まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

啓蟄

2019-03-09 | 暮らし

蟻出でて  おもひおもひの道選ぶ  (福永耕二)

啓蟄にふさわしい句が載っていた。

蟻ですら、おもいおもいの道を選ぶのに、まだまだ迷っているわたしである。

遠的の稽古の合間に山を見ると、新幹線工事の為に、山が窮屈そうに見える。そのうち見えなくなってしまうのだろうか。

大日山と小大日山だろうか。加賀三山は、鞍掛山と富士写ケ岳と大日山と言われる。その山を全部登るなどとは、自分の一生の中に予定はなかった。定年後は殿と豪華クルーズだっ!と、冗談半分に言っていたがその予定はなくなった。しかし、生きていると不思議なことに出会うのものだと思う。

 


遠的の稽古

2019-03-09 | 弓道

あまりの天気の良さに、先輩に電話をして遠的をしようと誘った。

今度の遠的大会運営当番なので、これを機会に道場仲間と1年ぶりに引くので的付けをしようと言っていたので、この天気を逃したらもう日はないかもと思ったのだ。

室内弓道場と、遠的場があるというのは恵まれている。こんなに恵まれているのに、会員は減る一方だ。若者は忙しい。

鍵をもらって開けに行くと除雪機置き場になっていたので、おぉ!っと思ったが、3人くらいは立てるので支障はなかった。

的を準備するために引きずって持って行った。わたしの身体が殆ど隠れてしまう。線路沿いの遠的射場なので、電車から見ると的が歩いていると思われそうだ。的から頭だけしか出ない。

人が生きていくには、絶望的な状況でも楽観的に見ることが出来る者は逞しい。わたしはどうも逞しいらしい。

昔から遠的は苦手で、弓が弱いせいにしている。実力がなく、稽古不足の場合、自分に問題があることを棚にあげて、弓や矢のせいにしてしまう。おまけに、前に抜けるので「風かなあ・・」と、言うと「風なんか吹いとらんぞー」と、言われる。60m先の的が遠くに見える。ついには「的の場所、遠くないですか?」「大丈夫、この前測った・・」そうか・・やはり絶望的である。今度の遠的大会はお手伝いに徹することになりそうだ。

殿は、「こんな大きい的を外す者の気がしれん・・」と、笑っていたことがあった。何本か引くと、たいがい感覚に分かってくるのだろう。近的より楽しいのだそうだ。確かに開放感はあるのだが、中らないと開放感はなく、疲れだけが溜まる。腰切りの方が好きなのだが、最近は直付けの方が多い。押手拳は的の上にあるのだから空を狙っている感じだ。それでも届かない。やっと届いたころには、疲れてきて、またまたモグラ探し状態だ。結局、20本引いて2本しか中らなかった。放物線の勉強をしなくてはならない。思い通りにならないものだ。

先輩はほんの少し押手を上げて、ばんばん中てていた。


思い通りにいかない

2019-03-09 | 暮らし

母は90才に近くなって自分が一人で暮らしていることが心細くて弱音を吐くようになってきた。同じことを言うし、探し物が多くなり、しまい方が危なくなっている。通帳を病院の保険証入れの中に入れてあったりして、わたしが指摘するとしょげるので、こちらも相当気を遣い、いらいらを抑えることが多くなった。

父は寝たきりで、母が見舞いに来てくれることだけが心のよりどころのようだ。母の入院中、わたしが行っていたが、母の事を訊ねないので、意識がもうろうとしてきたのではないかと思っていた。昨日母とふたりで顔を出したら、母に対して「長いこと、どこへ行っとったんや?」と、訊いた。気付いていたのだが、言わなかったのか。父は自分の身体を思い通りに動かせない。その辛さを見ながらどうしようもできない。看護師に「ありがとう。世話かけて・・・」と、言っている父は、わたしにも「無理するな・・」と、言ってくれる。

子供が成長すると、だんだん親の意見を聞かなくなっていく。夫に対してもTVばかり観て、ぐーたらしていて掃除の邪魔になる時「ほんとにもう・・」と、言いながら、少しずつ我慢しあって、それなりに楽しかったのだと思う。

若い頃は、周りが思い通りに動かないと感じ、年を取ると自分の身体が思い通りにならないことに落ち込むのだろう。そんな時、寄り添って気持ちが分かる同士でいられたらいいのだろうなと思う。当然ながら長生きには寂しさというおまけがついてくるようだ。