穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

白痴『譬ならでは語り給わず』

2011-07-01 20:14:28 | ドストエフスキー書評

ドスト白痴一気に190ページ、精読に値する。いや前回はどうしたのだろう。中村健之助氏の評が的をついていたのかな。ちょっとしたことで見方を変えるとぐっと迫ってくることがあるからね。

ただ、書評家の意見が参考になることは滅多にはないのだが。このブログでも芥川賞選考評の批評をしているくらいでプロの書評家という、別名ランターン・ベンダー諸君の書評が参考になることはないのだが、これは例外だ。

ドスト氏はムイシュキン公爵でキリストをイメージしたというが、威厳なきキリストと言うところもある。ムイシュキンが初めてエパンチン将軍家の夫人と娘三人に会う場面がある。そこで色々な話をさせられるように持って行くところがあるが、その話の一つ一つが新約聖書のキリストの説教の譬えのような趣がある。おそらく意識的にドストが行ったものだ。

表題の「譬えならでは云々」はマルコ伝4-34にあるものだが、この部分を読んでいてキリストの説教を思い出した。

こんな文句ではじまる挿入もある。「ここでしばらく筆を休めて、この物語のはじめにおいてエパンチン将軍一家がどんな事情と関係におかれていたかについて直截正確な説明を試みることは、この物語の鮮明な印象をそれほど傷つけるものではないであろう」

複雑な多数の登場人物の錯綜する超長編を読者に分かりやすくするために手探りをしている様子がうかがえる。