穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

哲学用語「翻訳経緯」辞典の必要性2、措定

2018-12-28 19:38:54 | 妊娠五か月

 措定という言葉がやたらと出てくる。普段見かけない言葉だ。古代漢籍に出典があるのかどうか、寡聞にして知らない。もしあったらご教示を乞う。もっとも清朝時代の役人が朝鮮蛮族との取り決めでこの言葉を使った例があるようだが、「こういう風にとりあえず(仮に)決めておこう」といった意味だったらしい。

  ある和英辞典を見ると措定はsuppose あるいは assume とある。上述の意味に通じる。これは手元にある和英辞書にはないが措定は英語でpositと表現されることもある。Positはモノを置くという意味で「一応こう仮定してみよう」というように転用されたのだろう。Positはラテン語が語源でドイツ語でもpositという同義の言葉がある。Positionも同じ語源から来ている。

  ヘーゲルなどはsetzenという単語を使っている。これはゲルマン語源でやはりものを置くという意味である。誰が「置く、仮定する、想定する」のか。勿論著者である。たとえばヘーゲルである。

  上記の意味であるから英語に訳す時にはestablishとされる例もある。ようするに著者の主張であるのだからいちいち措定すると断るまでもないのである。翻訳では一切訳さないほうがいいような気がする。つまり「なになにと措定する」ではなくて簡単に「なになにである」とするほうがすっきりとする。

 あるいは、せいぜい「なになにと想定(仮定)する」とすべきだろう。読者が違うと思う場合もあるだろう。不審に思う場合もあるだろう。それでいいのである。いちいち「これは俺の想定だからね」と断りを入れなくても実害はない。それで、それが普遍的で瑕疵のない無謬の真理だと騙されるようなら哲学書を読む資格がないのである。