先日友人とある居酒屋に入った。いろいろな日本酒や焼酎が置いてあるようなので、楽しみに入った。早速お酒のメニューをもらって、どれがいいか眺めてみた。どのお酒・焼酎にするか、時間がかかるのでお店の人には迷惑かもしれないが、このお酒を選ぶ時間がお酒好き、焼酎好きには至福の時間である。
三人三様のこだわりでお酒を選ぶのだが、私は舌が肥えているわけでもなく、微妙な味の違いはわからない。その上、鼻があまり利かないので香りで選ぶわけでもない。
だけれども、本人が合っていれる思ってご満悦になっているならばそれでいいや、という程度の基準が私にはある。違うよという方は是非、正しいことを教えてもらえれば、それの意見に靡いてしまうと思う。
以前にも書いたとおり、まず東北・北海道のお酒を選ぶ。そして日本酒度が+2位で、酸度の少ないもののほうが口の中で比較的べたつかずにすむといわれたことがあり、よくはわからないがそんなことを指標にして選ぶ。
白身の刺身が食べたいときは、西日本のお酒が合うといわれたのをとりあえず信じてもいる。根拠はわからないし、正しい判断かどうかはまったくわからないのだが‥。
この日本酒は冷で1合またはそれより少ない量があればそれを注文する。
この日もそんなことを考えながら、あるお酒を注文。つまみに私なりの定番の揚げ出し豆腐をひとつ。
ここまではいつものとおりだったのだが、ふと、お酒のメニューを眺めていたら何となく不思議な感じが湧いてきた。各々のお酒の説明書きが丁寧だなぁと思うと同時に、いやちょっと変なんではないかと思い始めた。これまでも同じような説明書きも他の店で見ていて、特に感じなかったのだが‥。
それは説明書きの文言としては、本来のそのお酒の個性を際立たせて記載することが大切なことなのに、なんかとおりいっぺんの同じような文言の羅列に見えたのだ。
書いてあった言葉を写してみたら、並んでいるのは
「上品で後味良し」「バランス良い」「洗練された」「爽やか」「しっかりしたコク」「すっきり」「気品ある」「キレの良い」「やわらかい」「どんな料理にも合う」「みずみずしい」「あっさりした」「香ばしい」「まろやか」「クセのない」「口当たりの良い」「フルーティー」「ほのかな香り」‥
という文言であった。
これを見ても、個々のお酒の個性はどうしても思い浮かばない。この言葉を信ずるとすると、お酒を注文する人は当たり障りのない、個性のない、それこそどんな料理にも合うなんていう、不思議なお酒を注文することになる。
これでは「その土地ならではの地酒」「個性ある蔵元」など必要なくなるように感じるのはわたしだけだろうか。お酒や焼酎を造る蔵元のこだわり、品評会での審査基準などの基本的なことはわからないが、それでも作る側や品評会などの評価する側は、一般的な言葉で曖昧な評価を下してしまうことに抵抗があるのではないだろうか。いや、あってほしいと期待したい。
料理にこだわり、お酒にこだわるならば、それこそ「個性的な香り」「他にはない味」「複雑なコク」などの言葉が並んでしかるべきであろう。あるいはもっと親切にしようとするならば、「白身の魚の刺身に合う」「青魚に合う」「濃い味の肉に合う」「洋風のサラダにいい」「野菜の煮付けに合う」「揚げ物や天ぷらに合う」‥などの方が、プロの料理人がいるな、という感じになる。
あまりこだわりすぎるのは、注文する側にとっては堅苦しくて、飲むほうの自由度を制限してよくないが、ここまでお酒の特徴を書くというのならば、おおよその区分け、たとえば「魚にあう」「肉にぴったり」「野菜の味を引き立てる」くらいがあっても良さそうである。
どうも個性、個性という割には、料理を作るほうも味わう客のほうも個性にはこだわりを持っていないのではないだろうか。店が客をなめているという人もいるかもしれないが、逆に考えると、そこまで店がこだわると客が敬遠するということもあるように思う。
どうも世の中、個性尊重とはタテマエとしてはみんなそう思っているが、実際のところは個性よりも「なんとなく」「何にでも合う」ものを選んでいる社会、自分もそのようになろうとする社会の縮図を見たといってしまえば、牽強付会といわれそうだが‥。たかだかお酒のメニューの書き方ひとつで社会総体を俎上に載せるのは、あまりに乱暴かもしれないが、意外とピントはずれていないかもしれないと考えた。
そう、子供のいじめが問題になるが、個性、個性と社会では言っていても、実際の大人の社会では個性は尊重されるどころか、否定される状況だ。効率化・合理性・目標に向かっての組織一丸などが声高な社会と、個性というのは互いに相容れない社会なのだ。個性は大人の社会、企業という生産主体では否定されるべき、いじめられてしかるべきものなのだ。いじめの根本は、社会全体がいじめを醸し出し、際限なく拡大再生産していることの反映なのだ。今の社会が続く限り、子供の社会でもいじめは続く。
それ以上考えると折角の楽しい会話とお酒が台無しになるので、思考はここまでにした。
そのお店の名誉のためにいうと、揚げ出し豆腐は木綿豆腐で作ってあり、鰹出汁がとてもよく利いて、塩味は控えめでおいしかった。そして秋田のあるお酒を注文したのだが、これによく合ったような気がした。2杯目はいつものとおり芋焼酎のお湯割りで、生のカブと大根の薄切りの盛り合わせ。大変おいしく満足した。帰りに歩きながらコンビニでおにぎりをひとつ買って頬張った。
食通とか酒へのこだわりとはちょっと遠う、この程度のお酒と肴であまり文句をいっては申し訳ないと反省もした。
三人三様のこだわりでお酒を選ぶのだが、私は舌が肥えているわけでもなく、微妙な味の違いはわからない。その上、鼻があまり利かないので香りで選ぶわけでもない。
だけれども、本人が合っていれる思ってご満悦になっているならばそれでいいや、という程度の基準が私にはある。違うよという方は是非、正しいことを教えてもらえれば、それの意見に靡いてしまうと思う。
以前にも書いたとおり、まず東北・北海道のお酒を選ぶ。そして日本酒度が+2位で、酸度の少ないもののほうが口の中で比較的べたつかずにすむといわれたことがあり、よくはわからないがそんなことを指標にして選ぶ。
白身の刺身が食べたいときは、西日本のお酒が合うといわれたのをとりあえず信じてもいる。根拠はわからないし、正しい判断かどうかはまったくわからないのだが‥。
この日本酒は冷で1合またはそれより少ない量があればそれを注文する。
この日もそんなことを考えながら、あるお酒を注文。つまみに私なりの定番の揚げ出し豆腐をひとつ。
ここまではいつものとおりだったのだが、ふと、お酒のメニューを眺めていたら何となく不思議な感じが湧いてきた。各々のお酒の説明書きが丁寧だなぁと思うと同時に、いやちょっと変なんではないかと思い始めた。これまでも同じような説明書きも他の店で見ていて、特に感じなかったのだが‥。
それは説明書きの文言としては、本来のそのお酒の個性を際立たせて記載することが大切なことなのに、なんかとおりいっぺんの同じような文言の羅列に見えたのだ。
書いてあった言葉を写してみたら、並んでいるのは
「上品で後味良し」「バランス良い」「洗練された」「爽やか」「しっかりしたコク」「すっきり」「気品ある」「キレの良い」「やわらかい」「どんな料理にも合う」「みずみずしい」「あっさりした」「香ばしい」「まろやか」「クセのない」「口当たりの良い」「フルーティー」「ほのかな香り」‥
という文言であった。
これを見ても、個々のお酒の個性はどうしても思い浮かばない。この言葉を信ずるとすると、お酒を注文する人は当たり障りのない、個性のない、それこそどんな料理にも合うなんていう、不思議なお酒を注文することになる。
これでは「その土地ならではの地酒」「個性ある蔵元」など必要なくなるように感じるのはわたしだけだろうか。お酒や焼酎を造る蔵元のこだわり、品評会での審査基準などの基本的なことはわからないが、それでも作る側や品評会などの評価する側は、一般的な言葉で曖昧な評価を下してしまうことに抵抗があるのではないだろうか。いや、あってほしいと期待したい。
料理にこだわり、お酒にこだわるならば、それこそ「個性的な香り」「他にはない味」「複雑なコク」などの言葉が並んでしかるべきであろう。あるいはもっと親切にしようとするならば、「白身の魚の刺身に合う」「青魚に合う」「濃い味の肉に合う」「洋風のサラダにいい」「野菜の煮付けに合う」「揚げ物や天ぷらに合う」‥などの方が、プロの料理人がいるな、という感じになる。
あまりこだわりすぎるのは、注文する側にとっては堅苦しくて、飲むほうの自由度を制限してよくないが、ここまでお酒の特徴を書くというのならば、おおよその区分け、たとえば「魚にあう」「肉にぴったり」「野菜の味を引き立てる」くらいがあっても良さそうである。
どうも個性、個性という割には、料理を作るほうも味わう客のほうも個性にはこだわりを持っていないのではないだろうか。店が客をなめているという人もいるかもしれないが、逆に考えると、そこまで店がこだわると客が敬遠するということもあるように思う。
どうも世の中、個性尊重とはタテマエとしてはみんなそう思っているが、実際のところは個性よりも「なんとなく」「何にでも合う」ものを選んでいる社会、自分もそのようになろうとする社会の縮図を見たといってしまえば、牽強付会といわれそうだが‥。たかだかお酒のメニューの書き方ひとつで社会総体を俎上に載せるのは、あまりに乱暴かもしれないが、意外とピントはずれていないかもしれないと考えた。
そう、子供のいじめが問題になるが、個性、個性と社会では言っていても、実際の大人の社会では個性は尊重されるどころか、否定される状況だ。効率化・合理性・目標に向かっての組織一丸などが声高な社会と、個性というのは互いに相容れない社会なのだ。個性は大人の社会、企業という生産主体では否定されるべき、いじめられてしかるべきものなのだ。いじめの根本は、社会全体がいじめを醸し出し、際限なく拡大再生産していることの反映なのだ。今の社会が続く限り、子供の社会でもいじめは続く。
それ以上考えると折角の楽しい会話とお酒が台無しになるので、思考はここまでにした。
そのお店の名誉のためにいうと、揚げ出し豆腐は木綿豆腐で作ってあり、鰹出汁がとてもよく利いて、塩味は控えめでおいしかった。そして秋田のあるお酒を注文したのだが、これによく合ったような気がした。2杯目はいつものとおり芋焼酎のお湯割りで、生のカブと大根の薄切りの盛り合わせ。大変おいしく満足した。帰りに歩きながらコンビニでおにぎりをひとつ買って頬張った。
食通とか酒へのこだわりとはちょっと遠う、この程度のお酒と肴であまり文句をいっては申し訳ないと反省もした。