【ブログ内関連記事】
・『さがしています』(童心社)
※「読書感想メモリスト3」カテゴリー内「【戦争】」参照
※「資料館・記念館めぐりリスト」カテゴリー内の戦跡参照
原爆資料館は、修学旅行で一度見たことがある
内容はすっかり忘れてしまったが
とても気分が悪くなった記憶だけが残っている
きっと相当ショッキングなものを見たのだと思う
【内容抜粋メモ】
語り:中村倫也
13歳で命を奪われたシゲルくんの弁当箱
中身はお母さんが作った大豆と麦の混ぜご飯でした
原子爆弾によって真っ黒に焦げています
せめて一口食べさせたかった
お母さんはシゲルくんが不憫でなりませんでした
●1945年8月6日
このブラウスは高等女学校2年(現在の中学2年)のヨシコさんが着ていたものです
ヨシコさんは大やけどを負って亡くなりました
お父さんは娘を探していくつもの遺体を確かめました
焼け残った「マルミ」の刺繍からヨシコさんだとわかりました
いつも家事を手伝ってくれるやさしい一人娘だったヨシコさん
お父さんは生涯ブラウスを手元から離しませんでした
●過去最大となる大規模なリニューアル
被爆資料や遺品を通じて世界に核兵器の恐ろしさを訴えてきた原爆資料館
過去最大となる大規模なリニューアルが行われました
「被爆の衝撃を刻んだ遺品や写真」
改めてその一つ一つにまつわるエピソードを調査しました
突然断ち切られたかけがえのない日常
大切な人を奪われた家族の深い悲しみを記し
展示することにしたのです
●14万人の犠牲
生き残った人々の心と体に深い傷を残しました
しかしその体験を伝えてきた被爆者たちは高齢化
ヒロシマを継承できなくなる危機感が高まっています
残された遺品に思いを託すことで
次の世代に被爆の記憶を繋ごうとしているのです
国内外から延べ7200万人が訪れてきた原爆資料館
今回のリニューアルは1955年の設立以来最大となりました
大切にしたのは、あの日きのこ雲の下にいた
一人一人に思いを馳せてもらうことです
「焼け跡に立つ少女」
強い眼差しでまっすぐにこちらを見つめる少女の写真
10歳の藤井幸子さんは自宅にいた時に被爆し
全身にガラスの欠片が降り注ぎました
勉強好きで弟たちを可愛がる優しいお姉さんだった幸子さん
右手にも大やけどを負い、指がくっついてしまいました
(写真を見る修学旅行生たち
3歳のシンイチくんは三輪車に乗っている時に被爆して亡くなりました
「天国でも遊んでね」
シンイチくんと一緒に埋められた三輪車ですが
後にお父さんが掘り出して資料館に託しました
原爆の恐ろしさを忘れないでほしいと
「3人分を合わせて1人分が揃った学生服」
帽子の持ち主は13歳の津田くん
甘えん坊でお母さんが大好きでした
上着とズボンは14歳の福岡くんのもの
英語が得意だったといいます
12歳の上田くんのゲートル
明るい性格でたくさんの友達がいました
大やけどを負って「お母さん! お母さん!」
と呼び続けましたが再び会うことは叶いませんでした
8月6日 原爆が投下された時
市の中心部では空襲による火事に備えて
建物を取り壊す作業が行われていました
そこには今の中学生にあたる
多数の生徒達が動員されていましたが
約6000人が犠牲になりました
その時、生徒たちが身につけていたものを集めた展示があります
ここには生徒達の写真以外に詳しい説明はありません
遺品のことを語れる遺族がほとんど亡くなっているためです
私たちは改めて遺品が持ち込まれた経緯を調べました
そして遺族の一人が存命であることがわかりました
坂上さん 89歳
この半袖シャツは3歳年下の弟が着ていたものでした
坂上さん:
左半身がひどかった
腕と着ているものが焦げて
アキラくん 当時12歳
野球が大好きで、プロ野球の選手になることを夢見ていました
アキラくんのシャツには74年経った今も
血の跡がうっすら残っています
左側はボロボロになり
胸についていたはずの名札も焼けています
8月6日
坂上さんはアキラくんを探すため
原爆の直撃を受けた市の中心部に入りました
アキラくんが作業していたはずの場所では見つからず
坂上さんは怪我人が運び込まれた救護所に向かいました
坂上さん:
地獄のような光景をずっと見ていた
敷くものも十分でないし、ゴザやむしろにびっしり
教室の中から廊下、校庭の木の下まで寝かされて
みんな呻いて 中心部で被爆した人ですから
ひどいやけどの人ばかりで
次から次へ亡くなっていく
亡くなった人は丸太ん棒のように積み上げていく
気の毒なことです
いくつもの救護所を回って
ようやくアキラくんを見つけたのは3日目の朝
中心部から20 km も離れた陸軍病院でした
坂上さん:
病室は全部いっぱいで寝かすところがないから
廊下で簡易折りたたみベッドの上に寝かせてもらって点滴を打ってもらっていました
本人に会った時には喜んでニコニコしていました
大好きだったお兄さんの姿を見て喜んだアキラくん
しかしその姿は変わり果てていました
爆心地からわずか900 m の場所にいたため
熱線を浴び大やけどを負っていました
左の腕は膨れ上がり「痛い、痛い」と呻いていたといいます
再会も束の間、その夜アキラくんは息を引き取りました
坂上さん:
残酷ですね
中学1年というと歳も少ない
シャツを見てもわかるように
小さい体が着ていたんだから
もう戦争は絶対に起こしてはいけないということに尽きますね
原爆を使えばこれほど恐ろしいものはないんだから
(見ている人は皆涙を流している
●被爆者の高齢化
戦後74年目に展示の大きな見直しに踏み切った原爆資料館
そこには強い危機感がありました
被爆者の平均年齢は82歳を超えています
被爆の記憶を次の世代につなげていけるのか
広島は今大きな課題に直面しています
リニューアルを進めてきた前館長の賢治さん
いつの日かくる被爆者なき時代に備え
展示の方向性を大きく変えることにしました
戦後70年以上が経ち
若い人たちにとって原爆は文字通り歴史になりつつあります
被爆者の痛みを実感してもらうには
遺品に宿る物語を
自分のこととして感じてもらうことが重要だと考えたのです
賢治さん:
若い人に当館の資料の話をした時に
同世代の方が残した遺品に対しての関心の度合いは強いものがあると感じました
自分と同い年の、同じ世代の人間がそこにいて
この遺品を残した
その遺品には物語があるので
それにやはり共感した、シンクロしたところがあるような気がします
●リニューアル前の資料館
これまでの展示は大胆に見直し、爆心地の模型は撤去
資料館の象徴だった被爆人形
名前がなく、作り物に過ぎないとして展示を取りやめました
新たな資料館のあり方を被爆者も後押ししています
坪井さん 94歳
被爆者の代表としてリニューアルについて意見を伝えてきました
「ちょっと待って」と写真の前で止まる
8月6日午前11時頃
74年前まさにこの場所にいた坪井さん
写真で確認された被爆者の中で
生き残っているのは坪井さんだけになりました
坪井さん:
気が付いた時には背中は痛いし
火傷でここらもズルズル
今でも耳を見てください
ぺちゃんこ 73年間このままで
坪井さんは自分がいなくなった後も
遺品や写真に宿る被爆者の魂が語り続けてくれるといいます
坪井さん:
霊魂不滅というものがある
霊や魂は不滅 滅することがない
まずは知ってもらわなければならない
分かってもらわなければならない
原爆とはどんなものか
おもちゃのようなものじゃないんだから
(遺品の前で手を合わせる女性もいる
「息子のパンツ」
わずか2歳で亡くなったヒロオくんのパンツ
母親のレンさんが大切に持っていたものです
ヒロオくんはお母さんの背中で被曝
「熱い、熱い」と水を欲しがりました
水を飲むと死んでしまうという噂を耳にしたレンさん
最後まで水を飲ませることができませんでした
妹:
母は毎日お水を仏壇にあげていました
水を飲ませなかったことに悔いが残ったんじゃないか
中学1年生(12歳)のオサムくんが大事にしていた革のベルト
オサムくんは原爆の熱線で大火傷を負い亡くなりました
ベルトが語るのはオサムくんの生涯を引きずり続けたお母さんの思いです
革のベルトを寄贈したのはオサムくんの兄マサルさん 88歳
オサムくんは3人兄弟の末っ子
10年前に亡くなった母親の静子さん
仏壇にベルトをしまい毎日手を合わせていたといいます
マサルさん:
革ベルトが弟の身代わりだと
撫でたりさすったり
「オサムちゃん、オサムちゃん」と声をかけておりました
74年前のあの日
オサムくんは作業に動員され、爆心地から1.2 km で被爆しました
市の中心部から離れた工場にいたマサルさん
すぐにオサムくんを探しに向かいました
(地図の上で確認する
しかし爆心地から2 km あたりで炎に阻まれ、引き返さざるを得ませんでした
家族が身を案じる中、オサムくんが自転車の荷台に乗せられて帰ってきました
全身が焼けただれ、話すこともできない状態でした
マサルさん:
お袋が「オサムちゃんが帰った!」と飛んできて
抱えるようにして家へ連れて入った
私はもう最初見たとき誰かわからなかった
それくらい顔、形が変わっていたわけです
その時オサムくんが手に握りしめていたのが革のベルト
母・静子さんから入学祝いにもらった大切な宝物でした
オサムくんは手当の甲斐なく息を引き取りました
マサルさんは弟の遺体を荼毘に付しました
マサルさん:
大体この一帯です
お袋は玄関から我々が弟を焼くのを見ていました
気が狂ったような感じになっていた
弟の遺体を兄2人が焼くわけですから
普通の気持ちではいれなかったと思います
原爆投下から何年経っても
常にお袋の頭の中には酷い亡くなり方をした
弟に対する思いは消えずにあったと思います
亡くなる前、オサムくんのベルトを寄贈することを決めた静子さん
「自分がいなくなってもオサムのことを覚えていてほしい」
そんな思いからでした
今回のリニューアルでオサムくんのベルトが展示されることを知ったマサルさん
3年ぶりに資料館を訪れました
マサルさん:
今日久しぶりに弟に会ったような気がしまして
「お兄さん元気でやってるか」というような声が
かかってきたんじゃないかと思いました
「元気でやってるよ」と
お袋が居れば「オサムちゃん!」と
大きな声で呼びかけたんじゃないかなという気がしました
(何枚も何枚も写真を撮る
見る人からすれば原爆の遺品だというような
そういう単純な見方、通り一遍の見方ではなくて
そこに家族なり、身内の者の気持ちが
色々込められていると
そこを見て欲しい
そこを考えて欲しい
●資料館の出口に置かれた来館者が感想を書く対話ノート
メモ:
被爆者とひとくくりに言っても
その一人一人に家族や友人、恋人がいる
当たり前の一人の人間だったのだと思わされた
その人の将来が絶たれたという悲しさと悔しさ
その後に生まれた私たちはどう生きるべきか考えています
シンガポール:
親しい人や家族を亡くした人の心の痛みを自分のもののように感じた
イラン:
政治家たちはあまりにも安易に核戦争という言葉を口にする
この資料館で示されている体験が繰り返されるかもしれないのに
●あの日を描いた原爆の絵も常設展示
被爆者の脳裏に焼き付いたまま消えることのない凄惨な記憶
資料館はその記憶そのものも後世に伝えたいと
原爆の絵を展示のもう一つの柱にしたのです
家の下敷きになった娘を必死に助け出そうとする母親
チヨエさんが爆心地近くで見た光景です
炎が迫るなか、母親は素手で壁に穴を開けようとしています
しかし娘を救うことはできませんでした
激しく渦巻く炎に巻かれながら
「早く逃げて」と叫ぶ母親
娘は「お母ちゃん」と泣き叫んでいます
絵を描いた藤岡さん 86歳
74年経った今もこの光景に苦しめられています
(絵を見て涙を拭う
当時藤岡さんは12歳
爆心地から2 km で被爆しましたが
建物の中にいたため奇跡的に助かりました
必死で自宅に帰る途中、この場所で絵に描いた親子と出会いました
藤岡さん:
こちらはもう火の海
ちょうどマキちゃんがあの辺りにいた
燃え盛る炎が親子に襲いかかったその瞬間
母は娘を見ず知らずの藤岡さんに託しました
火がお母さんに舐めるように縦横無尽に左右から来て
子どもが「お母ちゃーん」と言って
お母さんが「お兄ちゃんについて行きなさい」
お母さんは火に囲まれて、私は逃げるのが精一杯
藤岡さんはマキちゃんと呼ばれたその少女を連れて交番に向かいました
警察官に渡してお母さんのことを言って
火に囲まれて倒れたからマキちゃんを守ってやってくださいと伝え
泣き続けるマキちゃんを背に、藤岡さんは交番を後にしました
母親から託されたのに置き去りにしてしまった
その心残りから藤岡さんは戦後
孤児の収容所や当時の警察官を尋ね歩いてマキちゃんを探しました
しかし、あの後すぐに亡くなってしまったのか消息はわかりませんでした
助けられないならいっそ母親から引き離さないほうが良かったのではないか
戦後57年が経ってようやく長年の思いを絵にすることができました
藤岡さん:
心が痛みます
「マキちゃん、お兄ちゃんと逃げて」と聞いてから
マキちゃんが本当に逃げようという気になったか
私が強引に引っ張って助けて逃げようとしたのが
悪者になったのではないかと思って
悔やんでも悔やんでも悔やみきれないよね
●外国人被爆者の遺品や資料
今回のリニューアルで資料館に全く新しい展示スペースも設けられました
外国人被爆者の遺品や資料が集められた一角です
捕虜として広島に収容されていたアメリカ兵ジェームズ・ライアン少尉の認識票です
母親の名前と住所が刻まれています
母親は息子が自分の国が投下した原爆で殺されたことを知り
激しいショックで涙さえ流せなかったといいます
ある兵士が所持していた旧日本軍の軍隊手帳です
そこに記されていたのは松山忠弘という日本名
朝鮮半島で徴兵され、被爆した韓国人でした
カクさん 95歳
自分の手帳が展示されると聞き、韓国からやってきました
「広島の部隊に所属していた頃」
カクさんは終戦の前年
日本の統治下にあった朝鮮半島で徴兵され、広島に送られました
爆心地から2 km で被爆
当時、広島には2万人以上の朝鮮半島出身者がいたとされています
カクさん:
被爆者は日本人だけじゃないということを現地で確かめてみて
他の人たちも韓国人も被爆者だということを見たらわかるようになりましたから
大変幸いなことだと思います
(流暢な日本語
カクさんの体には今も被爆の跡が残っています
カクさん:
ケロイド(火傷)の跡です
他にもたくさんあります
今も蜘蛛の巣のような背中になっています
ものすごくいろんなところにケロイドがある
この身の中に放射能がたくさん残っている
なくならないです
●外国人被爆者の展示に踏み切った背景
そこには世界に被爆を伝える中で直面した大きな壁がありました
「1995年 アメリカの国立博物館が企画した原爆展」
当初、被害を伝えるため原爆資料館の遺品の展示が検討されました
しかし「原爆投下が戦争を終わらせた」という
退役軍人らの反対で急遽中止されました
「原爆を落としたエノラゲイとトルーマン大統領に感謝しよう」
(立ち上がって拍手が起きる
原爆の脅威を訴えるためには
被害が日本人だけに留まらないことを示す必要に迫られたのです
前館長 賢治さん:
当館が日本人の被害を強調した施設だと言われることがあるのですが、そうではないんだ
犠牲になったのはいろんな外国籍の方もいらっしゃるんだということを
改めて確認することによって
大げさな言い方かもしれませんが
原爆の無差別性を少しでも感じ取っていただければいいかなと思います
●差別や偏見
最後のコーナーで出会うのは、戦後70年以上にわたって原爆を引きずり続ける広島の姿です
原爆によるケロイドを抱えた吉川さんの背中
針で刺すような痛みで眠ることもできませんでした
戦後、16回もの手術を受けただけでなく
差別や偏見にも苦しみました
漁師の中村さんは被曝で大火傷を負い、激しい体調不良に苦しみました
一時は回復したものの、放射線による後遺症を恐れて不安に苛まれます
中村さんは精神のバランスを崩し、一家は離散しました
●新たな命
全ての展示の最後に掲げられたのは、不安と希望が伝わってくる親子の写真
爆心地からわずか750mで被爆した母親
そしてその1年後に生まれた赤ちゃんです
被爆した母とその娘
撮影した写真家の名前は記されていますが
親子の名前はありません
その後どうなったのかもわかっていませんでした
赤ちゃんはその後無事に育ったのか
取材を始めて半年
写真の親子の消息が分かりました
田岡さん 72歳
被爆の翌年に生まれました
(とても元気そう
ツキミさんは写真を見たことがありませんでした
資料館に展示されていることも知らなかったといいます
74年前のあの日
母親はツキミさんの兄にあたる1歳の赤ちゃんと一緒に被爆しました
母親の英子さんは至近距離から放射線を浴びたため、体中に紫色の斑点が現れました
1歳の良一くんは激しい嘔吐を繰り返し
被爆後3週間後に亡くなりました
ツキミさん:
母が言うには母乳
自分が被爆して放射能を受けた それがお乳となって出た
それを飲ませたのが原因かなと言っていた記憶があります
母の被爆から1年後に生まれたツキミさん
物心ついてからは、亡くなった兄の影を
母がずっと引きずり続けているのを感じていました
ツキミさん:
私はこうして生きておりますけれども
母にとっては良一が亡くなったことから
1歳何ヶ月から大きくなっていないわけです
亡くなった兄だけでなく、生きている自分も見て欲しい
しかし母が亡くなるまで
その複雑な思いを明かすことは出来ませんでした
「あの日母が見た広島の惨状」
リニューアルした資料館に写真が展示されていることを知り
ツキミさんは見に行くことを決めました
大切な息子を失った母の心をたどります
そして自分の写真を見る
ツキミさんは写真家が聞き取っていた母の言葉を初めて知りました
解説:
母親に抱かれる被爆の翌年に生まれた女の子です
母親は路面電車の中で被爆し一命は取り留めたものの
一緒にいた当時1歳の息子を失いました
悲しみが消えることはありませんでしたが
「代わりに生かしてもらった」という思いが
新たな命を育む母親を支えました
(号泣するツキミさん
ツキミさん:
今日、資料館に来て、皆様の犠牲があって
今私たちは生かされてるんだって思います
母には、産んでくれてありがとう
遺品や写真に託された被爆者たちの最期のメッセージ
ヒロシマを忘れないでほしい
魂の叫びが次の時代へ届くように
・『さがしています』(童心社)
※「読書感想メモリスト3」カテゴリー内「【戦争】」参照
※「資料館・記念館めぐりリスト」カテゴリー内の戦跡参照
原爆資料館は、修学旅行で一度見たことがある
内容はすっかり忘れてしまったが
とても気分が悪くなった記憶だけが残っている
きっと相当ショッキングなものを見たのだと思う
【内容抜粋メモ】
語り:中村倫也
13歳で命を奪われたシゲルくんの弁当箱
中身はお母さんが作った大豆と麦の混ぜご飯でした
原子爆弾によって真っ黒に焦げています
せめて一口食べさせたかった
お母さんはシゲルくんが不憫でなりませんでした
●1945年8月6日
このブラウスは高等女学校2年(現在の中学2年)のヨシコさんが着ていたものです
ヨシコさんは大やけどを負って亡くなりました
お父さんは娘を探していくつもの遺体を確かめました
焼け残った「マルミ」の刺繍からヨシコさんだとわかりました
いつも家事を手伝ってくれるやさしい一人娘だったヨシコさん
お父さんは生涯ブラウスを手元から離しませんでした
●過去最大となる大規模なリニューアル
被爆資料や遺品を通じて世界に核兵器の恐ろしさを訴えてきた原爆資料館
過去最大となる大規模なリニューアルが行われました
「被爆の衝撃を刻んだ遺品や写真」
改めてその一つ一つにまつわるエピソードを調査しました
突然断ち切られたかけがえのない日常
大切な人を奪われた家族の深い悲しみを記し
展示することにしたのです
●14万人の犠牲
生き残った人々の心と体に深い傷を残しました
しかしその体験を伝えてきた被爆者たちは高齢化
ヒロシマを継承できなくなる危機感が高まっています
残された遺品に思いを託すことで
次の世代に被爆の記憶を繋ごうとしているのです
国内外から延べ7200万人が訪れてきた原爆資料館
今回のリニューアルは1955年の設立以来最大となりました
大切にしたのは、あの日きのこ雲の下にいた
一人一人に思いを馳せてもらうことです
「焼け跡に立つ少女」
強い眼差しでまっすぐにこちらを見つめる少女の写真
10歳の藤井幸子さんは自宅にいた時に被爆し
全身にガラスの欠片が降り注ぎました
勉強好きで弟たちを可愛がる優しいお姉さんだった幸子さん
右手にも大やけどを負い、指がくっついてしまいました
(写真を見る修学旅行生たち
3歳のシンイチくんは三輪車に乗っている時に被爆して亡くなりました
「天国でも遊んでね」
シンイチくんと一緒に埋められた三輪車ですが
後にお父さんが掘り出して資料館に託しました
原爆の恐ろしさを忘れないでほしいと
「3人分を合わせて1人分が揃った学生服」
帽子の持ち主は13歳の津田くん
甘えん坊でお母さんが大好きでした
上着とズボンは14歳の福岡くんのもの
英語が得意だったといいます
12歳の上田くんのゲートル
明るい性格でたくさんの友達がいました
大やけどを負って「お母さん! お母さん!」
と呼び続けましたが再び会うことは叶いませんでした
8月6日 原爆が投下された時
市の中心部では空襲による火事に備えて
建物を取り壊す作業が行われていました
そこには今の中学生にあたる
多数の生徒達が動員されていましたが
約6000人が犠牲になりました
その時、生徒たちが身につけていたものを集めた展示があります
ここには生徒達の写真以外に詳しい説明はありません
遺品のことを語れる遺族がほとんど亡くなっているためです
私たちは改めて遺品が持ち込まれた経緯を調べました
そして遺族の一人が存命であることがわかりました
坂上さん 89歳
この半袖シャツは3歳年下の弟が着ていたものでした
坂上さん:
左半身がひどかった
腕と着ているものが焦げて
アキラくん 当時12歳
野球が大好きで、プロ野球の選手になることを夢見ていました
アキラくんのシャツには74年経った今も
血の跡がうっすら残っています
左側はボロボロになり
胸についていたはずの名札も焼けています
8月6日
坂上さんはアキラくんを探すため
原爆の直撃を受けた市の中心部に入りました
アキラくんが作業していたはずの場所では見つからず
坂上さんは怪我人が運び込まれた救護所に向かいました
坂上さん:
地獄のような光景をずっと見ていた
敷くものも十分でないし、ゴザやむしろにびっしり
教室の中から廊下、校庭の木の下まで寝かされて
みんな呻いて 中心部で被爆した人ですから
ひどいやけどの人ばかりで
次から次へ亡くなっていく
亡くなった人は丸太ん棒のように積み上げていく
気の毒なことです
いくつもの救護所を回って
ようやくアキラくんを見つけたのは3日目の朝
中心部から20 km も離れた陸軍病院でした
坂上さん:
病室は全部いっぱいで寝かすところがないから
廊下で簡易折りたたみベッドの上に寝かせてもらって点滴を打ってもらっていました
本人に会った時には喜んでニコニコしていました
大好きだったお兄さんの姿を見て喜んだアキラくん
しかしその姿は変わり果てていました
爆心地からわずか900 m の場所にいたため
熱線を浴び大やけどを負っていました
左の腕は膨れ上がり「痛い、痛い」と呻いていたといいます
再会も束の間、その夜アキラくんは息を引き取りました
坂上さん:
残酷ですね
中学1年というと歳も少ない
シャツを見てもわかるように
小さい体が着ていたんだから
もう戦争は絶対に起こしてはいけないということに尽きますね
原爆を使えばこれほど恐ろしいものはないんだから
(見ている人は皆涙を流している
●被爆者の高齢化
戦後74年目に展示の大きな見直しに踏み切った原爆資料館
そこには強い危機感がありました
被爆者の平均年齢は82歳を超えています
被爆の記憶を次の世代につなげていけるのか
広島は今大きな課題に直面しています
リニューアルを進めてきた前館長の賢治さん
いつの日かくる被爆者なき時代に備え
展示の方向性を大きく変えることにしました
戦後70年以上が経ち
若い人たちにとって原爆は文字通り歴史になりつつあります
被爆者の痛みを実感してもらうには
遺品に宿る物語を
自分のこととして感じてもらうことが重要だと考えたのです
賢治さん:
若い人に当館の資料の話をした時に
同世代の方が残した遺品に対しての関心の度合いは強いものがあると感じました
自分と同い年の、同じ世代の人間がそこにいて
この遺品を残した
その遺品には物語があるので
それにやはり共感した、シンクロしたところがあるような気がします
●リニューアル前の資料館
これまでの展示は大胆に見直し、爆心地の模型は撤去
資料館の象徴だった被爆人形
名前がなく、作り物に過ぎないとして展示を取りやめました
新たな資料館のあり方を被爆者も後押ししています
坪井さん 94歳
被爆者の代表としてリニューアルについて意見を伝えてきました
「ちょっと待って」と写真の前で止まる
8月6日午前11時頃
74年前まさにこの場所にいた坪井さん
写真で確認された被爆者の中で
生き残っているのは坪井さんだけになりました
坪井さん:
気が付いた時には背中は痛いし
火傷でここらもズルズル
今でも耳を見てください
ぺちゃんこ 73年間このままで
坪井さんは自分がいなくなった後も
遺品や写真に宿る被爆者の魂が語り続けてくれるといいます
坪井さん:
霊魂不滅というものがある
霊や魂は不滅 滅することがない
まずは知ってもらわなければならない
分かってもらわなければならない
原爆とはどんなものか
おもちゃのようなものじゃないんだから
(遺品の前で手を合わせる女性もいる
「息子のパンツ」
わずか2歳で亡くなったヒロオくんのパンツ
母親のレンさんが大切に持っていたものです
ヒロオくんはお母さんの背中で被曝
「熱い、熱い」と水を欲しがりました
水を飲むと死んでしまうという噂を耳にしたレンさん
最後まで水を飲ませることができませんでした
妹:
母は毎日お水を仏壇にあげていました
水を飲ませなかったことに悔いが残ったんじゃないか
中学1年生(12歳)のオサムくんが大事にしていた革のベルト
オサムくんは原爆の熱線で大火傷を負い亡くなりました
ベルトが語るのはオサムくんの生涯を引きずり続けたお母さんの思いです
革のベルトを寄贈したのはオサムくんの兄マサルさん 88歳
オサムくんは3人兄弟の末っ子
10年前に亡くなった母親の静子さん
仏壇にベルトをしまい毎日手を合わせていたといいます
マサルさん:
革ベルトが弟の身代わりだと
撫でたりさすったり
「オサムちゃん、オサムちゃん」と声をかけておりました
74年前のあの日
オサムくんは作業に動員され、爆心地から1.2 km で被爆しました
市の中心部から離れた工場にいたマサルさん
すぐにオサムくんを探しに向かいました
(地図の上で確認する
しかし爆心地から2 km あたりで炎に阻まれ、引き返さざるを得ませんでした
家族が身を案じる中、オサムくんが自転車の荷台に乗せられて帰ってきました
全身が焼けただれ、話すこともできない状態でした
マサルさん:
お袋が「オサムちゃんが帰った!」と飛んできて
抱えるようにして家へ連れて入った
私はもう最初見たとき誰かわからなかった
それくらい顔、形が変わっていたわけです
その時オサムくんが手に握りしめていたのが革のベルト
母・静子さんから入学祝いにもらった大切な宝物でした
オサムくんは手当の甲斐なく息を引き取りました
マサルさんは弟の遺体を荼毘に付しました
マサルさん:
大体この一帯です
お袋は玄関から我々が弟を焼くのを見ていました
気が狂ったような感じになっていた
弟の遺体を兄2人が焼くわけですから
普通の気持ちではいれなかったと思います
原爆投下から何年経っても
常にお袋の頭の中には酷い亡くなり方をした
弟に対する思いは消えずにあったと思います
亡くなる前、オサムくんのベルトを寄贈することを決めた静子さん
「自分がいなくなってもオサムのことを覚えていてほしい」
そんな思いからでした
今回のリニューアルでオサムくんのベルトが展示されることを知ったマサルさん
3年ぶりに資料館を訪れました
マサルさん:
今日久しぶりに弟に会ったような気がしまして
「お兄さん元気でやってるか」というような声が
かかってきたんじゃないかと思いました
「元気でやってるよ」と
お袋が居れば「オサムちゃん!」と
大きな声で呼びかけたんじゃないかなという気がしました
(何枚も何枚も写真を撮る
見る人からすれば原爆の遺品だというような
そういう単純な見方、通り一遍の見方ではなくて
そこに家族なり、身内の者の気持ちが
色々込められていると
そこを見て欲しい
そこを考えて欲しい
●資料館の出口に置かれた来館者が感想を書く対話ノート
メモ:
被爆者とひとくくりに言っても
その一人一人に家族や友人、恋人がいる
当たり前の一人の人間だったのだと思わされた
その人の将来が絶たれたという悲しさと悔しさ
その後に生まれた私たちはどう生きるべきか考えています
シンガポール:
親しい人や家族を亡くした人の心の痛みを自分のもののように感じた
イラン:
政治家たちはあまりにも安易に核戦争という言葉を口にする
この資料館で示されている体験が繰り返されるかもしれないのに
●あの日を描いた原爆の絵も常設展示
被爆者の脳裏に焼き付いたまま消えることのない凄惨な記憶
資料館はその記憶そのものも後世に伝えたいと
原爆の絵を展示のもう一つの柱にしたのです
家の下敷きになった娘を必死に助け出そうとする母親
チヨエさんが爆心地近くで見た光景です
炎が迫るなか、母親は素手で壁に穴を開けようとしています
しかし娘を救うことはできませんでした
激しく渦巻く炎に巻かれながら
「早く逃げて」と叫ぶ母親
娘は「お母ちゃん」と泣き叫んでいます
絵を描いた藤岡さん 86歳
74年経った今もこの光景に苦しめられています
(絵を見て涙を拭う
当時藤岡さんは12歳
爆心地から2 km で被爆しましたが
建物の中にいたため奇跡的に助かりました
必死で自宅に帰る途中、この場所で絵に描いた親子と出会いました
藤岡さん:
こちらはもう火の海
ちょうどマキちゃんがあの辺りにいた
燃え盛る炎が親子に襲いかかったその瞬間
母は娘を見ず知らずの藤岡さんに託しました
火がお母さんに舐めるように縦横無尽に左右から来て
子どもが「お母ちゃーん」と言って
お母さんが「お兄ちゃんについて行きなさい」
お母さんは火に囲まれて、私は逃げるのが精一杯
藤岡さんはマキちゃんと呼ばれたその少女を連れて交番に向かいました
警察官に渡してお母さんのことを言って
火に囲まれて倒れたからマキちゃんを守ってやってくださいと伝え
泣き続けるマキちゃんを背に、藤岡さんは交番を後にしました
母親から託されたのに置き去りにしてしまった
その心残りから藤岡さんは戦後
孤児の収容所や当時の警察官を尋ね歩いてマキちゃんを探しました
しかし、あの後すぐに亡くなってしまったのか消息はわかりませんでした
助けられないならいっそ母親から引き離さないほうが良かったのではないか
戦後57年が経ってようやく長年の思いを絵にすることができました
藤岡さん:
心が痛みます
「マキちゃん、お兄ちゃんと逃げて」と聞いてから
マキちゃんが本当に逃げようという気になったか
私が強引に引っ張って助けて逃げようとしたのが
悪者になったのではないかと思って
悔やんでも悔やんでも悔やみきれないよね
●外国人被爆者の遺品や資料
今回のリニューアルで資料館に全く新しい展示スペースも設けられました
外国人被爆者の遺品や資料が集められた一角です
捕虜として広島に収容されていたアメリカ兵ジェームズ・ライアン少尉の認識票です
母親の名前と住所が刻まれています
母親は息子が自分の国が投下した原爆で殺されたことを知り
激しいショックで涙さえ流せなかったといいます
ある兵士が所持していた旧日本軍の軍隊手帳です
そこに記されていたのは松山忠弘という日本名
朝鮮半島で徴兵され、被爆した韓国人でした
カクさん 95歳
自分の手帳が展示されると聞き、韓国からやってきました
「広島の部隊に所属していた頃」
カクさんは終戦の前年
日本の統治下にあった朝鮮半島で徴兵され、広島に送られました
爆心地から2 km で被爆
当時、広島には2万人以上の朝鮮半島出身者がいたとされています
カクさん:
被爆者は日本人だけじゃないということを現地で確かめてみて
他の人たちも韓国人も被爆者だということを見たらわかるようになりましたから
大変幸いなことだと思います
(流暢な日本語
カクさんの体には今も被爆の跡が残っています
カクさん:
ケロイド(火傷)の跡です
他にもたくさんあります
今も蜘蛛の巣のような背中になっています
ものすごくいろんなところにケロイドがある
この身の中に放射能がたくさん残っている
なくならないです
●外国人被爆者の展示に踏み切った背景
そこには世界に被爆を伝える中で直面した大きな壁がありました
「1995年 アメリカの国立博物館が企画した原爆展」
当初、被害を伝えるため原爆資料館の遺品の展示が検討されました
しかし「原爆投下が戦争を終わらせた」という
退役軍人らの反対で急遽中止されました
「原爆を落としたエノラゲイとトルーマン大統領に感謝しよう」
(立ち上がって拍手が起きる
原爆の脅威を訴えるためには
被害が日本人だけに留まらないことを示す必要に迫られたのです
前館長 賢治さん:
当館が日本人の被害を強調した施設だと言われることがあるのですが、そうではないんだ
犠牲になったのはいろんな外国籍の方もいらっしゃるんだということを
改めて確認することによって
大げさな言い方かもしれませんが
原爆の無差別性を少しでも感じ取っていただければいいかなと思います
●差別や偏見
最後のコーナーで出会うのは、戦後70年以上にわたって原爆を引きずり続ける広島の姿です
原爆によるケロイドを抱えた吉川さんの背中
針で刺すような痛みで眠ることもできませんでした
戦後、16回もの手術を受けただけでなく
差別や偏見にも苦しみました
漁師の中村さんは被曝で大火傷を負い、激しい体調不良に苦しみました
一時は回復したものの、放射線による後遺症を恐れて不安に苛まれます
中村さんは精神のバランスを崩し、一家は離散しました
●新たな命
全ての展示の最後に掲げられたのは、不安と希望が伝わってくる親子の写真
爆心地からわずか750mで被爆した母親
そしてその1年後に生まれた赤ちゃんです
被爆した母とその娘
撮影した写真家の名前は記されていますが
親子の名前はありません
その後どうなったのかもわかっていませんでした
赤ちゃんはその後無事に育ったのか
取材を始めて半年
写真の親子の消息が分かりました
田岡さん 72歳
被爆の翌年に生まれました
(とても元気そう
ツキミさんは写真を見たことがありませんでした
資料館に展示されていることも知らなかったといいます
74年前のあの日
母親はツキミさんの兄にあたる1歳の赤ちゃんと一緒に被爆しました
母親の英子さんは至近距離から放射線を浴びたため、体中に紫色の斑点が現れました
1歳の良一くんは激しい嘔吐を繰り返し
被爆後3週間後に亡くなりました
ツキミさん:
母が言うには母乳
自分が被爆して放射能を受けた それがお乳となって出た
それを飲ませたのが原因かなと言っていた記憶があります
母の被爆から1年後に生まれたツキミさん
物心ついてからは、亡くなった兄の影を
母がずっと引きずり続けているのを感じていました
ツキミさん:
私はこうして生きておりますけれども
母にとっては良一が亡くなったことから
1歳何ヶ月から大きくなっていないわけです
亡くなった兄だけでなく、生きている自分も見て欲しい
しかし母が亡くなるまで
その複雑な思いを明かすことは出来ませんでした
「あの日母が見た広島の惨状」
リニューアルした資料館に写真が展示されていることを知り
ツキミさんは見に行くことを決めました
大切な息子を失った母の心をたどります
そして自分の写真を見る
ツキミさんは写真家が聞き取っていた母の言葉を初めて知りました
解説:
母親に抱かれる被爆の翌年に生まれた女の子です
母親は路面電車の中で被爆し一命は取り留めたものの
一緒にいた当時1歳の息子を失いました
悲しみが消えることはありませんでしたが
「代わりに生かしてもらった」という思いが
新たな命を育む母親を支えました
(号泣するツキミさん
ツキミさん:
今日、資料館に来て、皆様の犠牲があって
今私たちは生かされてるんだって思います
母には、産んでくれてありがとう
遺品や写真に託された被爆者たちの最期のメッセージ
ヒロシマを忘れないでほしい
魂の叫びが次の時代へ届くように