よく発作を起こすんですか、と間の抜けた質問をした。
「いや、そういうことではないが、前にも一度ありましたよ」
「碁で興奮するんですかね」
「そうでしょうね。もつれてきてウンウン唸りながら集中してくると頭が熱くなってくるんじゃないかな」
「それが本人にもわかっていても、碁会所に来るんですかね。よほど碁が好きなんでしょうね」
そういえば、ドストエフスキーの伝記だったかで、発作が起こるときに鮮明な至福感を経験するとか書いてあったような記憶がある。まさか、それを味わうために来るのではなかろうが。
商人風の男は長考の末、いい手を思いついたらしい。エッとTが思ったほど意外なところに白石を置いて太い吐息を吐いた。一仕事終わったというように彼は伸びをすると「山室君、天津丼を注文してくれ」と受付の青年に呼びかけた。それからTのほうを向いて「あなたもなにか注文しますか」と聞いた。時計をみると夕食には時間が早すぎる。「いや私は」と断ると「コーヒーも注文できますよ」と言った。
そうだな、とTは思った。碁会所の中は空気が淀んでいる。執拗に絡んでくる白石に四苦八苦していたから頭も熱くなってきた。『コーヒーならいいな』とTは考えて碁会所の受付に頼めばいいんですか、と相手に聞いた。
「ええ、隣の喫茶店に注文を取りついでくれるんですよ。そら、壁にメニューが張ってあるでしょう」
目を上げると、なるほど中華料理屋と喫茶店のメニューが貼ってある。『当店の当日のレシートをお持ちのお客様には100円引き』と書いてある。「じゃあホットコーヒーを頼もうかな」というと相手は受付に向かって「それからホットコーヒー二つ」と叫んだ。
しばらくすると、先にコーヒーを制服姿のウェイトレスが運んできた。喫茶店と中華料理屋は碁会所とおなじ経営者かもしれない。やがて運ばれてきた天津丼をものすごい勢いで食べてしまった相手は急に元気が出てきたようで、一段と攻撃的になった。Tは途中で投了した。
この粘着質の相手はしつこくて一勝一敗ではすっきりしないらしくて「もう一局」と言った。その碁も彼のペースで勝たれた。
「いや参りました」と彼は頭を下げた。腕時計を覗くと「ちょっと用事がありますので」と断わった。受付では碁会所のコーヒー代300円を払った。振り返ると彼は新しい相手を探すように碁を打っている連中の勝負を覗き込んでいた。