当ブログの読者はなぜ昔読んで感心しなかった本を再読する気になったかとのご疑念があるかもしれない。そんなことは気にもしないという無関心なかたが多いとは思うが、ここでその辺の「ご疑念」にお節介にもお答えしたい。
毎度尻切れトンボに終わっている拙作「小説のようなもの」をまたぞろ考えている。題は「新巌窟王」であります。
私(この小説内の記述者である)は競艇場である人物に興味をもった。彼は競艇場の常連であるらしく、あちこちで彼と遭遇するうちに話を交わすようになった。以下彼の聞き書きである。
彼は刑務所を出たばかりである。会社の金を盗んだという濡れ衣を着せらられ同僚の証言で服役した。その際、讒言した相手と争い重傷を負わせたというので背任と傷害致死の罪で長年服役していたのである。彼は勿論獄中で相手の復讐だけを考えて耐え忍んでいた。さて刑期が明けて出所すると獄中で練った復讐計画を実行に移そうとしたが、資金がない。そこで資金作りに競艇にのめり込んで、しかも成功してた(そんなことはありえないが小説なので)。
大金を得て計画を実施しようとしていた矢先に、長年の放漫経営で会社は倒産した。そしていまは社長や重役になっていた相手は自殺してしまった。相手がいなくなった彼は稼いだ金で遊び暮らそうと思ったが、何をしても面白くない。楽しまない、という筋だ。ここで作中の「わたし」が思い出したのがデカルトと言うわけである。彼の情念論では二分法と言うか、すべての情念は対になっている。たしか憎しみと楽しみは双子ではなかったか。憎しみの対象が突然亡くなると、双子の「快楽」を楽しむという「能力」も消滅してしまったのではないか。この捉え方が正しいかどうか、デカルトの二分法と合致するかは沙汰の限りではない。ま、そういう筋はどうかな、と思い何かの参考になるかと読み捨てた情念論を手に取ったのである。この理屈がこじつけられるかな、というのが思い付きでありました。どうも締まらない話になりました。
次回予告 霊魂は浮遊する