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間の宿と言うのは、主要な街道において、定められた宿場間の距離が
長い場合や、山越えや川越など地勢的に難儀を強いられる場所などに、
発達した休憩施設のことである。
当時の幕府は宿場以外での旅人の宿泊を禁じていたので、これらは宿と
いえども泊まることは禁じられていたが、特別な場合に限っては黙認さ
れていたようだ。
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東海道では、これまでにも戸塚と藤沢の間(7.8Km)の原宿や鉄砲宿、
大磯と小田原の間(15.6Km)の二宮宿、小田原と箱根の間(16.5Km)の
畑宿を見てきた。
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国内では水量豊富で有数な急流である富士川だが、当時の幕府はここ
に橋を架けることをしなかった。
江戸防備のための戦略で有ったことは窺い知れるが、そのため東岸の岩
本村と西岸の岩淵村に渡船業務を許していた。
結果川留めなどに備え両岸には間の宿が発達した。
東の本市場、西の岩淵がそれである。
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富士川の鉄橋を渡り終えると、一つの疑問が浮かんでくる。
川渡しで賑わった間の宿なら、その町並みは当然川岸に近い街道筋に広
がっている筈である。
ところが今日に伝えられている間の宿・岩淵は、川岸からは少し離れた
西に立ちふさがる標高500m余りの大丸山などの山裾と言うか、富士川
の河岸段丘と言うのかよく知らないが、そんな高台に開けている。
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これは暴れ川と言う富士川の度重なる氾濫で度々被害を受けたことや、
大地震や富士山の噴火の被害を受けたこともあって、宿ごと高台に移転
したのだそうだ。街道には秋葉神社の常夜灯も多く、村はずれにはエノ
キの大木の立つ一里塚(江戸から37番目)も残されている。(続)
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