穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

反時代的考察 2

2015-09-08 20:16:44 | スマホ

アンドロイドOS1.6時代の端末の話を少しすると、これはたしか米国製であった。日本ではアンドロイド端末はまだ作っていなかったし、韓国は勿論生産していなかった。 

ハードの作りはなかなかスマートだった。小さくて軽かった。当然入力、視認性に大きな制約があった。そのせいだろう、段々スマホは大型化した。大型のスマホは重くて大きいから操作性が著しく劣る。三重苦でね(入力困難、視認困難、携帯しやすさが失われる欠陥)。

このトリレンマは救いようがない。入力、視認を改善しようとすれば携帯性能は犠牲になる。そしてこの三重苦は絶対に解決策がない。大きさ、重さが中途半端になり、携帯性が損なわれるのはさけようがない。それでいて入力、視認の困難が解決されるわけではない。

今のガラケーはその点では完成度が高い。ここ数年これ以上小さく、軽くならないからもう限度まできているのだろうが。100グラムちょっとということね。

ところが最近のスマホのパンフレットをみると大体120から130グラムになっている。大きさは中途半端でガラケーのサイズには及ばないが重量ではガラケーなみになっている。これもスマホに替えようかなと思った理由である。

あと、タッチパネルの問題が有る。ガラケーに比べて圧倒的に誤入力の確率が高い。そんな操作をしているつもりはないのに、何処かで触ったのかとんでもない所へ飛ぶ。画面プロンプトがガラケーに比べて極端にユーザー・アンフレンドリーだから、どう元の画面に戻ったらいいか分からない場合が多い(分かる場合も多少有る)。以上はアンドロイドである。iPhoneは触れたことがないが、iPhoneは使いやすいと聞くからやはりアンドロイドに特徴的な問題なのだろう。

次回、解説本にみる異常


反時代的考察 1

2015-09-08 02:39:50 | スマホ

久しぶりに携帯を買いにいった。数年使っていたガラケーの動作が不安定になることがあり、液晶は問題ないが音声が著しく劣化したのでとうとう買い替えることにした。

ガラケーからガラケーでなんら問題はなかったのであるが、久しぶりにスマホにした。その理由は第一にスマホの進化に対する興味である。アンドロイドのOSが1.6の時代に一年ほど使っていたが、これは私のライフスタイルには全く関係ないな、というのでやめた。聞くと最新バージョンは5だという。さぞかし進歩して便利になっただろうという興味である。

当時からiPhoneが圧倒的人気であったが、販売代理店がソフトバンクだったので対象外であった。最近はAUやドコモでも扱うというのでそれもあって、アイフォンを買うつもりで代理店に行った。

ところが某社某代理店に行くと、Iphoneを薦めない。ネガティブなことをほのめかす。これは意外だった。表向きの理由はiPhoneは売るだけで後のケアはしない(出来ないか?)、アップルでする。それは不便だということらしい。金も数万円かかるという。アンドロイドは自社で完全にケアするとほのめかす。ここでぐらついた。

そもそも、ガラケーからiPhoneあるいはスマホに移行しようと思った理由が、なにかあって質問しようと電話しても電話が通じない。いつも話し中である。繋がらない電話番号を案内するのは企業の反社会的行為である。そんなことでクレームをつけても時間のむだだ。なにしろ電話が繋がらないのだから。

私は考えた。これは世がスマホ時代に移行してガラケーのサポートにはもう人を回さないのであろう。それなら,私がここで折れてスマホにすれば、会社も一生懸命問いあわせにも応じるだろう。電話にもすぐ出るだろうと考えた。それでiPhoneはサービスが良くないと聞かされて方針を転換して結局某メーカーのアンドロイド機種をかわされた。これで酷い目にあった。 

このシリーズを反時代的考察と名付けたのは、私の述べる不都合、苦情は時代遅れの私だけのことで、世の中の青少年婦女子諸君はすいすいとスマホ世界に浸入し、軽々と使いこなし何の不便を感じないのであろうと思ったからである。電車のなかや道路でスイスイやっているのを見るとそうひがむのである。 >