Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

大晦日、これまでの訪問に感謝

2009年12月31日 00時15分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 備忘録としてはじめたブログ。はじめは2007年7月に設定だけして放置していたもの。当時は「日記なら公開の必要はないし、特に何かを発信したい」という切実な思いが先行したわけでもないし、「ブログなんてよくわからない」という程度。
 その後俳句の結社の勧めで、ブログの掲示板を割り当てられ、月に12~13日位は俳句を3句ずつ掲載してきた。
 結社からの退会とともに、そのブログは閉鎖されてしまった。もっとも俳句は別にすべて記録してあるが、他の同人たちからの心のこもったコメントは消えてしまった。俳句は独力でも、他の結社に入ってでも、いつかは再開したいと考えている。
 さて、このブログはメールを介した友人のブログを見て、備忘録として活用してみようと考えた結果、2009年8月に始めた。2007年に設定していたものの題名をやっと思い出して引っ張り出してきた。
 日記ではついつい書きなぐりや面倒くささが先にたつ。日記は、いやでいやでたまらなかった小学校の夏休み・冬休みの宿題以外いままでつけたことは無い。
 まず、パソコン上なら手で書くよりも早く打てるので、書きやすい。その上、ブログというものは自分以外の読者をそれなりに想定するので、必ず完結することを前提に記載する。これが私には程よい刺激となっていると感じている。
 基本的な読者は私にブログをつくるきっかけを作ってくれた友人を想定している。そしてきり絵を作ってくれた友人。その他ごく近い友人たちを想定している。時評も、日記風の記載も、読書の感想も恥かしい限りだが、とりあえず自分の頭の整理には役立ってくれている。
 こんなブログに立ち寄ってくれて目を通してくれた方には感謝申し上げる。少なくとも罵詈雑言は無かったので、覗いた方の気持ちを逆なではしなかったようだ。
 そんなこんなで大晦日31日を迎える。
 来年は、2日以降、連載ものの「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」をあと5回分はあるので、これを再開する予定。
 訪れた方への感謝を込めて、来年のご多幸を祈念いたします。


師走の読書

2009年12月30日 23時56分41秒 | 読書
昨日の読了
「図書1月号」(岩波書店)
 気になったもの、惹かれた箇所は、①「プラトンの優れた子孫 加藤周一」(ロナルド・ドーア)、②「寺田寅彦の耳」(高橋世織)、③「文章との出会い」(山田太一)、④「不思議な少年」(大江健三郎)、⑤「年取りの柿」(坪内稔典)、⑥「風のアリア」(今福龍太)、⑦「アンソロジスト家持」(高橋睦郎)
①:「(加藤周一は)他人の主観的動機を推定する手がかりとして、自分自身の過去の主観的経験のさめた客観的分析を利用してあたるという接近方法がその特徴だった。そして「似たような心理」という概念を利用」「似たような心理、似たようなメカニズム、似たような形容を認識することは、結局「比喩」を駆使する文学的能力につながる」。
 これは私自身が手放してはいけない方法論としていつも考えていることを、ロナルド・ドーア氏が語ってくれたものと理解した。加藤周一の方法論についての判断を、私はするほどの読書はしていないが、そういう信頼はしてもよい方ではあると思っている。
②:「『人間のいろいろの経験や、また考えたことなどが、ある時間を隔てて再び意識の中に顕れるものだとすると、今の瞬間の自分の意識の中に含まれるものは、過ぎ去った歴史の後響(あとひびき)の複雑な集まり』(寺田寅彦)のようなものであって、本誌の少し前の過去の音を集めた雨音経験と酷似していよう、との指摘にいたる箇所など、響の思索家の面目躍如である。後響とは、言い得て妙な、寅彦用語である」
 寺田寅彦の随筆は中学校の教科書でしか読んではいないが、雨の音の分析から始まる寺田寅彦の世界とやら、もう一度体験したくなった。
③:魯迅の「父の病気」の引用から始まる。魯迅を久しぶりに思い出させてくれた。
④:大江健三郎の連載開始に期待。
⑤:やはり俳句の論考は気になる。
 「菅浦は琵琶湖の奥の秋の村」「菅浦に知人はないが柿たわわ」こんな立派な俳人でも、この程度の句を著作に掲載されるのだから、私も俳句に携わってみたくなる。
⑥:家持と万葉集についてはただいま勉強中なのでうれしい。

一昨日の購入本
「天孫降臨の夢」(大山誠一、NHKブックス) 、
「写真的思考」(飯沢耕太郎、NHKブックス)、
「信長の天下所司代」(谷口克広、中公新書)

「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」から Ⅶ「山手聖公会」

2009年12月30日 10時26分38秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ゴチック風のカトリック山手教会の薄緑の尖った塔と対照的に、どっしりしたイギリス中世のノルマン風の四角い、無骨ともいえる塔が特徴。
 元は尖塔があったとのこと。今は下から見ると塔の上部が大きく張り出して見える。頂部の切れ込みようのデザインがアクセントとなって、城砦を思わせる。住宅地に不釣舎な、硬質で剛直な印象だ。尖塔の有る無しでこんなにも印象が違うものなのかといつも思う。
 開港してすぐに住みはじめた西洋の人々、多分アジアやアフリカと同じように日本での振舞いを想定していただろう。山師のような人も(その方がむしろ)多かったであろう。野蛮な国に住む以上、自らのアイデンティティのよすがとして、そして身に危険を感じたときの避難の場所として、教会は存在したと思う。
 まずはじめに建てるものとして教会、これに費やした労力と財力はかなりのものであったろうと想像する。
 それにもまして、これを建てた職人は多くの日本の大工・石工達と思われる。古代から続く神社仏閣の造営や城建築での大工、新築はほとんど無かったと思われるが江戸時代の城普請やで培われ続けた石工、これらの職人たちの技量の高さと応用力に敬服するばかりだ。
 内部はステンドグラスも無く、日常の生活空間や集会場と変わらない感じがする。長椅子がなければ祈りの場とはわからない。不思議な雰囲気がある。
 道路際ぎりぎりに建ち「もう少し広い空間を与えてあげたい」と見るたびに思う。いかにも窮屈そうだ。あるいはそれをねらっての空間配置なのだろう。
 港を見下ろす山手本通りの尾根道だが、今では港の高層ビルから見下ろされる位置にある。それを見越して、脱帽するように尖塔を自らそぎ落としたようにも見えるのは、感傷に過ぎるだろうか。


コスモスの揺れを従え神の城 〔Fs]



 夜、それも寒い夜にこの教会、それも尖塔を有している元の形で見上げたらどんな感じだろうか。どういうわけか、昼間訪れてもこんなことを思ってしまう。

オリオンを壁に映して黒く建つ
     かの教会堂に影凍てる 〔Fs]

「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」から Ⅵ「元正金銀行本店」

2009年12月29日 21時28分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 当初から市民に親しまれた開港記念会館と比べ、こちらは力強く重々しい。
元正金銀行本店という名にふさわしく、明治期の威厳とか威圧感が伝わるような建物だ。
 張り出すような石の柱と窓枠などの凹凸の大きさ、屋根の青銅色を除くと単色の陰影の深さが、この建物の存在感を引き立る。官庁建築の巨匠妻木頼黄の設計とのこと。明治期の行政・金融の威圧的・強権的な「権威」が伝わるような気がする。現在は県立歴史博物館となり、中に入る機会も多いが、正面が裏ロになってしまい、何とも不思議だ。
 馬車道側から入るように建物の外観は出来ている。表通りから入っていくほうが自然だ。外観・意匠と機能は、切り離せないことを教えてくれる。海と道との関係からも、それが自然だ。しかも今でも馬車道側から訪れる人は多い。現在の管理者に是非再検討をお願いしたい。
 現在の正面ロの白い新しさと、馬車道側のくすんだ色合いが対照的である。使われている石の彫りも見応えがある。
 私はこの石を見ながらこの建物を一周するのが好きだ。全体の雰囲気とは別に一つ一つの石は心を和ませてくれる。日のあたる具合によって、季節によって、石の色も肌触りも輝きも違う。柱と壁の日当たり面と日陰の変化も面白い。石が見る人に語りかけてくるトーンも違う。草木だけでなく、石も人を和ませてくれることを教えてくれた。

神奈川県立歴史博物館:横浜で唯一の総石造建築とのこと。壁面はバロック様式風に柱を強調している。元正金銀行本店で日本銀行と並ぶ最重要金融機関だった。国指定重要文化財。

 本日も土曜に続きウォーキング。午後1時半から5時15分まで、28,000歩、約20km余り。旧東海道と現在の1号線を往復で換えて歩いた。
 旧街道の権太坂の上からこれまでは海の方向しか見てこなかったが、5回目にして初めて、丹沢・富士方面に目がいった。住宅の切れ間から雄大に見える箇所を発見。この景色に気づかなかったのは迂闊だった。

「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」から Ⅴ「外交官の家」

2009年12月28日 23時58分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」(1991年刊)から5回目。絵はさとうてるえさん。文章は不肖Fs。
 山手本通りの西のイタリヤ庭園にブラフ18番館と共に建っている。玄関ホールの磨きこんだ木の重厚な色合いに圧倒される。そしてステンドグラス風のガラスを通して差し込むやわらかい光に心がフッと和むのを感じる。訪れたのは秋といってもまだ暑い日だったが、強い日差しが適度な光に変身する仕掛けに感心する。
 広い二つの客間にびっくりするが、私は八角形のサンルームと付属する廊下に興味を持った。客間の窓に鎧戸が付き、外側の廊下には鎧戸がない。廊下とサンルームは屋外として設計されている。ベランダ全体に窓ガラスがはめ込まれたようだ。
 サンルームは外から見ると三層で、最上階は展望台。現在の位置からは横浜の港がよく見えて、明治の外交官の家の引退先としてはなかなかの場所だ。洋風の庭園もこの建物にぴったりだ。
 食堂は客間に比べて小さめだが、一番びっくりしたのは、扉ひとつあけた配膳室の粗末なつくり。説明書を見ると使用人の部屋・厨房は洋風建築ではなく、和風の屋根の建物で、かなり質素なものであったようだ。使用人に対する当時の処遇の有り様や、食・衣など生活の基本を支える部分と、華やかな表の世界との落差にあらためて驚いた。
 男子を除き3人の女子は、嫁ぎ先のことを考え、使用人の部屋の2階に和室を使用させ、夫婦と男子はこの畳の無い洋風建物部分にすんだという。

外交官の家:明治大正の外交官内田定槌氏が渋谷区に建てた住宅を1997(H9)年にイタリヤ庭園内に移築、同年国の重要文化財に指定され、資料館として開館した。明治時代の高級官僚の豪奢な資力が偲ばれる。設計者J.M.ガードナーはアメリカの建築家で、立教大学なども設計した。


 昨日深夜過ぎまでかかって年賀状作成がようやく終了し、投函。
 

本日は年賀状作成

2009年12月27日 18時20分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日はウォーキング約30km、内夜間に20km。深夜に帰宅。久しぶりに「歩いた」という感じで、今朝は、太ももとふくろ脛が心地よい疲労感。
 プリンターの修理が結局年明けまでかかるとのことで、本日年賀状を10数年ぶりに手書きで作成。数を絞って70余枚。
 下手な字が、パソコン依存症の影響でますます目も当てられない字面に、気分がめいるばかり。どうして字がうまくならなかったのだろう。小学校の時から自分なりに努力はしたと思っているが、まったく成果が上がらない。
 一応正確な字体、書き順などの素養、感じに対する知識は人並み以上にあると自負はしているが、大きさ、傾き、字体の不ぞろい・不恰好は‥あ~ぁ、ため息ばかり。
 ということで、気分が滅入るばかりの一日である。まだまだ書き終わらない。はかどらない。
 「図書1月号」(岩波書店)が到着。
 
 

「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」から Ⅳ「ブラフ18番館」

2009年12月25日 23時54分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 白いモルタルの外壁とフランス瓦の明るい茶色の屋根、玄関庭の2本の柱が印象的だ。また玄関上の小さなバルコニーがなかなか面白い。南側は広いサンルームとなっている。
 2階の居室から眼下に横浜の町並みが間近に見える眺望は大変すばらしい。桜と銀杏の大木が魅力的だ。創建当初の眺望はどうだったのだろうか。外観も現在の地に馴染んでいる。当初の商社マンであったという居住者はこの極東の地に何を思っていたのだろうか。
 室内は白いモルタルの壁が広く大変明るい。また廊下の天井が丸い曲線を生かしていて趣がある。
 白壁が外光と電灯の光で落ち着いた雰囲気を見せる。これにくすんだ階段の板の木目が映える。一輪差しが階段に置いてある。こんな工夫をこらした展示が良く似合う。
 訪れたとき、突如にわか雨と雷に襲われた。古びた階段の、よく磨かれた手すりの木目に雷光が反射して美しかった。雨粒がガラスを伝って落ちるとき、窓枠の緑と庭の緑が微妙な色の違いを見せて雨粒を彩っていた。
 小規模住宅なりに工夫されていると思う。住みたくなる家である。
 雷光に流浪の果ての夢映える

ブラフ18番館:地蔵坂上のイタリヤ山庭園に「外交官の家」と共に移築保存。木造二階建、外国人住宅から戦後カトリック山手教会の司祭住宅。1993(H3)年現在の地に移築した。
                             (文と句 Fs)

 さて「この頃の楽しみは、『Fsの独り言・つぶやき』というブログです(ブックマークをしていますので、興味のある方はそちらからご覧ください<(_ _)>)。
きり絵と小文で横浜西洋館を紹介していますが、昨日が三回目。味わい深いきり絵(管理人の友人の作品だそうです)と、通り一遍の解説ではない愛情ある紹介文の組み合わせが素敵です。今日のような陽気の下での西洋館巡りも、きっと楽しいでしょうね。」
 こんなうれしい評をいただいた。このわたしのブログのブックマークをしてある「時には本の話でも…」のブログに掲載してある。
 この方からは美術や文学やら、たくさんの刺激をもらっている。私の膿んだ脳をとてもよく刺激してくれる。わたしのブログを訪れた方は是非こちらも覗いてください。



「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」から Ⅲ「えの木てい」

2009年12月24日 23時53分58秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 「えの木てい」はエリスマン亭の向かい。一階の窓だけアーチ型。全て長方形のエリスマン亭と比べ随分と印象が柔らかい。住む人の性格まで勝手に想像してしまう。
 縢脂の屋根と窓枠が白地と良く合う。ブラフー8番館と同じく玄関上の一一階一丁ラスが明るさと開放感をもたらしている。通りに面した広い庭の榎を見ながらの喫茶はうれしい。木製の扉・窓など大分傷んでいるが、厚塗りのペンキが洋館らしい。
 えの木てい「寄棟屋根、アーチ窓、厚塗りのペンキ、玄関上のテラスがいかにも洋館らしい木造建築。現在1階が喫茶店」

 「横浜西洋館&花々の四季」の第1ページ。私が一番好きな西洋館でもある。さとうてるえさんのきり絵の彩色も私には一番好ましいものに思える。
 

「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」から Ⅱ「山手資料館」

2009年12月23日 13時34分20秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 外国人墓地の向かい、山手十番館と山手聖公会の間の空間に、控えめに建つ。聖公会の重厚な淡色と十番館の賑やかな飾りに挟まれ、明るい薄緑色の板壁と檀色の瓦が清楚な雰囲気を醸し出す。何とも好ましい木造2階建てだ。
 緑の芝と垣根の中で、初夏の明るい日差しと優雅な切妻がつくるやわらかい影が、道行く人を振り返させる。玄関への赤茶色のレンガの小径と白い柵が、屋根とのどかに調和している。
 四方に開いた中央の2連のアーチ窓が、内部の開放的な雰囲気を窺わせる.、当初は日本人の邸宅。明るいこの部分と和風部分とはどう使い分けたのだろうか。大正デモクラシー直前、明治末の横浜の居留地、その明るい側面を象徴しているようだ。
 屋根がバランス的に大きすぎる、当時の全体図を見て、この色彩と形が合致する当時の和風建築を想.像するのは楽しい。時間を忘れさせてくれる。
 しかし四方に窓を配置した明るさの中で寛いだり、仕事ができただろうか。今は展示物で光を一部遮ぎっているが、外から見るのとは違って何とも不思議な感じだ。どんな利用をしたのだろう。


 この小さな冊子をつくって友人に配布をしてすでに8年が建った。昔の自分の文章を読むとそれなりに観察しているな、と感心する。この間友人を案内したとき、冬だったので少しまた印象が違って見えた。気温と木々の葉の色の違い、そして港の景色が変わったためと思う。
 「三毛猫の子猫」さんからうれしいコメントをいただいた。感謝。

「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」から 「開港記念会館」

2009年12月21日 23時55分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は、仕事でのあるイベントのカメラマン役をすることとなったが、ストロボの扱いに慣れていないため、かなり失敗作が出て、とても満足のいくものが撮れなかった。
 横浜の開港記念会館、建物としては好きだが、内部は何しろ暗い。写真撮影にはやはりプロにお願いしなくてはならない。
 先日このブログに登場していただいた、さとうてるえさんが作成した開港記念会館のきり絵に私が文章を添えたことがある。

 以下「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」より。

 横浜で大変親しまれている建物。全国的にも有名だ。ここは横浜の歴史的な様々な集会の場となった。歴史の結節点・転換点を演出してきた建物だ。
 決して採光が十分の建物ではないと思うが、落ち着いた静かな雰囲気を好む人も多いだろう。暗い内部の木の壁と床、扉が私の目にこびりついている。
 正面の階段を上り、玄関に入ると左側のホールと、右側の階段がまず目に入る。ホールは2階の小さな席が今は入れないが、一度だけある集会で上ったことがあった。しかし眺めは記憶にない。もっとその眺め・雰囲気を味わっておけばよかったと思う。
 1999年には横浜ジャズフェスティバルの会場だった。足元も隣の人も見えない真っ暗な客席、反対に極度に明るく照らされた演壇の演出は、この建物の特質と歴史的な役割十分に生かしていた。建物全体が、歴史の幻影劇への不思議な扉に見えた。
古き木の木目を照らす淡き灯にほのかに浮かぶ百年のゆめ(Fs)

 その冊子の開港記念会館の紹介として、「開港50周年記念で設計を公募。一等の東京市技師の案を基に当時の横浜市の営繕組織が設計。1917年に完成。居留地と日本人町の境に建つ横浜のシンボル。白い花崗岩、赤茶のレンガ、青銅の屋根の対比が印象的。ジャックの塔の愛称がある。震災で破損、概略復元された。1989年市制100周年で創建時の姿に復元。国の重要文化財。」との説明も付した。

 さてプリンターの修理を頼んだ会社から、「メーカーへの搬入修理のほうが安いし早い納品となる」との返事があり、火曜に早速連絡をとることとした。
 年賀状100枚は無理の可能性大。手書きか、年が明けてからの投函となるかもしれない。


今度はプリンターがダウン

2009年12月20日 20時18分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 このブログの紹介のハガキを友人50人余りに出そうと、裏面の本文を印刷しようとした瞬間、愛用のレーザープリンターがダウン。私の予想ではベルトが外れたか切れたような音がしたように思う。パソコンの修理を依頼した方に急遽18時過ぎに電話をしたら幸いなことに職場にいて、プリンターの専門の担当者と連絡を取ってくれた。明日以降修理について打ち合わせとなった。
 この年末に来て、50枚のハガキ、年賀状、そして組合の機関紙の正月版のカラー印刷が不能になるとこれはお手上げ。何とか年内に修理ができないことには‥。
 そろそろ6年半経つとプリンターも寿命なのか。買い換えるとするとまたまた出費。妻のパソコン78,000円余、わがパソコンの修理代15,750円(これは安くしてもらった)、これにプリンター買い替えとなると踏んだり蹴ったり‥。買い替えとなると交換用のインク6本の買い置きが無駄になる。
 パソコンの修理をしてくれた方の感想では、ハードディスクの速度が昨年取り替えたとはいえ今のものに比べると遅いし、マザーボード内もかなり埃がたまっている。1~2年で買い換えた方が安くなる故障となる可能性が高いとのこと。7年半前45万円近くでハイスペックのものを購入したが(CPUもメモリーもまだまだ十分な性能のはずだが)、現在のデスクトップの店頭をみるとハイスペックなものでも20万円前後で購入できる。
 年間所得が下降線の一途で回復の見込みがない中では、購入の決断はなかなかできない。
 
 さて、本日は久しぶりに3時間近く、26,000歩(約18キロ)のウォーキング。横浜の早淵川の川沿いを白鷺・青鷺・マガモを見ながら、ひたすら歩いた。今年初めて霜柱と葉には霜を見つけた。
 昼は蕎麦屋で日本酒1合と鳥南蛮でご満悦、最後にミニスパのような銭湯でサウナと長風呂。
 とここまではよかったのだが、上記のようにプリンターの故障で一挙に気分が滅入ってしまった。やはりパソコン依存症なのだろうか。

国宝「土偶展」

2009年12月17日 23時55分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は東京国立博物館で「国宝土偶展」を見て、ギャラリートークを聞いてきた。朝東海道線の人身事故で京浜東北も湘南新宿ラインも遅れ、動き出した東海道は乗り切れない人でホームはものすごい人。京浜東北線に回ったらそれほどでもなかった‥ものの、前がつかえてのろのろ運転。結局東海道線5本に抜かれてやっと品川着。横浜から約50分。品川からは順調に上野まで。しかし長時間(立って50分、座って30分)の車内、座ったのがいけなかったか、疲労がたまったようだ。
 土偶展、会期が始まったばかりの木曜だが、それなりに混んではいたが、一室、広さはかなり余裕のある展示で、ゆっくり鑑賞できた。背後にも回れるようにガラスケースは置かれていたが、どういうわけか背面の照明が無いので、後ろからは見ずらかった。それでも背面の文様や形をじっくりと見ることができたのは幸運。
 日本の土偶は「ほとんど」女性をかたどった(デフォルメ)したと聞いていたが、100パーセント女性とのこと。
 韓国の慶州博物館を訪れたとき、男女の交合をかたどった男女各一体の対の土偶があり、男女の土偶があった。どれも5センチ前後の本当に小さいものだったと思う。かなり多くの土偶があったが、男女の生殖器を誇張したものもかなりあり、豊穣を祈る、ないし再生・誕生にまつわる象徴を感じた。これが千島などの北アジア、南アジア、中国でどの程度存在したか、興味がわいた。
 また生殖器や乳房が表現されている以上、表面の文様は刺青か、土偶だけに特別施した文様と思うものの(衣服ではないと思う)研究者はどのように判断しているのか、知りたい。女性シャーマンだけの姿なのかもしれない。
 また、赤く塗ったり、自然タールを使用しているなどは初めて知った。赤は聖なる色、呪的なイメージがある。黒のタールは目に部分に石を象嵌ないし貼り付けたらしいが、それ以外にも黒漆などの着色例もある。何をイメージしているのであろうか。
 乳房と体の前面の正中線、これは明らかに刺青と思われる。日本書紀などからは弥生時代は刺青の風習が広く行われていたといわれているが、縄文時代も列島各地とも刺青であったのだろう。
 土偶様の模様のついた土器が関連展示されているが、私はその中の「深鉢形土器」(群馬県渋川市)の迫力に圧倒された。質感・量感ともに人を圧倒する。これが紀元前2500年位前に作られていたのかと思うと「縄文時代の素朴な味わい」などというビデオのナレーションが空々しく聞こえる。豊かな造形への志向、高度な製作技術、複雑で活発な社会生活を垣間見るような気がする。写実の極致のような貝や猪やカモノハシ(多分)をかたどった土器製品を見ると、人間の女性の写実からは遠い地平にある土偶のデフォルメ、造形はきわめて抽象性の高いものであることが理解できる。
 土偶というものの豊かな世界を垣間見ることができたと思う。

本日の購入本  
「国宝土偶展カタログ」‥昼食がてら読了。
「日本語の歴史」(山口仲美、岩波新書)
「親鸞をよむ」(山折哲雄、岩波新書)
「日本宗教史」(末木文美士、岩波新書)
本日の読了
「死者の書」(折口信夫)‥そのうち読後感を。

転載記事への感想

2009年12月16日 23時51分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 さとうてるえさんのエッセイを転載したところ、友人から、次のような感想が送られてきた。私も同じように思ったので、そのまま掲載する。
 「ブログ拝見。日頃から子どもにきちんと向き合ってこそ成り立った会話なのでしょうね。「良い子」と見做される子どもほど、親に心配をかけまいとしてトラブルを話さない傾向にあります。もしかしたら、そのような「良い子」が長じて困難に当たった時、相談することも甘えることもできず…場合によっては最悪の選択をしてしまうのでしょうか。う~ん、エッセイの本筋からは離れた感想ですね」

「母から贈られた言葉」

2009年12月14日 00時40分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 大学生時代の友人の「さとうてるえ」さんのエッセイが掲載された「ら.ら.カフェ」10月号という雑誌を、ご本人から直接いただいた。ご本人の了解を得て、ここに転載させてもらうことにした。

 子どもは、十歳を過ぎる頃から自我が目ざめ、社会生活を意識し始める。組織的な無視とか、いわゆるいじめの萌芽が出るのはこの頃だ。子供たちは、そんな試行錯誤を繰り返す事で成長していくのだ。
 私も小学五年生の時、突然仲間はずれにされたり無視されたりからかわれたりした時期があった。
 私は子供のころテンポがずれたり、空気が読めなかったりという事があって、それがからかいの対象になったのだろうと思う。
 それが続くうち、さすがに学校に行きたくなくなって、母親にその事を告げた。
 すると母親は「ああよかった…いじめられる方で。あんたが誰かをいじめる方だったら、母さんはそのほうが悲しいよ」と、喜んでくれたのだ。
 そして、「いじめてる人たちと一生付き合うわけじゃないんだし、そのうちおさまるから、気にしないようにしなさい」と言ってくれた。その言葉で、私はすごく気が楽になった。
 母親の言ったとおり、あれは何だったの?と言いたいくらいあっけなく友好関係は復活した。
 また、そのころ私は母にきれいなブローチを買ってもらって学校にしていった事があった。オーバーの襟に付けて掛けておいたのが、帰る時に無くなっていた。
 私は、誰にも言わずに家に帰って母にその事を告げた。
 母はその時、顔をくもらせて「お前が悪い」と言った。「お前がそのブローチをつけて行ったことが、誰かに盗みという悪い心を起こさせたのだからね」と言ったのだ。
 その母も、私が二十八歳の時に亡くなった。
 私はその後三人の子どもを持ち、長女が五年生の時に同じようなことが起こった。私は内心「よっしゃ!」と思った。「母に貰ったこの決め台詞を使える!」と。
 これを言った時、長女は更に役者が上だった。
 「そうか、これは神様がひとりで楽しめる事を覚えなさいって言ってるんだね…」と言ったのだ。
 「うん、これもいただき。」長女は、外されている問、図書館に通って、いろんな本をせっせと読んでいた。おかげで彼女は今でもすごく博識だ。
 末っ子の次男も、やっぱり同じようなめにあって、その時私は母の言葉と娘の言葉をダブルで言って、乗り越えた。その後、友好関係は見事に復活した。
 恨みや憎しみは、連鎖し増殖し拡大する。憎しみのキャッチボールになる事もある。大人になっても、心ない振る舞いや、失礼な仕打ちをする人に会うことがある。そんな時、私は「自分がその相手でなくて良かった…」と、思うのである。

 お子さんとのやり取りが生き生きしていて、なかなかいい文章だな、と感心した。
 彼女には毎年「招福猫暦」という猫の暦をいただいている。一部700円にて30部前後売りさばいている。のほほんとした猫の表情もなかなかいい。

ようやくパソコンの修理完了

2009年12月13日 17時34分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 結局再セットアップせざるを得なくなり、再セットアップと通信設定、妻のパソコンの通信設定は専門の業者に頼んだ。出張してきてもらった若い方は一昨年、三年前の故障時にも来ていただいた方、再セットアップのための5時間近く、頑張ってくれた。二台分の通信設定については無料にしてくれた。感謝感謝。
 しかしソフトの総入れ替え、辞書機能の再設定、画面の設定‥私好みの使い勝手のための再設定は結局昨日14時から深夜2時過ぎ、および本日1時間、合計13時間もかかってしまった。
 これからようやく自分の形にしたパソコンで仕事ができる、パソコンといっても人が操作する以上、細かいけれども、しかし操作する人間にとっての重要な部分は、個々の好みによって設定を変えなければならない、アナログの世界である。パソコンのそのものはデジタルなものだが、人がかかわる部分は徹底してアナログ。この部分がなければ「人のための機械」ではない。
 パソコンを使わない人をパソコンを「使いこなしている」と思っている人は「アナログ人間」と多少の侮蔑・揶揄を込めて評している。しかしパソコンの操作と画面の構成自体はきわめてアナログの領域であることを考えなければいけない。パソコンを使い慣れた人間がデジタル思考なのではないことだけははっきりさせておきたもの。

パソコン不具合中の読書
高校数学でわかるフーリエ変換(竹内淳、講談社ブルーバックス)読了。
久しぶりに高校のときの数学(微積分の領域)が懐かしかったのと同時に、40年前の数Ⅲが変わっていないと想像した。しかし大学でフーリエ級数・変換、ラグランジェ変換で挫折した経験を持つものには、こんなに簡単なことだったんだ、というほどわかりやすかった。当時の国立大学の授業、高校の数学との連続性など鼻から考慮しない授業であったこともあり(これは人の所為だが)、高校の数学はとても好きだったが、そこでとまってしまった私は、早くからこの本があればうれしかったと、いまさらながら思ってしまう。かといって当時このような本に出会っていて勉強をしたかというと、はっきり言って肯定はとてもできない。

 パソコンの細かな設定の手直しをしながら組合の機関紙編集と、友人への手紙を書いて、本日は終了予定。