花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「ポーランド旅行」(14)

2013年11月10日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪ワルシャワ市内観光⑤≫

「ワルシャワ」最後の日の朝、出発までに少し時間があったのでホテル界隈を散歩した。
スーパーがあったので、土産のチョコレートやミルクキャンデー、菓子などを買って、ポーランドのお金を使い果たした。
朝から濃霧が出て、何もかも霞んで見えたが、「ワルシャワ」の街の様子を数枚の写真に収めた。

  

  

  

  

その後、帰国するため、バスで「ワルシャワ・ショパン空港」に行った。
搭乗券を受け取り、荷物を預け、安全検査を受けて、12;35オランダ「アムステルダム空港」目指して飛び立った。所要時間は2時間。

「アムステルダム空港」で待ち時間が2時間あったが、空港内に国立美術館のちょっとした分館があったので寄った。オランダ出身画家の複製画やマグネットが売られていたので、フェルメールの「真珠の耳飾の少女」のマグネットを3個10ユーロで購入した。娘と木彫りのブローチを作ってくれた人、それに私用の記念の土産だ。

              

「成田」行きのオランダ航空機に乗り換え、成田まで賞味11時間強。合わせて13時間も乗ったが、疲れが出て食事以外はほとんど寝ていた。
「成田」には、予定通り翌日11;55に着陸できたので、その後国内線に乗り換えて「新千歳空港」まで順調に帰って来た。

ポーランドは、フランスやドイツ、イギリスなどと違い、遠い東欧にある国なので、普段は余り情報を耳にすることが少ない。
複雑な歴史も、その国の有名人も今までは少ししか知らなかった。
しかし、出かける前の1ヶ月間、いつもの様に図書館から色々な本を借りて来て読み、一通りの予備知識を得て置いたのは良かった。
(ナチスが行ったユダヤ人に対する恐ろしい絶滅作戦については、『アンネフランクは、なぜ死ななければならなかったか』という本が一番詳しかった)
そして自由行動で、ショパンにまつわる幾つかの場所を尋ねることができたのは、私の一生の財産になった。

最後に長い私の旅日記を読んでくれた皆さんに感謝したい。今は完成した安堵感と共に、ポーランドの歴史と現在について、皆さんにはどのような印象を持ってもらえただろうかと少し気になっている。(完)

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「ポーランド旅行」(13)

2013年11月09日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪ワルシャワ市内観光④≫

さて、いよいよ次は『ショパン博物館』に行く事になった。
しかし地図を見ながらコペルニクスの科学センターの向こう側にある階段を下ったのだが、どの建物がそうか分からず7~8分迷った。結局、中年の女性に聞き、着くことができた。
この博物館の建物は、貴族オストログスキが17世紀に宮殿として建てたバロック様式の立派な物だった。ショパン協会が第二次大戦後取得して博物館としていたが、2010年3月1日、ショパンの生誕200周年に合わせてリニュウアルオープンしたのだった。

中に入ると、ショパン直筆の楽譜や手紙、ショパンの家族と生涯、彼が最後に使った薄茶色のグランドピアノ、何枚もの肖像画、パリで亡くなった時に取ったデスマスクと石膏で作った片手、毛髪など7000点もの資料が展示されていた。
中にはショパンがパリで出会い、長年彼の生活全般と結核の治療を支えてくれたお陰で、多くの作品を生む事ができた小説家「ジョルジュ・サンド」の肖像画もあった。(結局、彼女とは破局したが…)
この博物館でも日本語のガイドは無かったので、見学しながら私が知っているショパンの生涯を一緒に行った人たちに話した。

  

  

 

ここまでの見学でかなり疲れたが、最後の予定見学場所である『国立博物館』を目指して10分間ほど頑張って歩いた。途中で犬を連れた男性に道を尋ねた。その人は教えた所で私達がちゃんと曲がるか、ずっと見守っていてくれた。あり難かった。

『国立博物館』はポーランドとヨーロッパの美術作品を収蔵していて、古代美術、キリスト教美術、中世美術、ヨーロッパ絵画、ポーランド美術など多くの作品が並んでいて見応えがあった。

自由見学の予定が全て終ったので、ホテルまでタクシーに乗ろうか相談したら、歩くというので、また8分程歩いてホテルに戻った。
多少疲れたが、結局半日の自由行動の交通費は0、入場料が2箇所で1,500円だけと安く済んだ。2人には感謝された。
休憩後、近くのスーパーマーケットに行き、サンドイッチ、飲み物、果物を調達して来て、夕食として部屋で食べた。持参したインスタント味噌汁が美味しかった。

(先程からCDでショパンのピアノ曲「マズルカ、作品33」他を聴きながら書いている。今朝外は0度、室温は15℃である)




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「ポーランド旅行」(12)

2013年11月08日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪ワルシャワ市内観光③≫

昼食を食べにレストランに向かったが、たまたま近所に1903年、ノーベル物理学賞を夫と共に受賞した「キューリー夫人」の生家があった。
今は『キューリー夫人博物館』として公開されていた。入り口に「マリア・スクウォドフスカ」博物館という名前が表記されていた。
彼女はこの家で1867年、中学教師の末娘として生まれ、苦学をしてパリのソルボンヌ大学を卒業。卒業後、フランス人科学者ピエール・キューリーと結婚し、夫婦で研究をしてラジウムなどの放射性元素を発見したのだった。
しかし、研究によって白血病になり、1934年66歳で死去した。

  

昼食後は、『ショパンの生家』を見に行くオプショナルがあったが、私は個人でショパンゆかりの場所と美術館を尋ねることにしていた。ツアーのグループの女性が2人、同行させて欲しいと言うので一緒に行った。
先ず行ったのは、ショパンの心臓が保存されている『聖十字架教会』だ。この心臓はショパンに最初にピアノを教えた姉「ルドヴィカ」が、こっそりとパリからワルシャワに運んだ物だ。しっかりと内部を見て来たくて、再び訪れた。
中に人はほとんど居なかったので、しっかりと見て、正面の祭壇と心臓が埋められている柱の写真を撮って来た。心臓は下の壷の奥らしい。

  

次にショパンが主席で卒業した『ワルシャワ音楽院』(今はワルシャワ大学)の校門から中に入り、少しだけ雰囲気を味わった。
この大学の一部にショパンの家族は住んでいたこともあるらしい。

 

大学の近所にショパンがワルシャワにいる間、日曜ミサでパイプオルガンを弾いていた『ヴィジトキ教会』があった。中に入り、祭壇とパイプオルガンの写真を撮った。
こじんまりとした教会だったが、オルガンを下から見上げて、ショパンがそこでオルガンを弾いている姿を想像した。そこにいる時間は短かったが、ショパンの作品が好きな私にとってとても貴重な時間に思えた。

  

 

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「ポーランド旅行」(11)

2013年11月08日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪ワルシャワ市内観光②≫

『聖十字架教会』『ポーランド科学アカデミー』から『クラフク郊外通り』を北に数百m歩いて行くと『旧王宮』(写真右の建物)と『王宮広場』に出た。
そこには1596年に首都をクラクフからワルシャワに移した『ジグムント三世の碑』が広場を見下ろすように聳えていた。
『旧市街』は、レンガの塀で円形に囲んだ要塞『バルバカン』となっていて、今でも部分的に当時の姿が保存されていた。(写真左の塀)

 
 
 

『旧王宮』は、王の住居だった他、時代によって国会、大統領執務室、士官学校、国立劇場が置かれた所だ。
第二次世界大戦で破壊されたが、その前に貴重な調度品は国外に持ち出されて難を逃れたという。
5~9月は内部を見学することができるが、10~4月は公開されないのでこれも残念だった。

続いて『旧王宮』の北側直ぐ傍の『旧市街広場』まで歩いた。
ここは第二次世界大戦で多くの家屋が破壊消失されたところだが、戦後、市民総出で崩れたレンガや石材に番号をつけて積みなおし、長い時間をかけて以前の町並みを復旧再現したところだと、ガイドが看板の写真を示して説明してくれた。
日本なら壊れた建物は直ぐに取り壊して新築する所だが、ポーランドの人達は歴史的な町並みに強い愛着を持っているのだと感心した。
広場では画家が町並みを描いた作品を並べて売っていた。
路地に入ると『バルバカン』に沿ってワルシャワの風景画を描く人や木の彫刻をしながらできた作品を並べている人など、そこにも市民の生活を感じた。

  

 

 

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「ポーランド旅行」(10)

2013年11月07日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪ワルシャワ市内観光①≫

6日目は、午前中がワルシャワ市内観光で、午後が自由行動だった。
ワルシャワ市内観光のスタートは、『ワジェンキ公園』からだった。
丁度黄葉が美しい広大な公園をゆっくりと散策しながら、『ショパン像』の所に行った。

この柳の木の下で自然に耳を澄ましているショパンの銅像は、彼のものとしては最も有名なもので、1926年11月に除幕されたが、1990年3月にドイツ軍によって1度破壊された。しかし、ポーランド国民の愛国心の象徴として1958年、再建されたものだ。
台座には、《炎は絵画を燃やし、盗人は奪い、しかし、歌は残る…》と書かれていた。
どの人もその銅像をバックに写真を撮っていた。
5月から9月の毎週日曜日には、美しく咲く薔薇の前にベンチが並べられ、この前で1日2回、『ショパンコンサート』が開かれているというが、10月中旬だったので薔薇は終わり、ベンチも片付けられていて残念だった。

   

  

傍に「ショパンのピアノ曲が流れる石のベンチ」があった。このベンチは、2010年の国際ショパン年の記念として市内15箇所に設置された。
ボタンを押すと場所ごとに違うピアノ曲が短時間流れ出す仕組みだった。この場所の曲は「ポロネーズイ長調」だった。

次いで水上宮殿の『ワジェンキ宮殿』を外から見学した。

  

次にワルシャワの中心地、「新世界通り」に行った。
フランスで39歳の若さで亡くなったショパンの心臓が納められている『聖十字架教会』に行った。ミサの最中だったので、心臓が埋められている柱に近づくことができなかったので、自由時間にもう一度来ることにした。
『聖十字架教会』と道路を挟んで隣にあるのが『美術アカデミー』の建物だ。実はショパン家族が、かってその一部を借りて住んでいた建物なのだ。
だからショパンの心臓を親しく通った聖十字架教会に預けたのだろう。その家の前にも石のベンチがあった。こちらの曲は『ソナタ変ロ短調』だった。

 

  

教会の前には『ポーランド科学アカデミー』の大きな建物が建っていたが、その前庭に地動説を唱えた『コペルニクス』の大きな銅像があった。彼もまたポーランド出身の天文学者だったのだ。
彼の後の『ガリレオ・ガリレイ』が地動説を唱えて宗教裁判にかけられたが、彼は「天体の回転について」の書を死の直前まで公表しなかったので、迫害されなかったという。

     






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「ポーランド旅行」(9)

2013年11月06日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪シンドラー博物館≫

4日目、「ヴィエリチカ岩塩抗」から16時近くにホテルに戻ったが、夕食まで2時間半ほど時間があった。
添乗員はホテルに近いスーパーマーケットに案内すると言っていたが、私は折角「クラフク」に来たので「シンドラー博物館」に行っておきたかった。
ホテルにタクシーを頼んでもらって乗ったが、丁度、金曜日夕方のラッシュ時間にぶつかってしまった。
やっと博物館に着いた。タクシーの料金は、チップを入れて1600円程だった。

ここはドイツ人「オスカー・シンドラー」が、彼が経営するホーロー工場に多くのユダヤ人を雇用して、1200人を強制収容場行きから救った工場跡である。彼はそのために賄賂や買取費、闇の食糧調達費など、今の日本円にすると1億3,000万円を使った事が分っている。
(詳しくは「オスカー・シンドラー - Wikipedia」を検索して欲しい)
2010年6月に博物館としてオープンしてから、ナチス占領下のクラフクを多くの展示物で再現していた。(一昨年ドイツに行った時、「レーゲンスブルグ」で彼が一時住んでいた集合住宅を見た事がある)
入場料は大人19ズルチ=760円程。

資料にはポーランド語と英語の説明が添付されていたが、残念ながら内容が詳しくは分からないのがもどかしかった。
しかし、「アウシュビッツ・ビルケナウ」になかった集団首吊り刑の写真や当時のクラフクの街の様子、新聞や雑誌の記事、シンドラーの工場で使われていた食器類、救われた人々の写真、シンドラーの執務机、電車などがぎっしりと展示されていた。
見て良かった。

  

 

帰りは自力で帰る事にして、数人の人が歩いて行く後を付けた。するとやがて電車通りに出た。
男性に持っていた地図を見せて、ホテルに近い停車場に行く電車を聞いた。その電車が来たので2輌目に慌てて飛び乗った。
ところが乗ってから切符を持っていないことに気づいたのだ。(本当は切符は予め買って置き、乗車時に刻印機に入れて刻印を押してもらう仕組みになっている。時々検察官が乗って来て検察があるらしい)
そこで近くの人に、「切符を買わずに乗ってしまいました。どうしたらいいですか。」と尋ねた。するとその人は、「後ろに行きなさい。」と教えてくれた。
慌てて3輌目に移動し、切符売り機や車掌を探したが見つからない。うろうろしている内に、下りる停留場が近づいたので飛び降りた。
そこでは角のキオスクの店員に地図を見せて、ホテルに行く道を聞いた。
「右だ。」と言われたので曲がって歩いたら、2丁先の角がホテルだった。

添乗員にこのことを話すと、「検札官は前から来るので、後ろに行けと言われたのでしょう。もし見つかれば10倍請求されていました。」と言われた。私は何てラッキーなんだろうと思った。
添乗員には、「シンドラー博物館は狭い展示室なので、大勢で行くことは無理ですが、希望者がオプショナルで行けたら展示内容が詳しく分かって良かったと思いました。」と言うと、「私も一度行きたいと思っている。」と話していた。

 

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「ポーランド旅行」(8)

2013年11月04日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪負の世界遺産 アウシュビッツ・ビルケナウ見学②≫

次に直ぐ近くにある『ビルケナウ強制収容所』へ見学に行った。
ここは、第二アウシュビッツで、1941年に造られた。
1.4k㎡の広大な場所に、300棟以上のバラックの収容施設が立ち並んでいたという。1945年に開放されるまで百数十万人が殺された場所だ。

「死の門」をくぐって入り、「死の門」の二階に上がると遠くまで見渡す事ができたが、鉄道の引込み線がかなり奥まで続いていた。毎日大勢のユダヤ人たちが、単なる隔離場所だと信じてここにやって来たのだ。

  

 

 

見学した建物は、床は土間、隙間だらけの薄い板壁で造られていて、入り口にストーブが1つあるが、ほとんど燃やされることがなかったらしい。
蚕棚状の木造簡易ベッドが並んでいたが、1箇所に2人寝ていたという。
冬場はー10℃を越える寒さになる所で、薄いボロボロの衣服を着て、劣悪な食事を与えられていた。
寒さに耐えられずに死亡する人が多く、仲間の遺体は凍土を掘って埋められた。

  

馬屋だった棟を『公共トイレ』にして使っていた所を見学した。
現地ガイドの話では、トイレの使用時間は決まっていたという。また溜まった汚物を処理する係りはユダヤ人だったが、場所が場所だけにナチスが監督に来ることはほとんど無かったので、ここは最も安全な良い仕事場だったと聞いた。

  

半世紀前に実際にユダヤ人の絶滅作戦が行われた場所に立っていると思うと、何とも言えない重たい気持ちになった。
世界中から見学者が来ていて、若い人たちも多かった。彼らにはここで見たことを忘れず、今後の世界の歴史を作って欲しいと願うのみだった。
そして私達は、戦争を決して起こさず、人種差別をせず、自由と平和が守られる民主主義社会を守り続けることの大切さを確信した。
同時に、第二次世界大戦で、日本はナチスドイツと同盟を結んで戦ったことを反省する必要があるとも思った。
(元総理大臣が、「日本政府は、国民が知らない内に憲法改正をしたヒットラーのやり方を学んだら良い。」と発言したことを思い出す。全く世界に恥ずべき考え方だし、主権在民の日本国憲法を否定しているとしか言わざるを得ない。)

  

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「ポーランド旅行」(7)

2013年11月03日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪負の世界遺産 アウシュビッツ・ビルケナウ見学①≫

3日目の「クラフク」の午後は、負の世界遺産『アウシュビッツ・ビルケナウ』の見学をするか、自由行動をするかを選べたが、1人を除いてほとんどの参加者が負の世界遺産見学に行った。

バスを下りてから入場券を受け取り、先ず『アウシュビッツ』の敷地に足を踏み入れた。
ここは1940年、ナチス・ヒットラーに支配されていたポーランドで、政治犯を収容するために建てられた施設だが、やがて第二次世界大戦中にナチス・ヒットラーが占領したヨーロッパ中から、ユダヤ人、共産主義者、ナチスに反対する活動家をこの『強制収容所』送り込んだ。合計150万人が収容され、生きて出られた人は僅かだった。

小さく簡単に作られた鉄のゲートがあった。その上部には『働けば自由になれる。』(ARBEIT MACHT FREI)という文字が掲げられていた。
遥か遠くから過酷な旅を強いられてここに到着した大勢のユダヤ教信者(ユダヤ人)達とその子ども達は、このゲートをくぐった所でナチスの監督者に選別された。
健康なものは別の場所に連れて行かれ、女性や老人、病弱に見えた者や子どもたちは、やがて待ち受けている運命めざして、何も知らされずに並ばされたという。
現在は博物館として保存公開されている。

  

  

レンガ造りの囚人棟28棟が立ち並んでいた。所々に監視する建物がある。ここには最大で1度に28,000人が収容されていたらしい。
その1つの棟の入り口を入った所から矢印に従って見学コースを回った。

先ず二階に上がって直ぐに目に飛び込んで来た最初の展示は、衝撃的だった。
天井まで届くガラス窓が幾つもあって、中にはおびただしい量の灰色の髪の毛が積み上げられていた。別の場所で知ったのだが、ナチスが降伏してこの場所が開放された時、巻いた灰色のじゅうたんが幾つも出て来たが、髪の毛はその材料として使われたのだった。
次のガラス窓の中には、無数の眼鏡が、またその次には大量の革靴があった。小さな子どもの靴や衣服もあった。さらに進むと、ユダヤ人たちが荷物を入れて来た当時のスーツケースが山積みされていた。その多くには持ち主の住所や名前が書いてあるのだった。
赤ん坊を入れて来たらしい大型の手下げ籠も。当たり前だが、その全てには持ち主がいたのだ。これらの靴を履いて、ここまで辿り着いた人たちも。

  

再び一階に下りると、沢山の大型拡大写真で当時の状況が分かるように展示していた。
その一箇所に、ガラスケースに入った遺灰の展示があった。
また毒ガスとして使われた『チクロンB』が入っていた缶とその説明もあった。ショウウインドウの中に、『チクロンB』の空き缶が展示されていた。


  

  

  

別の建物に入った。何らかの理由で罰せられた人の独房が並んでいた。4人部屋もあった。その一つに、有名な「コルベ神父」が死亡した部屋があった。
(連帯責任を取らされて10人が餓死刑にされることになった時、「コルベ神父」が自ら申し出て10人目になり、死亡したのである)

一番奥に、狭い「立ち房」があった。畳半畳ほどしかない部屋に4人が入れられ、食事を与えられずに立ったまま死亡して行った部屋だった。

写真撮影ができないという部屋に入った。そこは「ガス室」だった。「シャワーを浴びてもらう」と言って服を脱がせ、次々とその部屋に招き入れたのだ。
天井の真ん中に一辺が15cmも無いように見えた四角い穴が開いていた。そこから有毒ガスを発生させる『チクロンB』の缶を投げ入れ、部屋にガスを充満させ、20分程で死亡させたのだという。
ガス室の隣室には、死体を焼くための2つの焼却炉が備えられていた。当時は3つあり、1日に340人の遺体を焼いていたらしい。
焼却炉やその後の遺体処理作業場で働かされていたのは、ユダヤ人たちなのだった。

再び外に出た。棟と棟の間を利用して処刑場が造られていた。奥の壁に向かって立たせた2人を、入り口の方から銃殺したのだそうだ。
驚いたことに写真右側の建物の窓には目隠しが無く、建物内からその状況を見ることができるようになっていた。見せしめの処刑を行っていたのだった。

  

最後にゲートのすぐ傍に鉄で造った鉄棒状の『集団絞首刑場』が作られていた。逃亡しようとして捕まった人達が、皆が見ている前でここで絞首刑を執行された。
その写真は、自由時間に個人で行った「クラクフ」の『シンドラー・ファクトリー』の展示場で見た。
6人がぶら下がり、1人が下に倒れているのを、大勢が傍で、ある者は笑いながら見ている写真だった。








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「ポーランド旅行」(6)

2013年11月01日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪貴族の館と「ヤスナ・グラ修道院」≫

5日目は、「クラクフ」を出て首都「ワルシャワ」に向かったが、途中で2箇所立ち寄った。
1つ目が、コウノトリの巣がある「ビュスコヴァスカ村」の郊外にある貴族の館だ。
ひっそりとした丘の上に建つ古いが風格が感じられる館だった。工事中で、中には入れなかった。

  

 

バスから「ビュスコヴァスカ村」の幹線道路の両側に建つ民家を見ると、この辺はまだ世帯の家族数が多いのか、半地下式で地上二階建ての大きい家が多かった。
農業が中心だと思うが、住宅を見る限り豊かそうに見えた。街中に入ると集合住宅も幾つかあり、ソ連時代に建てられたような古いものもあった。
濃霧が立ち込めていた上に走るバスから写真を写したので、ボケていて申し訳ない。

  

  

午後は、もう一つのカトリックの聖地「ヤスナ・グラ修道院」に行った。
この修道院は1655年にポーランドがスエーデン軍に攻められた時、最後まで負けなかったのだ。それは祭壇に置かれた『黒いマドンナ』のお陰だと言われて、信者の信仰を集めたそうだ。
その日のミサに参加する信者の多くが、イエス・キリストが印刷されている赤いマントを羽織って礼拝堂に向かっていた。
礼拝堂に入ると、壁には金や銀、様々な宝石などで作った信者の寄付がギッシリと飾られていた。多くの教会を見て来た私にも、こんな教会を見るのは初めての事だった。

  

  

またこの『黒いマドンナ』は、信者から寄付された着替えの服を幾つも持っていて、ミサの度に着替えるのだ。
私達が訪れた日は、大勢の信者で礼拝堂はぎっしりと埋め尽くされていて、『黒いマドンナ』は煌びやかなダイヤの衣服をまとっていた。

おまけに、礼拝堂の横に造られている大きい第二礼拝堂?の華やかさには仰天した。ゴシック様式で、金箔が施されたとても豪華な場所だったからだ。

 

見学を終えた後、222kmの道のりをバスは4時間かけて1日目の夜着いた「ワルシャワ」に戻った。

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「ポーランド旅行」(5)

2013年10月30日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪世界遺産・ヴィエリチカの岩塩鉱山≫

4日目の午後は、カルヴァリアを後にして「世界遺産・ヴィエリチカの岩塩鉱山」を訪れた。
かってこの地は海の底だったが、やがてこの地が隆起したことにより、海底に溜まった岩塩が地上近くに持ち上がったという。
ここは紀元前5,000年から岩塩を採掘した所だという。本格的には1250年頃より1950年代まで700年間も採掘作業が続き、冷蔵庫が無かった時代に食品などを保存するのに欠かせないものとして世界中に輸出されて来た。


坑道は9層にも及んでいて、最深部は地下327m、坑道の延長距離は300kmにも及ぶらしい。
私達が歩いた坑道の長さは、公開されている2.5kmで、最深部は、地下135mだった。気温は年中14度だという。

先ず、労働者達が利用したエレベータに乗り込んだ。定員は7人の狭い木の箱で、鉄製の扉が付いていた。

  

地下に下りると、太い丸太が坑道が崩れないように壁と天井を支えていた。その丸太は長い年月に渡って岩塩が沁み込み、金属の様に硬くなっていた。
坑道には20~30m程の間隔で木製の扉が幾つも付いていて、ガイドが見学者全員がいる事を確認しながら次々と扉を開けて進んだ。坑道が通気口の役割をしているため、強い気流が一気に流れない様にするためらしかった。
所々に沁み出した岩塩が結晶になって張り付いていた。

  

  

採掘当時の様子は、人形や馬の模型で分かり易く展示されていた。採掘した重い岩塩を運ぶトロッコを動かしたり、地上に箱を上下させて運び出すのには、太いロープを人力や馬力で円柱に巻き付けて行っていたのだ。

  

途中には、巨大な採掘後の空間を利用して礼拝堂が造られていて、色々なレリーフや工夫の像、シャンデリア、マリア像など、全てが結晶した岩塩を彫って造られていた。
岩塩はその中に含まれる鉱物によって色が異なるが、その結晶もケース内に展示されていた。

  

  

見学後に店で土産に岩塩を買った。精製塩より結晶が大きく、舐めると鉱物が多いために塩辛さが弱く、美味しかった。

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「ポーランド旅行」(4)

2013年10月28日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪カルバリア・ゼブジドフスカという所≫

「クラフク」の午後の観光は、世界遺産「アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所」だったが、その記事は後日に回して、今回は、4日目の午前中に訪れた「カルバリア・ゼブジドフスカ」について書くことにする。

朝から雨が降る中、「クラフク」のホテルを出、南西に向かって38km走った。
駐車場でバスを降り、傘を差して、まだ誰の姿も無い坂を少し上ると、丘の上に見上げる様な大きな教会があった。
そこはカトリック信者の「サンクチュアリー」(聖地)だった。17世紀初めに地元の領主が丘をキリスト教の聖地「ゴルゴダの丘」に見立てて礼拝堂を造ったのだ。礼拝堂は28も造られ、巡礼路は6kmもある。
金曜日のミサには、国内外から大勢の信者達が集まり、また、巡礼や研修をしたり、祭礼をしたりする場所だという。広い敷地に大きいレストランや宿舎も立っていた。

  

 

      

教会の内部に入ったが、中央祭壇に聖母マリアの絵が飾られていた。
回廊には信者数万人がぎっしりと広場に集まっている写真や、以前にバチカンでローマ法王になった「ヨハネ・パウロ二世」が訪れた時の写真などが飾ってあった。
前庭にも高さ数mはあるだろうと思われる「ヨハネ・パウロ二世」の銅像が立っていた。

調べてみると「ヨハネ・パウロ二世」は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日。本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol J�・zef Wojty�・a)だった人だ。
ハドリアヌス6世(オランダ出身、在位:1522年 - 1523年)以来、455年ぶりの非イタリア人教皇であり、また史上最初のスラヴ系教皇だった。
神学と哲学の2つの博士号を持っていて、平和主義、キリスト教と科学(ガリレオの地動説など)との融合を図ったことで知られている。私自身はキリスト教にあまり関心がないが、「ヨハネ・パウロ二世」の人柄は知っていた。

ここは信者にとっては生きている内に一度は訪れたい場所なのだろうと思った。

  


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「ポーランド旅行」(3)

2013年10月27日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

≪世界遺産「クラフク旧市街地区」≫
旅行3日目は、「クラフク」のホテルを出てから旧市街地区に向かった。
「クラフク」は11世紀から1596年までの550年間、ポーランドの首都だった街で、人口も75万人で路面電車とバスが行き交う大都市である。
しかし、第二次世界大戦中、「ワルシャワ」などの都市と違い、ナチス・ドイツが駐屯していたため爆撃されなかったので、旧市街もそのまま残された。その歴史的な町並みは、1978年に世界遺産に指定されている。
かってはクラフクの市民の1/3がユダヤ教徒(=ユダヤ人と呼ばれる)だったので、「ユダヤ人街」は映画『シンドラーのリスト』の撮影場所になったり、多くの「シナゴーク」(ユダヤ教会)もあったという。(4枚目の写真は「ザモシチ」で見たシナゴーク)

  

  

次いで旧市街の南側でバスを降り、高台に建つ歴代ポーランド王の居城であった「バベル城」まで10分程緩やかな坂を歩いて登って行った。
「旧王宮」は、この時期だけの黄葉やツタの紅葉が美しく、ビジターセンターになっていた。
坂を上り切った所から眼下にヴィスワ川が臨めた。

  

 
 
「バベル大聖堂」は14~18世紀迄の400年間、ポーランド王の戴冠式が行われた場所だ。幾度も増改築が行われたらしく、様々な様式の塔が入り組むように立っていた。
内部は写真撮影が禁止されていたが、祭壇は絢爛豪華な中にも長い歴史と落ち着きが感じられる造りだった。
地下には歴代の王の棺も納められていた。(2010年カチンの森の集団殺害事件と周年記念追悼式典に参加するために向かって航空機事故死したカチンスキ大統領夫妻も埋葬されていた)

 

 

見学を終えて坂を下ると、道端で民族服を着た男性がアコーデオンを弾いていた。
間もなく「聖マルチン教会」に出会った。
(私はプロテスタント教会のルター派が、第二次大戦中、ナチスを擁護したと書かれていた本を思い出した。
カトリック教会も多かれ少なかれナチスに屈したのかも知れない。ドイツでこれを反省したマリア教会が、教会新設時にステンドグラスの絵をアメリカに逃れていて助かったユダヤ人のマルク・シャガールに依頼して描いた。この教会は、小さいが世界遺産に指定されている)
この辺りでは観光用に馬車も人気があるようだった。

  

  

やがて総面積4万k㎡あって、中世から残っている広場としてはヨーロッパ最大の面積だという中央広場に出た。
広場の一角に1222年に建てられた「聖マリア教会」の塔が聳えて見える。
かってモンゴル軍が、1241年2月13日に凍ったヴィスワ川を渡河してクラクフ公率いるポーランド軍の守るサンドミェシュを包囲し陥落させた事(トゥルスクの戦い)がある。やがてこの年、市民は「クラフク」を捨て去ったという。
モンゴル軍が攻めて来た時、「聖マリア教会」の82mある塔から敵の襲撃を告げたラッパが、今も毎正時に塔の上の窓から吹き鳴らされる。残念ながらその時のラッパ手は敵の矢で喉を射られて死んだので、彼を悼んで吹き鳴らし続けているのだという。
私達はその音を11時の時刻まで待って聞いた。上部の窓が開き、人影が見えた。ラッパを吹き終わると彼は窓から手を振った。
ラッパは十秒間程に思えたが、市民皆で歴史を記憶に留めようと努力している姿に感じ入った。

   

広場を挟み「聖マリア教会」「市庁舎」の反対側には長さ100m、14世紀に建てられ、織物や衣料品の取引所だった色鮮やかな「織物会館」があった。
現在1階は、特産の木彫り工芸品や琥珀などのみやげ物店が軒を連ねていた。私はここで娘の土産に木彫りの箱を買った。

  

  

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「ポーランド旅行」(2)

2013年10月26日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

ポーランドは夏時間だったので、1日目は24+7時間=31時間という長さの一日だった。首都「ワルシャワ」のホテルに到着した時刻は、現地時間22時50分だった。
風呂に入って寝たのは24時半頃だったが、催眠薬を飲んでぐっすりと寝た。

≪世界遺産「ザモシチ旧市街地区」≫

2日目、6時のモーニングコールで起こされ、スーツケースに荷物をまとめて朝食のレストランに行った。
EU共同体に入っているためか食材が豊富で、新鮮な果物や果肉100%の各種果物のジャムやジュース、ハム、ソーセージ、ベーコン、トマト、胡瓜、レタスなどが所狭しと並べられていた。どれも私の口に合ってとても美味しかった。翌日からのホテルの食事も似ていて満足だった。

  

  

7時半にバスで出発して、「ワルシャワ」の南東253kmの「ザモシチ」を目指し4時間半走った。
濃霧が立ち込めた薄暗い国道の両側に車窓から見る景色は、深まった秋を思わせる広葉樹の黄葉が美しく、まるで絵画を見ているようだった。
途中で見たヤドリギが私には珍しかった。

   

 

「ザモシチ」は人口7万人の小都市だが、貴族の「ヤン・ザモイスキ」(乗馬姿の銅像)が自分が見たイタリアの景観を再現するために1580年からイタリアから建築士を招いて造り、1600年に完成したルネッサンス様式の都市なのだそうだ。
今も当時の建物をそのままにした市民の暮らしがあった。

  



外敵の侵入を防ぐために、北海道の「五稜郭」に似た五角形の星型城壁を築いて都市が囲まれていたらしいが、今も一部がその当時のままに残されていて、「ザモシチ旧市街地区」はユネスコの世界遺産に指定されていた。

1939年、ザモシチにナチス・ドイツが侵攻した際は、その一部が処刑場として使われ、ポーランド人、ユダヤ人、ソ連兵が8000人も殺戮されたという。博物館の入り口にレリーフが1枚飾られていた。
私達はポーランド観光の第1日目から、目を覆う様な歴史的事実を突きつけられたのだった。

 

 

「ザモシチ」で昼食を摂り、午後はさらに320km西南の「クラフク」を目指して、バスで5時間走った。


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「ポーランド旅行」(1)

2013年10月14日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅠ」ポーランド・コソボ,マケドニア,アルバニア

10月中旬になり、今朝6時の外気温は5℃だった。
庭の野菜は「大根」と「レタス」を残し、昨日は「ミニトマト」の茎と枝を短く切って土に埋め、支えの竹を片付けて、当面の庭仕事を終えた。
「秋明菊」「ダリア」「菊」「薔薇」がまだ咲いているが、寒くなったので、毎日は手入れが必要でない。
それでこの時期、やっと旅行に出かけられるようになった。


15日出発22日帰国で、8日間「ポーランド」に行ってくる。
自宅出発は早朝で、新千歳空港7;50発の航空機で先ず成田国際空港に向かう。
「ポーランド」には日本からの直行便がないらしく、今回は「オランダ」のアムステルダムで乗り換えてワルシャワに向かう。

「ポーランド」は、近現代に入って2回も世界地図から国名が無くなったという歴史を持つ国だ。
位置的に大国「ロシア」と「ドイツ」に挟まれているため、第一次世界大戦前は「ロシア」の領土だったし、第一次大戦後の1918年「ロシア」の10月革命で「ポーランド共和国」が独立した。
しかし1939年には「ドイツ」軍が侵攻し、第二次世界大戦が勃発。
やがてドイツのヒットラー政権の支配を受けて、公式で600万人と言われる「ユダヤ人」が虐殺されたのだった。

少し前に「ショパン」についてブログに記事を書いたが、あの頃は旅行に備えて図書館から借りた「ポーランド」に関する本を何冊か読んでいたのである。
そんな訳で、今までは旅行の行程に入る「アウシュビィツ・ビルケナウ強制収容所」に行く決心がなかなかつかず、この国を避けて来た。
しかし、ユネスコの「負の世界遺産」になっているその場所を、やはり自分の目で見て来ようと決心したのである。

「ポーランド」の面積は日本の4/5、そこに3,820万人(2010年)が住んでいる。
日本との時差は、10月最終日曜日のAM3時までは夏時間で8時間だ。
気候は北海道より少し気温が低い晩秋の時期で、首都「ワルシャワ」の10月の平均は4.9℃~13℃らしい。
結構寒いので、現地ではベストやカーデガンを重ね着し、長袖のコートを着て、マフラー、薄手の手袋も持って行く積もりだ。岩塩採掘鉱山の見学もあるので、念のために携帯カイロも…

2004年に「チェコ」「ハンガリー」「ラトビア」「リトアニア」と共にEUに加盟したが、通貨は「ズウォッチ」を使っているという。
添乗員の話では、ユーロも使えるらしいので、前に少し余したユーロがあるので、それも持参したい。

何はともあれ、折角多くの時間とお金をかけるので、体調に気をつけながら、十分に旅を満喫して来たいと思っている。

    

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