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東海道44番目の宿場町、石薬師に入ってきた。
宿場内に真言宗の名刹・石薬師寺が有り、古くから門前町として開けた。
それがそのまま地名となった地である。
しかし宿は賑わいに欠け、伝馬制に定める人足や馬の数さえ揃えられず、
幕府は半減を認めていた。
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市中七町、宿内人口991人、家数241軒、本陣3軒、旅籠15軒の小さな
宿場町だ。宿としては賑わいの乏しい寂れたところで旅館以外商家は少
なく、人口の殆どは農業の従事者らしい。
文化年間の記録では、その7割以上が百姓であったらしいが、それでも
旅籠には、飯盛り女がいたという。
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これに比べると、東の四日市宿は伊勢への追分けとして賑わい、泊まり
客も多かったらしい。
鈴鹿越えを控えた西の関や坂下の宿では、峠の上り下りに際し身体を休め
る場として利用したらしい。
従ってその間の石薬師は、泊りの場所としてさほど需要が無かったようだ。
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幕府にとって東海道は最重要な公道でも、当時の庶民の楽しみはお伊
勢参りで、日永の追分けからお伊勢参詣道に入る旅人が殆どで、東海道
のこの宿場を人は通らない。
お参りを終えその後京を目指す旅が一般的であったが、参詣後も追分
けには戻らず、脇往還でショートカットし、そのまま伊勢別街道で関に
抜ける人が多かったという。
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宿内の中程にある一際大きな平屋建ての建物が、小沢本陣跡である。
今日の建物は明治に建て替えられたもので、当時は今よりも広い屋敷を
構えていた。赤穂藩主・浅野内匠頭や、伊勢山田奉行であった頃の大岡
越前守等は、「御休」として利用したと書かれた宿帳など、多数の資料
が残されていると言う。(続)
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