ドストエフスキーのアクメ(活動盛勢期)はつらつら考えるに、四十代前半であろうか。つまり、39歳の「死の家の記録」から「虐げられた人たち(辱められた人たち、のほうが適切)」、「地下室の手記」から45歳の「罪と罰」までの期間である。
思想劇めいた「白痴」、「未成年」、「悪霊」それに「カラマーゾフの兄弟」は小説としては下だろう。年齢相応に枯れてきている。加齢による「枯れ」は芭蕉ならいざ知らず、ドストエフスキーの場合は感心しない。思想が深化しているわけでもない。
ドストの場合、思想とかテーマと言うのは長編小説という大テントを支える支柱にすぎない。大事な支柱であるという言い方もあるが。
その思想はわりと陳腐である。彼の思想家的な面を強調するのが古今東西の「評論家」諸君の大勢ではあるが、それは間違いであろう。「作家の日記」の文明評論、時事評論からみても、ドストエフスキーの言っていることは平凡である。
罪と罰にも勿論長編小説と言うテントを支える支柱はある。主人公ラスコリニコフのナポレオン狂的なところや超人思想(ニーチェばりの??)である。しかし、これは物語を動かすきっかけみたいなもので鬼面人を驚かすが、小説家たるもの、この位の仕掛けは誰でも考える。
「超人思想」は悪霊のキリーロフや主役のスタブロ銀次にも受け継がれているが、彼の手持ち人形のキャラと考えるほうがいい。
加齢による枯れを自覚しながらこれらの長編を書き続けたドストエフスキー自身の心理を考えるのである。
つづく