穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

20:日蝕

2021-02-03 07:59:30 | 小説みたいなもの

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 会話が途切れたところを狙って河野は口を開いた。「新薬ですけどね、人間での治験はこれからですが、チンパンジーにも著効があることが分かりましてね」

えっと茶色い精力剤の小瓶に目を奪われていた彼は目を離すと驚いたように反問した。「犬や猫にも感染すると言われているが、そうですか、霊長類で人間に近いチンパンジーにも当然感染するのでしょうね」

「それもかなり重篤な症状を示していたのですが、動物園から問い合わせがあって開発中の新薬を送ったんですが、ケロリと治ってしまったんですよ」

「へえ、どこの動物園ですか」

「ニューヨークとデュッセルドルフの動物園です」

「それはワクチンですか」

「いえいえ、治療薬です。ワクチンは効果が判断できるまでには時間もかかりますし、症例も多数集めなければなりませんから」

「なるほど」。彼の興味は全く葵研究所の所在からチンパンジーに移ってしまった。

「まだ、報道されていないようですが」と断りながら河野は詳しい事情を説明した。

 その時に窓の外の日が陰ってきたが、数秒の内に真っ暗になってしまった。部屋の中にいた彼らは一様に不審げな表情で「今日は日蝕だったですかね」と河野が珍妙な声をあげた。

「そんなことは聞いていないな」

原口がツト立ち上がって窓のそばに行って空を見上げて驚いたような声をあげた。

2人も立ち上がって窓から上空を見上げた。巨大な物体が極めて低空を覆って緩やかに右から左へ移動している。これが太陽の光線を完全に遮っているのだ。はるかに西のほうを見ると地上は太陽の光を浴びて燦燦と輝いている。

「なんだ、これは」

「これは例の黒船じゃないか」とトップ屋の山本は叫んだ。やがて飛行物体は移動して太陽光線は徐々に力を取り戻してきた。原口が「テレビ、テレビ」と叫ぶと部屋のコーナーに設置してあるテレビのスイッチを入れた。画面では中年のひっつめ髪の女性アナウンサーが臨時ニュースを読み上げていた。

「ただいま入りましたニュースです。男体山上空中に停留中だった宇宙船が移動をはじめ現在首都上空を飛行中です。高度約三千メートル、時速五十キロメートルで南西方向に移動中です。付近を航行中の航空機はご注意ください。交通省では宇宙船から二十キロメートル以内に接近すると極めて危険であると警告しています」

その宇宙船は数日前から男体山上空に停留中であったが、移動を始めたらしい。

山本は急いでノートをボストンバッグにしまうと取材を切り上げた。彼は日本を不安のなかに陥れているこの飛行物体の取材もしているそうで、葵研究所の取材などは端境期の取材だったらしくて吹っ飛んでしまったらしい。これから内閣府に取材に行くというと、あわただしく帰っていった。

 河野は原口と顔を見合わせて「ヤレヤレ」と呟いた。研究開発部に戻ると室内はさっきの宇宙船騒ぎで騒然としていた。女子職員などは顔色が蒼白になっていた。なかには震えが止まらない職員もいた。

 

 



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