今日の読売新聞に三島由紀夫と翻訳家ジョン・ベスター氏との対談テープが発見されたという記事がある。ここに書くので何度か記事を読み返してチェックしたがこのベスター氏がいかなる人物であるか記事(社会面、社会面というのも古いね。37面です)にはない。また対談テープがどこで発見されたかも書いていない。つまり記事としては体裁をなしていない。しかし、対談の要旨(此の記事を書いた記者の主観を反映した物だろうが)は出ている。
おっと待ってくださいよ。「本文記事一面」とあるな。それで一面を見ると、やはり出ていない。出版社がアレンジした対談とあるが、出版社名は記事にない。こんな無責任な記事があるのかな。それと翻訳者についての記述もない。ただ対談の時期に付いては1970年2月と考えられると書いてある。無責任な記事だね。あせってスクープにしたかったのだろう。
読んでいささか驚いたのはいつもこのブログで言っていることと類似しているのでびっくりしたことが二つほどある。このブログでは誰も言わないようなことを言っていると自負していたので、「おやおや三島もそうなのか」と思った。
さて37面の記事であるが、本ブログの年来の主張と一致する点が二つある。
1:「漢文の古典の教養が無くなってから日本人の文章は非常にだらしなくなった」云々。
いいことを言うじゃないか。しかし、三島の作品は大昔に読んでお呼びじゃないと思ったから記憶はぼけているが、その時の印象では三島が漢語を日本語と絶妙にミックスしているとは到底認められない。感心したなら明確な印象が残っているからね。むしろ辞書などから難しい漢語を拾って来て当てはめている印象だった。その使い方にもまったくセンスが感じられない。このテープで述べているという意見は三島本人の意見というよりかは誰かの意見の受け売りじゃないのかな。
あるいは誰かに言われた言葉ではないのか。
2:「人生や思想が文学の素材ではない。言葉がマテーリアルだ」
そのとおり。ただし彼の作品に当てはまるかどうかは、読後の記憶が薄れているので何とも言えない。