穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

88:狂女注意

2020-04-28 15:54:24 | 破片

 大分日が長くなった。六時と言うとまだ明るい。JSは自宅に帰ると道路から自宅のただ住まいを一瞥した。怪しいところはないようだ。築八十年の木造二階建てである。玄関の郵便受けの下を確認する。悪質なDMを投げ込まれないように郵便受けはガムテープで封鎖してある。それにも関わらずDMを下に置いていくやつが時々いるのである。今日はなにもないようだ。ドアの上には警備保障会社のステッカーが貼ってある。その下には赤い大きな字で「狂女に注意」と書かれたステンレスのプレートがある。

 JSは家の横の木戸に回った。表にぶら下げてある南京錠を外すとソロリソロリと秒速十センチで木戸を引き開けた。レールからなかば外れかかった木戸は普通のつもりで引き開けるとばらばらになって倒壊してしまうのである。中に入ると木戸を用心して閉めレールからはずれていないことを確認すると内側から南京錠をかけた。

 じめじめした庭を回って勝手口に達すると警備保障会社の操作盤に暗証番号を打ち込んで警報装置を解除してから鍵を差し込み台所の戸を開けた。外出中に警備保障会社からの発報はなかったので無事だとは思うが長年の習慣で用心してそろりと中に身を入れた。電灯のスイッチを入れ、靴を脱いで板敷の台所に上がる。

 彼は一部屋ごとに電灯をつけて鋭い一瞥を室内に加える。窓の施錠を確認する。一階の各部屋を点検すると二階にあがり同様にすべての部屋を点検した。用心するにこしたことはない。父の建てた家は大正時代にモダンではやったアールデコとかいう様式だが、いたるところから侵入を誘うような構造上の欠陥がある。外部からテラスに上るのは子供でも出来るし、全部の部屋がガラス窓で雨戸などがある部屋は一つもない。現代の治安状況ではまったく無防備な家である。昼間は毎日外出していて無人となる家では、警備保障会社を使っていても不安なのである。

 彼は書斎に使っている二階の一部屋に入った。建築当時の日本家屋には珍しくその部屋だけは板敷なのである。いまではフローリングというらしい。そこには父が使っていた大きなデスクがある。重たい回転椅子がある。彼は椅子に腰を落ち着けるとプリンターに挟まれたままになっているプリントアウトを引き抜いて書きかけの原稿に目を通した。続きを書くために一応これまで書いたところを再読したのである。

 庭を隔てた隣の家は昔はどこかの実業家の家であったが、いまではある役所の新入職員研修生のための寮に使われている。書斎の向かいの部屋は女子用になっていて、当たりはばからず喚き散らし、嬌声をあげる新入女子職員の二人部屋らしい。夏などは下着姿で窓枠に腰かけて見られていることなど全然気にしない。

 部屋の壁には能で使う般若の面が掛かっている。オヤジの生きていた時からあるものである。子供のころは彼はこの部屋に入るのが怖くてしょうがなかった。行商人がしつこくベルをならして粘るときに、かれはやおら般若の面をつけると、中野のガラクタ屋で買った芝居用の白髪ぼうぼうのかつらをかぶり行商人に応対するのである。相当に無神経な奴でもびっくりして退散する。そこで彼らは玄関にある「狂女に注意」のステッカーを理解するのである。

 



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