブラームスの虜になった。
 木管楽器のくぐもったような響きが続く第2楽章、第3楽章がことのほか気に入った。
 旋律がこんなにもくぐもって表面に出てこない曲がどうして人気があるのかな、という疑問と同時にこのような曲を提示するブラームスという人格がとても身近に感じた。
 1970年という年の時代の雰囲気は、大学にいる自分の周囲の状況から覗く限り暗い沈鬱な世界であった。全共闘運動の敗北と後退局面、高揚のあとのけだるさと、希望などどこにもないような重苦しさにキャンパスの中は重苦しかった。60年代の空気すべてが否定され、問いに対する回答も、回答することすら憚れるような重苦しさがあった。党派性という、身に絡みつくような制約と内部対立・抗争の萌芽が垣間見えていた。
 第3楽章のチェロに始まり木管に引き継がれる主題が、そんな抜き差しならぬ予見のように感じられた。少しばかり見える明るさと自分の周囲の暗さのギャップに思えた。予見というよりも予兆というのだろうか。
 フィナーレを聴きながら、1971年という年を前にして、この暗い世界にどうやって立ち向かおうかという先の見えない反問を繰り返していたことを記憶している。ヘタな希望には自分の人生を騙されたくない。自分では論理構成できない不安と苛立ちにこのフィナーレを重ね合わせて聴いていたと思う。
 私は1971年を迎えて、どこで吹っ切れて、どこで再び立ちどまったのだろうか。すっかり忘却の彼方のこととになってしまった。
 このフィナーレの雰囲気は当時の私の心をいたくくすぐった。

 ただし当時聴いていたレコードはすでに廃棄してしまっている。ベームの指揮だったと思うが、オーケストラの名前も記憶にない。

半夏生

2017年06月26日 14時58分57秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 ようやくニュースの原稿がほぼ出来上がった。細かいところでは修正が必要なところもあると思われるが、あとは写真3枚貼り付け、7月1日のイベントの記事、小さな囲み記事ひとつで終了。面積にして3.8枚を埋めることが出来た。今日・明日・明後日は退職者会の業務に専念させてもらう。これを印刷所に送信する段取り。
 これを片付けてから29日から2日間は団地の管理組合の業務に専念しなくてはいけない。1日はまた退職者会のイベントに参加して追加の記事を書くことになる。綱渡りのような一週間である。

★木の揺れが魚に移れり半夏生    大木あまり
 半夏生は二十四節気七十二候のうち、夏至の第三候。サトイモ科の半夏(烏柄杓の漢名)が生じる季節。「半夏半作」という語があり、この日までに田植えを終える習わしであった。半夏雨はこのころに降る雨で、降れば大雨とされている。
 半夏生の句というと雨がつきもののようだが、この句は雨とはつながらずに成立している。明るい初夏の太陽のもとでの句であろう。私の半夏生のイメージも明るい陽射しである。


気分的にゆとりがない

2017年06月25日 23時51分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 退職者会のニュース、ようやく形になってきた。4頁の内どうやら3.3頁分をほど出来上がり。明日中にほぼ出来上がりの形にしたいものである。しかし1面に掲載する大きな記事の一部の原稿がまだ未着である。原稿さえ送信してもらえれば後は楽なのだが‥。
明日はとりあえず予定が入っていない。一日中パソコンの前で作業となりそうな気配である。明後日は西洋美術館に退職者会のグループとともに常設展の鑑賞に行くことになっている。この報告記事で最後になる予定である。

 この新聞の編集作業が終わり次第、今度は来月の団地の会議の資料作りを、2日ほどで仕上げなければいけない。

 気分的にまったくゆとりがない。