私立探偵小説には探偵を挟んで依頼者と警察があるわけである。とくに殺人事件に発展した場合には。前にも書いた様にマーロウは依頼者のプライバシーを警察に明かさないということを探偵の倫理コードとしている。ダシール・ハメットと明らかに違うところである。
依頼者が警察に相談しないで、得体の知れない私立探偵(大体アメリカでも私立探偵は社会では胡散臭い存在である)に頼むのは理由がある。警察に知られたくない事情があるからである。そこを配慮しないで依頼者のプライバシーをペラペラ警察に話されては依頼者は困る。
同時に依頼者は私立探偵にも個人的事情(事件の背景と言いますか)を全部は明かしたくない。探偵は必要な情報を与えてくれないと調査できないと苦情を言う。ここで依頼者と探偵の間にもわだかまりが生じる。チャンドラーのマーロウものには両方の事情が過不足無く描かれている。
そこで警察の描写であるが、これもチャンドラーは描き分けている。前の記事で「湖中の女」ではマーロウは警官と親善関係にあり、ほかのマーロウものと違うと書いた。出てくる警官はのんびりした山中の保養地の駐在さんである。大都会ロサンゼルスから来たマーロウの調査方法を感嘆の思いで見ている。マーロウが警官と対立する余地はない。チャンドラーはリアリズムで書いている。
この対極にあるのが、犯罪渦巻く大都会の警察である。ここでは警官と私立探偵はもろに利害がぶつかる。私立探偵は権力がない。警察にはある。そこでマーロウは警官からぶっ叩かれ、縛られ、つばを吐きかけられ、コーヒーをぶっかけられる。(ロンググッドバイのロサンゼルス市警の警官を参照)。
また、地方都市であるが、街全体が汚職で腐敗している都市の警官はマーロウを殴って気絶させ、いかさま精神病院に担ぎ込み麻薬を注射し、ベッドに縛り付ける(「さらば愛しい人」のベイシティの警官参照)。
ま、このように都市、場所によって警官のキャラも様々でチャンドラーはこれを描き分けている。チャンドラーは警察のことも相当取材して書いているようだから、これはリアリズムだろう。
ちなみにロンググッドバイでも郊外の高級住宅団地を管轄する郡警察の警官はロサンゼルス市警と異なり紳士的に描いている。また、最近村上氏が訳した「プレイバック」は大都会を離れた金持ちの住むリゾート団地が舞台であるが、出てくる警官は鷹揚で紳士的に描かれている。
なお、彼がマーロウものにたどり着く前に書いた短編のなかの警官キャラには長編とことなるキャラも出てくる。警官が主人公の小説もある(「スペインの血」など)。マーロウ像を創造してから警官の描写も安定してきたのだろう。