木田元さんは最近亡くなった哲学者だが、最近表題の本をあがなった。エルンスト・マッハは物理学者、心理学者、科学哲学者のハシリみたいな人で読んだことは無いが、気にはなっていた
なにしろ、論理実証主義やウィトゲンシュタインへとつながった人で、いままで読まなかったのは不勉強のそしりを免れない。もっとも、ウィーン学派ともウィトゲンシュタインともすんなり繋がる学説ではない。例えてみればマッハという鶏の卵から蛇が出て来たようなものである、その後の分析哲学や科学哲学は。
木田さんはハイデッガーの研究者らしい。だからマッハはまったく畑違いだが、それだけに瑞々しい感性でアタックしている。読者としても面白く読んだ。
同時代人のニーチェやレーニンなどのマルクス主義の主張や小説家、詩人との比較はあまり面白くない。ニーチェは木田さんの守備範囲の人だろうから間違ってはいないのだろうが、全然新しいところは感じなかった。ニーチェと共通点があったとしても、その重複部分の面積は小さい。「遠近法的展望」というニーチェの、ま、認識論というかそういうものと重なる所があるだけである。
そこで木田さんも引用参照しているマッハの「感覚の分析」をかったが、おそらく翻訳が酷いのだろう。読むに耐えない。訳者は共訳、須藤吾之助というひと、この人がどういう人かインターネットで検索したが出てこない。もう一人の訳者が広松渉というひとで、この人はマルクス主義の学者、実践家で東大教授だったという。木田さんはよく我慢して読んだね。
おそらく直訳の弊害だろうか、それ以外に文章にやたらと漢語が多い。それも非常にいかがわしい感じのする物だ。要するに衒ったものである。明治時代の中頃までは教養人には漢文の素養があり、やたらに漢語が出て来ても自然だし、品格がある。いかにも名文という感じに成る。共訳者の分担はわからないが、とにかくこの文章は酷い。マルクス主義者ならそれらしい現代文でかけばいいのにね。理解する前にまず眉をひそめてしまう。
これは原文か英訳で読むしかないのではないか。