まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

食えない

2019-03-18 | 暮らし

TVの「自然百景」でオジロワシが執拗にカモメを追いかけ、遂に捕まえて食べ始めたのを観た。そこに、10羽ほどのカラスが、分け前にありつこうと寄って来てくちばしを出す。

カラスは図々しい。しかし、オジロワシはカモメを食べるのに、なぜカラスを食べないのだろう。カラスの方が多いではないか。いや、人間も鶏は食べるが、カラスは食べない。

先日、TVで公園の水道をひねって水を飲むカラスが紹介されていた。絞るとか、ひねるという行為は人間だけだと聞いたことがある。このカラスは水を飲んだり水浴びをしたりする為に蛇口の調整もするのだ。天才カラスのような頭のいい動物は食べたくない。そして、黒いのはまずそうだから食べたくない。

人間も、「食えないやつ」という例えがある。「煮ても焼いても食えない」と、いう。あいつは金魚だ。煮ても焼いても食えないというのは可愛いが、カラスは煮たり焼いたりしたくないではないか。食えないというのは、困ったさんをいうのだろう。

会社で課長が熱が入り過ぎて、反対意見に食ってかかったり、今はその話をしていないと横道にそれた話を一刀両断で切り捨てたり、人の悪口が出てきたりしたらおしまいだ。食えない会議となる。話がややこしくなることや、会議で脱線したりすることも会議なので、意見を戦わせることも大事だ。賛成意見だけなら会議をしなくていいわけだから、それは実のある会議となる。しかし、会議を制限時間内に終わらせなくてはならないのが一番難しい。報告だけなら会議はいらないのだし、意見を言い合えば時間が足らない。自分の主張をした後、取り下げた方の気持ちをきちんと汲んでいなかったことを後悔したりすることもある。

自分が食えないやつにならないように気を付けなくてはならないと思うが、それこそ、誰も食いたくなかろうし。鳥なら自分は何になるのだろうと思った。白鳥や鴨は長い旅をしなくてはならないし大変そうだ。雀くらいが丁度いいのだろうが、鳥になってまでもうるさいと言われるのも辛い。やはり、人間でいることは幸せである。


衝撃の告白

2019-03-18 | 暮らし

高校の同級生と食事会。Tちゃんの快気祝いという事で山代の割烹で待ち合わせた。同級生というものはいいものだ。当然ながら生きて来た年月にずれがない。そして、高校の時の同級生は小中学校と違って、半分大人みたいな感じだ。人生いろいろが始まる頃だ。でも子供みたいで危うい。

前菜を頂いた後、近況報告後、話はどんどん盛り上がり、もて期話になり、失恋話など、一体いつの話か・・笑える。半世紀前の誰にも話したことがないようなことまで。ノンアルコールで口を滑らせた衝撃の告白だ。すでに時効どころか、記憶も曖昧になっている。今では夢でも見たんじゃないのというくらい遥か遠い記憶。その後、修学旅行の話も継ぎ足し継ぎ足しの記憶を呼び戻して笑えた。

中学はそれぞれ違うが、市内の中学2年は東京へ修学旅行で行くというのは同じで、わたしたちの年代は大阪万博にすり替わったのだ。どこの中学校もあの太陽の塔に集結した。万博は画期的だったはずだが思い出せない。「月の石見た?」「見ない」「長蛇の列やん」

楽しい時間は急流の中を流れるみたいに過ぎていく。わたしたちは余韻を残して解散し再会を誓い合う。

後でしみじみと万博の事を思い出していた。やはり記憶は薄いが、行く前にやたらに英語の先生が、外国人と話すように会話を教えてくれたのを思い出した。

外国人に英語で「どこから来ましたか?」と、尋ねましょうと言われたが、唐突にそんなこと尋ねられる訳がないと思っていた。訊ねたとして、その後会話が続くはずがない。それなのに、真面目に「Nice to meet you」の会話を想定して、ドキドキしていた初心な中学生だった。今思えば、いきなり見ず知らずの人に、あなたに会えて良かったと言われたら怖い。知らない外国人に連れ去られたらどうするのだ。ひとことも話す機会が無くて良かったのである。