センチメンタル・ジャーニーが飛び火して「天敵 形而上学」というよりかは観念論などを拾い読みしています。
哲学用語というのは日本語で妙なものが多い。これは第一には明治時代に翻訳されたものが難しすぎるんでしょうな。
当時の教養人は古典漢籍の素養が深かったから哲学用語の翻訳はほとんど漢籍に出典を求めることが出来るでしょうが、現代の無教養者には一読して昔の読書人のようにはピンとくるところがない。意味が分からない。
原文では日常用語であることが多い。当たり前でしょう。すべての概念は日常用語に最終的に還元されなければ意味を共有することが出来ない。自然科学でも最終的には日常生活のセンスデータに還元できなければチンプンカンプン(この語源は珍文漢文だと思うんですがね)である。
で、西洋哲学では珍妙な訳に出会ったら原文を確かめる必要が有る。すくなくとも他の欧米語に訳されたものを見るべきである。
一例として表象という言葉がある。これがやたらに出てくるがピンとこない(わたしには、ですよ)。これは英語でいうとpresentationとある。一読了解である。
もっとも、プレゼンテーションといっても、行商人がサンプルをプロジェクターに写して口上をのべるあのプレゼンテーションではありませんよ。小保方さんがメード喫茶みたいなコスチュームで行う発表会とも違いますがね。
もう一例。ヘーゲルの『法の哲学』に頻繁に出てくる訳文に「自己のなかへ折れ返る」というのがある。中央クラシックです。訳者は1910、20年代生まれ(共訳)だから「日常用語」を心がけたんでしょうか、それにしても珍妙だ。緒論(イントロダクション)だが、これはかなりの部分がいってみれば「思弁的心理学」談義である。意志だとか
衝動だとか。その当時19世紀初頭には心理学なんて無かったんでしょうね。すくなくとも実験的心理学は。
昭和平成にはいると漢籍の素養は訳者にはないから、日常用語で訳そうと工夫をするらしいが、これがおよそセンスがないものが多い。現象学だとか、ポストモダンだとかいうものの翻訳には噴飯ものが多い。
さて、「自己の中へ折れ返る」ですが、心理学的な記述を連想させるから一種の自閉症的現象のことかな、なんてね。それで19世紀終わりにイギリス人が訳したのをみると、かならずしも統一していないようで、場合に応じて訳しているようだ。若干例をあげると;
secluded I
abstracted from everything
つまり自閉症的なニュアンスなんだな。自分の中に閉じこもる、すべてから身を引くといったように訳しているようだ。どう考えても、日本語として「自己の中へ折れ返る」というのはおかしい。それこそ、ラッセルやウィトゲンシュタインがいうように「たわごと」になってしまう。
哲学用語というのは日本語で妙なものが多い。これは第一には明治時代に翻訳されたものが難しすぎるんでしょうな。
当時の教養人は古典漢籍の素養が深かったから哲学用語の翻訳はほとんど漢籍に出典を求めることが出来るでしょうが、現代の無教養者には一読して昔の読書人のようにはピンとくるところがない。意味が分からない。
原文では日常用語であることが多い。当たり前でしょう。すべての概念は日常用語に最終的に還元されなければ意味を共有することが出来ない。自然科学でも最終的には日常生活のセンスデータに還元できなければチンプンカンプン(この語源は珍文漢文だと思うんですがね)である。
で、西洋哲学では珍妙な訳に出会ったら原文を確かめる必要が有る。すくなくとも他の欧米語に訳されたものを見るべきである。
一例として表象という言葉がある。これがやたらに出てくるがピンとこない(わたしには、ですよ)。これは英語でいうとpresentationとある。一読了解である。
もっとも、プレゼンテーションといっても、行商人がサンプルをプロジェクターに写して口上をのべるあのプレゼンテーションではありませんよ。小保方さんがメード喫茶みたいなコスチュームで行う発表会とも違いますがね。
もう一例。ヘーゲルの『法の哲学』に頻繁に出てくる訳文に「自己のなかへ折れ返る」というのがある。中央クラシックです。訳者は1910、20年代生まれ(共訳)だから「日常用語」を心がけたんでしょうか、それにしても珍妙だ。緒論(イントロダクション)だが、これはかなりの部分がいってみれば「思弁的心理学」談義である。意志だとか
衝動だとか。その当時19世紀初頭には心理学なんて無かったんでしょうね。すくなくとも実験的心理学は。
昭和平成にはいると漢籍の素養は訳者にはないから、日常用語で訳そうと工夫をするらしいが、これがおよそセンスがないものが多い。現象学だとか、ポストモダンだとかいうものの翻訳には噴飯ものが多い。
さて、「自己の中へ折れ返る」ですが、心理学的な記述を連想させるから一種の自閉症的現象のことかな、なんてね。それで19世紀終わりにイギリス人が訳したのをみると、かならずしも統一していないようで、場合に応じて訳しているようだ。若干例をあげると;
secluded I
abstracted from everything
つまり自閉症的なニュアンスなんだな。自分の中に閉じこもる、すべてから身を引くといったように訳しているようだ。どう考えても、日本語として「自己の中へ折れ返る」というのはおかしい。それこそ、ラッセルやウィトゲンシュタインがいうように「たわごと」になってしまう。