Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

一年間の閲覧に感謝いたします

2020年12月31日 21時03分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 今年一年の閲覧、ありがとうございました。本年はこれにて終了します。といっても明け方には新年の最初の投稿を始める予定です。

 この一年、コロナ禍のもとでのブログでした。新型コロナに対処するに政治とそこに現れる論理と言葉のとどまることを知らない劣化が、いつの間にか「当たり前」と思えるような状況になってしまいました。カルト化したような政治とともに、社会の閉塞感も強まり、先が見通せなくなっています。

 これまで「国家」の論理が全世界的に規模で前面に出てきています。残念ながら、日本は先頭集団に位置しているのではないでしょうか。他文化との共生はおろか、他者・他文化・他国に対する非寛容へ至っています。そしてその結果として、「戦争」が露出してきているのではないかと危惧しています。

 新しい年が、コロナ後の明るい世界を見通すことができる年であることを願っています。さらに政治の劣化を食い止め、社会の閉塞感を吹き払うための一歩となる年になってほしい思います。


活字中毒

2020年12月31日 20時02分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 先ほど目を通し終わった「マックス・エルンスト」展の図録で本日の読書は終了。理解できずに「読了」というのも残念であるが、やむなし。
 これで年間53冊ほどを読了できた。といっても再読してものや、月刊雑誌などでは全体を読んではいない。必要な個所を読み終わって「読了」とししたものもある。

 このほかに推理小説を7冊ほど。今年の読んだ推理小説は赤川次郎の三毛猫ホームズのシリーズを2冊と、ポール・アダムの「ヴァイオリン職人」シリーズを3冊。そして中山七里のヒポクラテスのシリーズを2冊。
 頭がくたびれているときに読んでいる。ヴァイオリン職人のシリーズは推理小説しての展開というよりは、ヴァイオリンの名器や過去の名演奏家、作曲家をめぐる知識を得るのが楽しい。ヴァイオリンについての蘊蓄を楽しんでいる。
 中山七里のヒポクラテスのシリーズは後続の3冊目がまだ文庫化されていない。三毛猫ホームズのシリーズは膨大にあるうちの5冊ほど読んだので、そろそろおしまいにする予定。

 推理小説は中学3年のころに、シャーロックホームズとエラリー・クイーン、アガサ・クリスティのシリーズなど翻訳ものばかりをむさぼり読んだのがとても懐かしい。小遣いも足りないので、伊勢佐木町の有隣堂で立ち読みで読んでしまったものも随分あった。しかしわずか1年、100冊ほどで推理小説そのものに飽きてしまった。

 今は立ち読みで読み飛ばしてしまうことはできなくなった。足が疲れてそんなことはとてもできない。目もそんなに根を詰めて読むと視力が続かない。1時間もしないうちに活字を終えなくなる。

 しかし活字中毒は一生治らないと思われる。活字を追えなくなったらどうなるか、考えることもしたくない。
  


「マックス・エルンスト」展の図録を読む

2020年12月31日 17時56分22秒 | 読書

 1977年に西武美術館で開催された「マックス・エルンスト」展の図録をようやく読み終えた。とても難解な解説が並ぶ。

 まず、マックス・エルンスト本人の「シュルレアリスムとは何か」、「ダダ」、そして「マックス・エルンスト:自伝メモ」という詳細な亡くなる前年の1975年までの自伝が掲載されている。

 解説には、
・マックス・エルンスト(1921)       アンドレ・ブルトン
「相へだたった二つの現実に手をのばしてそれらを接近させ、そこから何か光芒を引き出すこと、また具体的なものと同じ強度、同じ起伏をもってよびおこしたさまざまな抽象的形体を、私たちの感覚の範囲内におくこと、身許保証のすぺてをうばった上で、私たち自身の記憶のなかへ追放すること--これらの不思議な能力こそ、一時的にでも彼を引きとめているものなのだ。」
 主語と述語が一致しない文章で、全体を読んでも私の能力を超えている。
・侮蔑された絵画(1930)          ルイ・アラゴン
・絵画の彼岸(1939)            ポール・エリュアール
・光輝く使者(1942)            ヘンリー・ミラー
・幻覚について(1948)           ロベルト・マッタ
・哲学者マックス・エルンスト!(1959)   ジョルジュ・バタイユ
・ヴェルナー・シュピースへの手紙(1976)  フランツ・パルケ
など12名のエルンスト評の抜粋が10ページも並んでいる。
 また「エルンストと現代」という坂崎乙郎の解説が並んでいる。

 これらの解説を読みながら「シュルレアリスム」について理解をしようとしたが、理解には至らなかった。
 いくつか引用しようと思ったが、理解できていない文章を引用・掲載するのもいかがなものか、と思い断念。

 シュルレアリスムの理解は今年は断念。来年以降に何かの折に再度挑戦することにした。

 文章での理解と作品を見ての理解、ともに一筋縄ではいかない。 


私が不審者?!

2020年12月30日 23時07分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 一日中どこにも出かけないで夕方になってしまった。少しでも外を歩こうといつものドラッグストアまで買い物に出かけた。
 往復3000歩にもならなかった。買い物袋を道に置いて、電柱にスマホを固定して満月を撮影していると通りかかった中年の女性が不審に思ったらしく、じっと立ち止まって私を睨みつけていた。撮影が終わってから買い物袋を持ち上げると女性は振り返りながらなおも私を睨みつけていた。私のほうが先に曲がって団地の中に入ったので、その後の女性の振る舞いはわからない。

 年末になってとうとう不審者扱いと相成ってしまった。年寄りが空を見上げて星や月を眺めることが、まっとうなことではないようだ。 


今年最後の満月

2020年12月30日 20時32分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 18時半くらいから突然風が強くなり、ベランダにあるものが大きな音を立てて動き始めた。植木鉢を覆っていた透明の鳥よけの傘、水を入れ忘れていた小さな如雨露を慌てて風のない隅に移動したり、水を入れて重くしたり、と少々慌てた。そして急に気温が下がってきたようでもある。
 本日は今年最後の満月。17時ころには東に月が上り始めた。ちょうど反対側の西側では、土星に近づいていた木星が今にも沈みそうな位置で、夕日が沈むに従いその輝きを増している。木星と土星はだいぶ離れている。木星のほうが地球に近いから、土星よりも早いスピードで移動している。
 月に話を戻すと、夕方に青い空に見える白い月は私にはとても薄っぺらに見える。青い空に貼りついている白い月は、向こう側が透けて見えるような薄焼き煎餅のように見え。しかし蔵なってから上って登ってくる月は、立体感があり、厚手のホットケーキを眺めているように思える。
 冬の満月の直前にはことさら青空の月は薄っぺらに見える。そして赤っぽく上ってくる月はことさらに厚みがあ。残念ながら高く上るにつれ、その厚みは薄らいでいく。

 今年も大晦日を控えた本日も、近くの中学校ではおそくまで職員室に灯かりがともっている。最近の学校の先生の遅くまでの労働を見ると、とても恐ろしい時代だと思う。しかし同時に、折り合いの悪かった教師との確執をも思い出す。だれでもがそうであろうが、十代のころの教師像は、プラスとマイナス、相半ばである。


谷川俊太郎「少年と世界」

2020年12月30日 18時25分47秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 岩波書店の「世界」は創刊75年ということで、巻頭に谷川俊太郎が「少年と世界」という詩を寄せていた。

  少年と世界
                  谷川俊太郎

少年は世間より先に
世界に目覚めた
今日にり先に
永遠を知ったつもりでいた

自作の短波ラジオから
海を越えて遥かな声が聞こえ
机の上の地球儀の世界は
プラネタリウムの宇宙に直結していた

見知らぬ地平に憧れと畏れを抱き
目をつむって音楽に溺れ
言葉の網の目にからまれながら
無意味の深みに生きて

落語に笑いながら泣きながら
少年はリンネを無視して
名もない野の花々の種子を
言葉の土壌に撒き続ける

生の賑やかな混沌のうちに
終末の静けさがひそんでいる
いつか老いて神を名付けるのを拒み
彼は落ち葉の寝床にやすらぐだろう

 




 「世界」は岩波書店の「世界」であり、少年にとっての外界としての「世界」の両方の意義であることは間違いないだろう。
 「世界」を読むことで、地球規模の世界の出来事が少年に届いた。それは私も体験したことであった。
 それ以上はこの詩についていうことはない。わかりやすい、そして私の胸に響く詩である。私にとっては最後の「いつか老いて神を名付けるのを拒み/彼は落ち葉の寝床にやすらぐだろう」は、今の感慨でもある。

 久しぶりに詩を読んだ。
 


「世界1月号」から

2020年12月30日 16時22分11秒 | 読書

 午前中は、岩波書店の「世界1月号」と1977年のエルンスト展の図録の解説を交互に読んだ。
 「世界」では、地方自治に関する論考「自治のある社会へ」だけでなく、地方自治と沖縄に関する文章も読んだ。

・幸福を掲げた自治の実践               達増拓也(岩手県知事)・五十嵐敬喜
「五十嵐:達増知事は(震災直後から)宮沢賢治の言葉を引用しつつ「幸福の追求」を最大の目標として掲げていた‥」
「達増:阪神淡路大震災を教訓に‥仮に復興に10年かかるとして、それは10年かけてその10年前の時代に戻すというのではなく、10年かけて10年後のあるべき姿に追いつく復興でないとだめだと岩手では強調してきました。」
「達増:市町村・県・国それぞれがまったく新しいことに挑戦するビジョンと力を持ちたい。」

・瀬戸際の地方自治 企図される惨事便乗型の制度改革             岡田知弘
「必要なのは菅首相が強調する「自助」を基本にする「新しい生活様式」ではなく、「公共」の役割を重視する「新しい政治・経済・社会のあり方」である。何よりも住民の感染防止と命を守るために公共の責任を全うすることが求められている。」
「コロナ禍における保健所や公的医療現場の厳しい状況が明らかになったにもかかわらず、それらの現状分析をまともに行わないまま、新たな地方制度改革の方向性が第32次地方制度調査会答申として首相に提案(6.26)された。」
「(答申でいう)「地方自治」は「コミュニティ機能を強化し、自分たちで支え合いながら地域を良くしていく‥」行為であり、地方自治体の主権者の主権行為としての「住民自治」では、もはやない。行政サービス機能の効率化を図るという目標を設定すれば、団体自治は不要になり、住民自治は足元のコミュニティ活動だけに限定される‥。‥憲法上定められた地方自治権を否定し、国に従属する「地方行政サービス体」にするということになろう。」

・「大阪都構想」の失敗と自治                         森 裕之
「「大阪都構想」の住民投票が呼び起こしたのは、大都市における市民主体の自治意識である。それは個人主義が強い市民が、都市共同体の一員であるという自治の精神を蘇らせたことに他ならない。このことは、新自由主義のいでおめぎーが広がった現代において共同体自治を基盤とする社会を取り戻す可能性を示すものである。」

・持続可能性の確保から自治の確立へ                     倉阪秀史
「2050年に化石燃料依存から脱することができれば、エネルギーを将来にわたって自給できる国家ととなる‥平和に寄与することはいうまでもない。分散的なエネルギー供給システムが構築できれば、災害に強い国家も実現できる。いまだに原子力発電や高効率の石炭火力を輸出する政策を進めようとする考え方が残っているが、もはやそんな産業政策はやめてしまった方がよい。‥国内の持続可能性の確保にも寄与する産業政策をいまこそ進めるべきである。」

・新たなツーリズムの構築へ 沖縄 壊滅的状況からの再出発    富川盛武(沖縄県副知事)
「地域・住民との共栄を要件に、沖縄県民のウェルフェアに寄与する観光の推進が求められている。‥観光と地域経済の活性化、それと地域コミュニティへの影響とのバランスという問題は、国内外の観光リゾートにおける共通の課題です。観光客数という量の拡大を優先する観光振興策から脱却し、質を重視した持続可能な観光を推進していきたい。」

・観光のパラドクスと地域コミュニティ 小樽の観光まちづくりの教訓      堀川三郎
「都市の変化を行政主導の開発政策に委ねるのか、それとも住民をも含み込んだ社会的合意によってコントロールしていくのか、--小樽で展開された運河保存運動が‥都市再開発、都市ガヴァナンスという文脈で注目されてきた理由だ。」

・観光の根源とはなにか 横浜IR「非カジノ」構想から考える         山本理顕
 カジノ誘致を前提とした横浜市の構想案募集に対して、建築家の山本理顕氏が「カジノなしのIR」を提出。「2万人が働きながら暮らす」というビジョンの背後にある思想を展開。
「案はヴェネツィアをモデルにしていますが、人種の坩堝として多様な文化が花開きました。‥その中心概念は多民族都市です。‥横浜市にかぎらず、最近の地方自治体のコンペには、公共建築を主導するのは市民ではなく地方自治の首長だという、悪しき行政中心主義があります。観光地を形作っているく上で重要なのは住民自身であり、住民自治です。」
「われわれの案は長期滞在を前提・目標にしています。これは要するに異文化の人たちを横浜市民のコミュニティに招き入れて、その一員として生活を一定期間ともにするということです。‥横浜市民は見直す一つの契機になる。‥今回横浜市の要請で、事業期間を40年で考えてくれ、というものです。新しい観光地を作るにに40年もでは事足りるとするのは、あまりに近視眼的です。もっと長期的な視野に立った良い方向に進めるべきだと思います。」

・コロナ戦記 沖縄-第三波のプレビューだった苦闘             山岡純一郎

・片山善博の「日本を考える」 大阪都構想から汲み取るべき教訓        片山善博
 この住民投票の「罪」について次のようにまとめている。
「コロナ対応の真っ最中に大阪市を潰そうとした愚‥新型コロナウィルス対策に尽力している市職員たちの士気に影響を与えずには置かないことは容易に想像される。‥首長や議員たちには、府政や市政にとって今何が一番大切なのか、わからなかったのだろうか。その見識が問われてしかるべきである。」
「国会議員ポストの犠牲にされかかった大阪市‥公明党が大阪都構想に賛成に回ったのも一種の妥協である。ただ通常の妥協とは性質を異にする。府と政令市の統治機構を変えるという重大な政策を国政選挙の議席の取引材料に提供した」
 さらに
「東京都政を点検するとして、東京都の行政は23区に焦点を当てすぎている‥。多摩地域の市長との意見交換では、東京都にとって多摩や島しょ部はおまけのような存在でしかないのではないか、という不満もあった。」「そもそも東京都制とはどういうものか、改善点はないのか、近隣の自治体と比較点検してみるのも意義あることだと思う。」

・但馬日記  「知らんけど」の文明考                   平田オリザ
「学術会議の問題は落としどころのみつならぬまま長期戦に入るようだ。‥任命拒否の理由の開示を愚直に求めていくしかない‥。この問題の背景には、この10年で肥大化した反知性主義という視点が外せない。政治家はやせ我慢でも「知らんけど」といってはいけないことになっていた。そのタガが相当緩んでしまった。(トランプ、橋下徹、杉田水脈などの例をあげ)それを許容し賞賛さえする勢力が周りにかなりいのだろう‥。「風俗産業をもっと使え」となどという発言は「本音の政治」と呼ぶに値するだろうか。「本音」ではなく「本能」ではないか。人間は動物としての本能を理性によって制御することで、高度な文明社会を築いてきた。‥子育ては本能との闘いだ。こうして人は少しずつ人になっていく。その営みを後退させてはならない。」

・沖縄という窓 大城立裕氏が照らした「自分ごと」              松元 剛
「政治とは一線を画し、文学を通して沖縄人に歴史と文化、アイデンティティの大切さを自覚すること、本土の国民に、戦後も変わらぬ沖縄の不条理に「自分ごと」として向き合うことを穏やかに求めた秀作群にぜひ触れてほしい。」

 街づくりの視点、行政の立場、などさまざまな発言・論考がならんでいるが、共通点がある。地方自治というのは首長の主導でもなく、まして国の政策の実現のための第一線のサービスでもなく、あくまでも「住民自治」「住民コミュニティのための憲法に保障され規定された制度」であるということである。それが今、ないがしろにされ、国によって骨抜きにされようとしている。新しい時代の新しい都市や地方のコミュニティ形成に敏感になる必要がある。
 コロナ禍、地方自治という観点からみると、この間の地方自治体の疲弊と政治の貧困が大きく災いの拡大に火をつけていることが理解できる。

 いづれも大変興味深く読んだが、特に横浜のカジノを含むIRについての論考はとても参考になった。

 


来年、行ってみたい美術展

2020年12月29日 22時21分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 「日経おとなのOFF 2021美術展」を見ながら、「訪れたい」と思った展覧会を並べてみた。すべて行けるわけでもない。またコロナ禍はまだ続くとすると、「事前予約制」ということで、思いたったら見に行く私は、苦手な鑑賞スタイルを強いられてあきらめることが多いとも思われる。

・没後70年 吉田博展              1.26~3.28  東京都美術館
・琳派と印象派 東西都市文化が生んだ美術       ~1.24  アーティゾン美術館
・河鍋暁斎の底力                   ~2.  7  東京ステーションギャラリー
・古代エジプト展 天地創造の神話           ~4.  4  江戸東京博物館
・クールベと海 フランス近代絵画 自然へのまなざし
                                                            1.10~6.13  パソナニック汐留美術館 
・フランシス・ベーコン パリ・ジュールコレクションによる
                                                              1. 9~4.11  神奈川県立美術館葉山
・テート美術館所蔵 コンスタブル展          2.20~5.30   三菱一号館美術館
・生誕150年記念 モンドリアン展 純粋な絵画を求めて
                           3.23~6. 6   SOMPO美術館
・あやしい絵展                  3.23~5.16  東京国立近代美術館
・カラヴァッジョ《キリストの埋葬》展       3.24~5.10  国立新美術館
・風景画のはじまり コローから印象派へ      6.25~9.12  SOMPO美術館
・ミネアポリス美術館 日本絵画の名品       4.14~6.27  サントリー美術館
・マティス 自由なフォルム            9.15~12.13  国立新美術館
・川瀬巴水展(仮称)                10. 2~12.26  SOMPO美術館
・イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜   10.15~22. 1.16  三菱一号館美術館
・与謝蕪村 「ぎこちない」を芸術にした画家」   3.13~5.  9  府中市美術館
・ゴッホ展                    9.18~12.12  東京都美術館

 この中でも、「琳派と印象派」、「コンスタブル展」、「モンドリアン展」、「カラヴァッジョ」、「風景画のはじまり」、「マティス」、「川瀬巴水展」、「ゴッホ展」は見逃せない。
 果たして、来年はどのくらいの美術展に行くことができるであろうか。
 トライアローグ展が終わると横浜美術館は長期の改装に入るので、近くでのんびり絵画に囲まれる、ということができなくなる。それもまた残念である。

 


「図書1月号」 その2

2020年12月29日 20時30分03秒 | 読書

 本日目をとおしたのは、次の8編

・ガリヴァーの囁き(前編)         吉田篤弘
短い時間の中に多くの経験を詰め込んでしまうと、人間が本来備えている〈時〉に大きな負荷がかかります。負荷は肉体にも精神にも重くのしかかり、‥自らの寿命を全うできなくなるのです。‥わたしたちはそうした当たり前のことも判断できなくなりました。
外の世界を見聞するということは、いつでも、自分の内側を見つめることでした。

・知識と社会の過去と未来 -М・ウェーバーから百年(3)   佐藤俊樹
今回のパンデミックで、感染予測の数理モデルなどの計算社会科学的な用具(ツール)の強力さを実感した人は多いだろう。「数式だけで社会も解明できる」とする語りが、理工系を中心に、これからさらに増えてくるだろうし、それに対抗して、哲学や思想系からは、「コトバによる用具への反省こそが大切だ」といった語りが生み出されていくのだろう。けれども、その対立をくり返すだけならば、、19世紀末の‥自然科学vs.文化科学の図式と変わらない。現代の社会科学はその二項対立を抜け出すことから始まった。‥М・ウェーバーが100年前に始めた研究は、その路を照らす道標としいて、今も私たちに明るい光を投げかけている。

・あれは奇跡だったのだろうか       高橋三千綱
「冷酷な女医なんかに診察してほしくないから退院するんだ。無能力を覆い隠す医者なんかもぐりだとそういってくれ。ああ、これでストレスから解放された」。すると傍にいた男の看護師が笑い出した。私は彼の助けを借りて点滴をはずし、‥」

・瓦礫のなかの「四次元」 -2011年7月、釜石      亀山郁夫

・「俺の自叙伝」             四方田犬彦

・1916年、漱石と李光洙        斎藤真理子
人の評価は棺を蓋うまでわからないとよく言われるが、棺を蓋ってもわからないことはわからないままだ。満鉄の招きで漱石が書いた「満韓ところどころ」や、「門」に出てくる伊藤博文暗殺事件への言及についてはさまざまな解釈がある。だが結局のところ、漱石自身が日本の帝国主義と朝鮮支配をどう考えていたのかは、私たちの想像の外にあるのではないか。‥漱石は死後68年めに伊藤博文に代わって千円札の肖像になり‥

・音の祭り                橋本麻里
音もまた、現世や日常とは異なる、聖なる時空・存在の到来を示し、あるいはそれ自身によって変貌を引き起こす、「かざり」の機能を揃えているのだ。

・いのち、かがやく世界へ         長谷川櫂
 この長谷川櫂の連載は、いつも死のにおいを漂わせている。その死のにおいからさまざまな「生け」が醸し出されていく。今号では平知盛の「見るべき程のことは見つ。いまは自害せんとて‥」の言葉の意味合いを解こうとしている。
 引用の現代の俳句についても、死のにおいが色濃く写っている。

 蛍来よ吾のここめのまんなかに     長井亜紀句集「夏へ」
 春の水いのちにいのち宿りけり          々
 蚕豆やどの子も莢にねむらせん          々

 


損な性格といわれるが‥

2020年12月29日 18時24分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩布団に入ってから、退職者会の記念誌の作業の不備に気が付いた。気になって仕方がないので、早めに起床して訂正を始めたら、他のページにも不備がいくつかあるのに気が付いた。すべて訂正していたら、正午過ぎまでかかってしまった。
 「妥協するのが下手」と昔から仲間に言われてきた。確かに手抜きが苦手である。自分ではきちんとした仕上げをしたつもりでも、プロの校正者にかかれば、私がこだわったところもいとも簡単に改善される。そんなことを幾度も経験してきた。
 しかしそれでも手抜きができない。ここは手抜きをしても印刷所できちんと直してくれるはず、とわかっていても気になって仕方がない。友人には「凝りすぎ」「拘り過ぎ」「損な性格」といつも言われてきた。
 余りに根を詰めすぎて「体調を崩すぞ」と言われて、現に具合を悪くしたことは何回もあるが、あらためることができないまま、とうとうこの歳になってしまった。もう生涯治らないだろうといわれる。

 作業がひととおり終わったら、正月用の花やお酒を買いに行くので昼食の用意をしていない、との宣告。やむなく妻と親の後ろから荷物持ちとしてついていった。買い物の最中に昼食にありつけた。まるで散歩に連れていかれた犬のようにおとなしく付き従った。
 ただしお酒の店ではこだわりの日本酒と焼酎、そして赤ワインを購入。この時だけは顔がほころんだ。帰りがけには屠蘇散も手に入れた。

 帰宅してから「図書1月号」を読了。


「図書1月号」 その1

2020年12月28日 22時36分29秒 | 読書

 夕方、岩波書店の「図書1月号」が届いた。そういえば最近は毎年これを読んで大晦日を迎えていた。毎年そのことを忘れていて、届いてから思い出すのを繰り返していた。
 本日は3編だけ読んだ。いつもの通り覚書として。

・鬼婆の母               司  修
「モシモ日本ガマケタナラ/デンシンバシラニ花ガサク‥」嘘みたいな歌を大人も子供も歌って喜んでいたのです。‥こんなの嘘だといったら村八分にされたでしょう。人を攻撃するのは戦争の基本です。自分が攻撃されないために先手をうって攻撃したのだと思います。‥‥

・現代の写し鏡             河合祥一郎
いったいなぜ人々は、傍若無人に自分勝手な発言を繰り返して政権を牛耳るような暴君を、指導者に選んでしまうのか。‥スティーブン・グリーンブラットの最新作「暴君」(岩波新書)は、現代に大きく関わるこの問いの答えをシャイクスピア作品の中に求めた。メルケル首相も読んでいたと話題になった本だ。暴君は自分たちの利益を守りたいがゆえにそのひどい振る舞いに目をつぶる人たちの思惑によって生まれ、自分たちが犠牲者となるときは後の祭りなのだ。暴君を生み出すのも、その台頭を阻止できるのも国民であり、権力の横暴を見過ごせずに「人間の品位を守って立ち上が」った「リア王」の名もなき召し使いこそ英雄だという。「秩序、礼儀正しさ、人間としての品位といった基本的価値観が崩壊」するとき、「暴君の台頭への道を作ってしまう」と本書は説く。‥アメリカを憂いていると読めるが、日本だって他人事とますしているわけにはいかない。

・撤退の時代だから、そこに齣を置く   赤坂憲雄
福島県立博物館の館長職を解かれて、野に下ったことは、‥コロナ禍のもとで迎えた大きな転換点といえる‥。しかし、福島を離れすに、奥会津で東北学の最終ステージを構築しようときめたことで、予想をはるかに超えて、風景そのものが一変しました。‥次から次へと不愉快な出来ことが国政レベルで生起してきました。その根底にあるものは経済至上主義であり、それが「人間の内面の統治」に乗り出している‥。震災の以降の福島では、思いがけぬかたちで、経済至上主義によって人間の内面が分断・統治される場面にくりかえし遭遇してきた‥。

関東大震災というカタストロフィーを起点にして、治安維持法、世界恐慌、二・二六事件、日中戦争、幻の東京五輪、太平洋戦争敗戦へと深まっていった歴史を振り返れば、東日本大震災以降の出来事のいくつかが偶然とは思われるリアルな映像となって甦ります。学術問題など‥それが強固なイデオロギー的基盤をほとんど感じさせないところに、間抜けなまでに「日本的な」精神のありようを見いたさずにはいられません。

1960年代の学問や思想が持っていた、現実への衝迫力といったものは、もやはほとんど失われているのかもしれません。

撤退の時代ですね。わたしはいま、あらためて地域主義を拠りどころにして、あまでマージナルな場所に留めおかれてきた民俗知の再編を試みることに賭けてみたいと、妄想を膨らましています。

 今回は引用が長くなったので、これでいったん終了。


「シュールレアリスム宣言」読了

2020年12月28日 20時25分56秒 | 読書

 理解できたかと問われるとまったく自信はないが、とりあえず読み終えた。ただしこの「シュールレアリスム宣言」というのは、「溶ける魚」という作品集の「序文」として書き始められたのだが、それが「宣言」へと変貌したものである。
 シュールレアリスムは1920年代以降の大きな芸術運動となっているが、そのおおもとの文章とされてきたものである。
 いつものように覚書としていくつかを引用。

自由というただひとつの言葉だけが、いまも私をふるいたたせるすべてである。思うにこの言葉こそ、古くから人間の熱狂をいつまでも持続させるにふさわしいものなのだ。それはおそらく私のただひとつの正当な渇望にこたえてくれる。‥想像力こそが、ありうることを私に教え‥。

狂気へのおそれから、私たちは、想像力の旗を、半旗のままにしておくわけにはいかないだろう。現実主義的態度についての告発は、まず、唯物主義的態度を告発したうえでおこなわなければならない。後者はそもそも、前者よりも詩的なものであって、なるほど人間の側の畸形的な高慢さをふくんでいるにしても、なにか新しい、より完全に近い、失墜といたことを前提にしているわけではない。‥この態度は、思考のある種の昂揚と両立しないものではない。‥現実主義的態度のほうは、‥実証主義の影響をうけているわけで、私にはまさしく、知的および道徳的なあらゆる飛翔に敵対するものだと思われる。それは凡庸さと、憎しみと、つまらぬうぬぼれとの産物だからである。

私たちはいまなお論なりの支配下に生きている。‥いまだに流行している接待的な合理主義が、私たちの経験に直接依存する事実をしか考慮することをゆるさないのである。‥経験もまた、直接的効用によりかかり、良識の監督をうけている。文明という体裁のもとに、進歩という口実のもとに、当否はともかく迷信だとか妄想だとかきめつけることのできるものはすべて精神から追いはらわれ、作法にあわない心理を探求方法はすべて禁じられるにいたったのだ。

フロイトが夢に批評をむけたのは、しごく当然のことである。じっさい、心の活動のうちのこの無視できない部分が、まだこれほどわずかしか注目をひいていないというのは、うけいれがたいことである。夢がいとなまれているかぎりでは、どこから見てもそれは継続している。まとまった組織体の形跡をとどめている。ただ記憶のみが、不当な推移をわがものにして、夢をばらばらに切りはなし、場面のつなぎなどは考慮のほかい、夢そのものによりもむしろ、いくつかの夢のシリーズを私たちに見せているのだ。

夢が何か系統だった調査に付され、これから決定されるはずのもろもろの手段によって、ついに完全なかたちで私たちに理解されることになり、夢の曲線が類を見ない周期と幅とをもって伸びひろがるようになったとたん、神秘ならざるもろもろの神秘が、この大いなる<神秘>に道をゆずるだろうと期待することができる。夢と現実という、外見はいかにもあいいれない二つの状態が、一種の絶対的現実、いってよければ一種の超現実のなかへと、解消されてゆくことを信じている。その制服こそは私のめざすところだ。

 背景として、当時の文学など作品などの行き詰まり、造形される人物の類型化などが挙げられている。 そして論の通底にあるのが、「作為の排除」と「偶然の尊重」、という理解を私はした。しかし私は、作為なくして芸術はあり得ない、と思っている。俳句の二物衝撃というものもあるが、作為なくして衝撃の効果もあり得ない。偶然についてもいくつかの偶然を選択したうえでの効果を比べることで、芸術して成り立つと思っている。
 「作為の排除」と「偶然の尊重」は、普遍性の欠落へとつながり、個へのこだわりという名の孤立への道である。普遍性への志向を捨て、個へこだわることは、先細りと忘却による消滅である。シュルレアリスムの限界を宣言そのものが予見していたのではないだろうか。

 


伸し餅

2020年12月28日 14時47分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 いつものとおり午前中は退職者会の記念誌の編集作業。正月明けに途中まで編集したものを印刷会社に持ち込むつもりで現在時点の原稿の整理。
 40ページのうち、7割となる28ページ分はほぼ完了となっている。データ量は、写真も含めるととても大きい。メールでの送信は難しいので、USBメモリーで持参することにした。

 本日の作業はいったん終了。これより近くの喫茶店でコーヒータイム&読書タイム。横浜駅や別のJRの駅は混雑していそうなので、少し高めであるが、おいしいサイフォンで淹れたコーヒーを飲ませてくれる店に行くことにした。

 本日注文していた正月用の伸し餅が出来上がるらしい。妻はいそいそと自転車で受け取りに行った。毎年、伸し餅は人手にはゆだねずに自身で家に持ち帰ることにこだわるのが楽しみらしい。


テレビ番組への違和感のひとつ

2020年12月27日 22時10分51秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 昨日・本日とほとんど読書はしていない。本日も読書はあきらめ、ベッドルームで横になりながら、リビングルームのテレビの音を聞き流すように聞いていた。
 テレビの番組というのは、私に言わせると不思議なものである。視覚と聴覚に作用する音と映像が同時に流れているのだが、聴覚に頼る割合が高すぎるといつも思う。
 試しに音の出力をなくして、映像だけを見てみることと、逆に映像を見ずに音だけを聞いてみることを比べてみることをお勧めする。「しゃべり」と「映像」の「もたれあい」がわかってくると思う。
 優れた演出のバレーの舞台、優れた映画作品などなど言葉がなくとも、字幕がなくとも、眼が吸い寄せられるように画面に釘付けになり、満足感を得られる作品も多い。逆にセリフだけ聞いていてもわかってしまう映画やドラマのなんと多いことか。「役者が体や顔や眼で演技をしていない」ということを聞いたか読んだかしたことがある。きっとこのことを言っているのだと思った。
 そしてテレビ番組を見ていて気になるのが、場面転換のあまりの速さ、視点のあわただしい移動である。時間に追われ、じっくり「観察」することをあらかじめ拒否している。教育番組や科学番組もこの弊害から自由ではない。想像力を働かせたり、自分なりに物語に奥行きを創造するゆとりや自由がない。
 「クイズ番組」が考えることではなく、知っているか否か、だけで優劣が決まってしまうのと同じように、教育・科学番組などが「早急な答え」や「結論」だけを求めていては教育の悪い面の拡大再生産でしかない。

 こんなことを考えていたらもう22時を過ぎてしまった。明日はじっくりと読書タイムとしたいものである。

 


勘違いか、「騙された」か

2020年12月27日 18時19分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 歩いて20分ほどのスーパーに買い物かと思ってついていったら、私の勘違いだったのか、騙されたのかは不明であるが、さらに15分ほど歩いた先のスーパーであった。おいしいコーヒーを淹れてくれる喫茶店でのホットコーヒーが報酬。

 私は徒歩、妻は荷物籠のない電動自転車という状況で、帰りはそれなりの重さのエコバッグを下げて帰宅。東の空に上がってきた十三夜の白い月が夕方の空に貼りついているのを見上げながらトボトボと歩いた。西の空は見通しのない道のため、木星と土星の離れ行く最後の姿を見ることはできなかった。帰宅後、団地の西側の定点観測の地点まで行く元気は消えた。天文ファン失格である。

 今年は大掃除も手伝わずにいるので、文句は言えない。