イギリスの障害競馬の不正行為を追求するという、スリラーというか、ミステリーと言うか名人D・フランシスの1965年の作品だ(ハヤカワ・ミステリー文庫)。
長さがいい。このごろは活字の目方で売るような長ったらしいエンターテインメントが多いが、文庫で400ページ足らずと手ごろである。長さと緊迫感は反比例する。一部の例外を除いて、いわゆる純文学では例外も稀にあるが、エンターテインメントでこれらが両立しているのを読んだことがない。
空港の売店で買ってエコノミー症候群になるちょっと手前で読み終わる。そんな長さである。
この小説家は多作家で(今の基準で言うとそうでもないかもしれないが)沢山ハヤカワでも出ているが、どれがいいかなと巻末の解説を読む。解説を書いている石川喬司によればその中でもベストということだ。それであがなった次第。
今回の調査探偵役はオーストラリアの牧場主で、イギリスの厩舎にもぐりこんで厩務員たちのなかに紛れ込んで活動する。
私は競馬をしたり、やめたりしていたのだが、かって競馬(馬券)を再開した時に、厩務員と言う言葉を聞いて何のことかしばらく分からなかった。日本ほど立派な日本語があるのに、やたらに言葉を変えるので戸惑ってしまう。
大分経ってから分かったのだが厩務員と言うのは馬丁のことらしいね。むかし、競馬場に言ったら馬丁組合のストライキで開催中止なんて言われたことがあった。
この小説ではイギリスの厩務員の実態が(私もこの言葉をつかう。バテイというのは素直に変換できないのでね)書きこまれているところが私には面白かった。今のイギリス競馬界でもこの小説のようかどうかは承知しないが、社会の落後者、前科者でほかに行き場がない者たちの吹き溜まりである。
日本と比べてどうかな。実際には知らないが、この本の書かれたころ普通の人がバテイという言葉を聞いてイメージで連想した社会は大体D・フランシス描くところと同じだったような気がする。差しさわりがあったらお許しを請うが。
さて小説に戻るが、調教師、馬主は非道、横暴、専制的で厩務員を虫けら以下に扱う。イギリスを議会制民主主義のお手本みたいに日本では見ているが、なかなか社会の底辺までそういうわけにはいかないものだ。あるいは競馬社会というのは特殊なのかもしれない。どこの国でも、というと語弊がありそうだが。
厩務員の宿舎は(といっても馬房の屋根裏だが)は日本の昔の土木工事のタコ部屋と同じである。
この小説には騎手がまったく出てこない。それでいて読み終わっても特別に奇異にも感じず、第一気がつかない。
非常に面白い小説だと思った。
ちなみに「興奮」というタイトルは原題ではFor Kicks、原題はしゃれていると思うが、日本語タイトルにもう少し工夫がなかったかな。
そういえば「利き腕」と言うのもあるが、これも原題はWhip Handじゃなかったかな。これも利き腕よりいい題がありそうだ。
もっとも弓手、いや馬手というのもおかしいか。日本でも競馬の騎手は利き腕で鞭を使っていたっけ。そうだね、、利き腕を使うことが多いかな。昔はどうだったかな、拍車に頼っていたからな。
次は競馬界のさまざまな職業に焦点を合わせたフランシスの小説を探そう(ないかもしれないが)。調教師、馬主、騎手、予想屋、装蹄師などに絞って人間模様を書いてあると、面白そうだ。下駄屋(装蹄師)には昔から大変に興味があるんだけどね。あったら教えてください。
& 彼の作品は原文では読んだことはないから詳細な議論は出来ないが、翻訳がかなりの水準にあるように思われる。菊池光、光はミツと読むそうだから女性だろう。彼女はほかの作家の翻訳もあったようだが、それほど印象に残っていない。ディック・フランシスについては相性がいいというのか、原文も水準以上なのだろうが、翻訳者の功績も大きいと思われる。