シュレディンガーの猫(以下S猫と略す)をどういうつもりで書いたのか、流布している文書では分からない。まさか、解説本に記載されているようなものだけがポンと出されたわけではあるまい。「残念ながらこんなようなものですよ」とかなんとかあるはずだ、付随する文章には。あるいはこのS猫についてはアインシュタインとの文書のやり取りがあるようだから、それも解説者がつけたして解説してくれれば多少S猫をSがどのように位置づけていたか多少はうかがえるかもしれない。
さて歴史的に観察対象のとらえ方については以下のようなものがある。
1:古代ギリシャ哲学ではこの種の自己と観察対象との神経症的な疑問はアリストテレスにもない。
2:デカルトは考える自分しか確かなものはない、としたが実在(外界)が無いとまではいわない。
3:バークリーになるとあるのは自分の意識と言うか表象しかない、と極論する。
4.カントはまあまあ、という。外界は実在するが人間の持っている撮影機能でしかとらえられないと至極もっともなことをいう。撮影機能の一つは因果関係である。決定論である。
5;それ以外にもいろいろなバージョンはある、折衷案もあるが、以下略
量子力学にいきなり飛ぶが、いわゆるボーアなどのコペンハーゲン解釈は上記のバークリー型とカント型の折衷案のようだ。その要点は外界は(つまり量子的ナノミクロの世界では)人間の認識カテゴリーである「因果関係」「決定論」ではとらえられない。あるいは実在は決定論的世界ではない。これもはっきりしないところだが。
ま、S猫はそういうことを言っている。しかし?悲劇的?なことに、Sはもともと性情的には決定論者だったので、「残念ながら」という自虐調であるらしい。