インパール作戦は1944年(昭和19年)3月~7月まで行われた、
日本陸軍の軍事作戦である。
ミャンマー(当時ビルマ)・インド間の要衝にあり、
イギリス軍の主要拠点であるインパールを攻撃し、
中国への補給路を断つ目的で行われた。
コヒマ、ディマプル、インパールは赤丸印、
チンドウィン川は青の線、アラカン山脈は緑色の線。
ミャンマーとインドとの国境にあるチンドウィン川は幅600mの大河で、
牛に物資を積んで渡ろうとしたが大半は流されてしまった。
この牛は最終的には食料となるはずだった。
そして川を超えると今度は2000m超のアラカン山脈が立ちはだかる。
平地の牛は山を歩くには適しておらず、
ここでも役に立たなかったのである。
インパール作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため、
現在では史上最悪の作戦と呼ばれている。
簡単に言えばそうなるのだが、この作戦を調べていて、
この作戦単独で考えれば確かに大敗を喫したのであるが、
その背景にあるインド独立やイギリスに与えた、
日本と言う国や日本人のイメージまでを考えれば、
単なる敗北ではなく大きな価値(勝ち)があったのではないか?
と思えてくるのだ。
小さな山もろとも吹き飛ばせる弾薬や兵力を持つイギリス軍は、
空から弾薬も食料や物資の補給は可能だった。
日本軍は弾も食料も限りがあり、物資の補給もできず、
どう考えても玉砕するのは解り切っていた事である。
牟田口中将
この作戦を決行し愚将と言われている牟田口中将だが、
玉砕が解っていながら無謀な作戦を決行したのは何故だろうか?
牟田口中将の命令に背きディマプルに行かず、
コヒマから独断で撤退した佐藤中将はどうだったのか?
(弾薬も食料も補給されず引くしかなかったと言われている。)
佐藤中将
イギリス軍側の証言からも解るように、
4月6日にナガランド州のコヒマを占領した日本軍が、
その先のディマプルまで迅速(2日で)に進軍していれば、
勝利に終わった可能性が高い。目前で撤退してしまったため、
インパールでの敗戦が決定的になってしまった。
結果的に出撃した日本兵9万人のうち3万9千人が戦死、
4万人が飢えとマラリアや赤痢などの病気の為に、
命を落としてしまった。
調べれば調べるほどいろんな背景や状況、
当事者の声が聞こえてくる。
詳しく書いている方がいらっしゃるので、
関連記事としてリンクを貼っておきますので、
ご覧いただければと思います。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1479.html
この作戦は最初から失敗する要因がたくさんあった、
にも関わらず決行されてしまったのだ。
ボース
インドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースが
インド国民軍(INA)を率いて解放を目指し、
1944年ミャンマーに本拠地を移動し、
ミャンマー方面軍司令官の河辺正三中将と出会った。
河辺中将はボースのインド独立にかける意志に感銘を受け、
インパール作戦を強固に推し進めたとも言われている。
インパール作戦ではボースの要求でINA兵士9千人も参加し、
日本軍と一緒に戦っている。
当時INA兵士は4万人いたが、
わずか9千人のみを参加させた理由として、
戦争が終わりインドが独立した時の為に必要だからと、
参加させなかったと言われている。
ボースは1945年8月18日、
台湾から大連に向かう飛行機の離陸時の事故で死亡した。
東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺にボースの碑がある。
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日本陸軍の軍事作戦である。
ミャンマー(当時ビルマ)・インド間の要衝にあり、
イギリス軍の主要拠点であるインパールを攻撃し、
中国への補給路を断つ目的で行われた。
コヒマ、ディマプル、インパールは赤丸印、
チンドウィン川は青の線、アラカン山脈は緑色の線。
ミャンマーとインドとの国境にあるチンドウィン川は幅600mの大河で、
牛に物資を積んで渡ろうとしたが大半は流されてしまった。
この牛は最終的には食料となるはずだった。
そして川を超えると今度は2000m超のアラカン山脈が立ちはだかる。
平地の牛は山を歩くには適しておらず、
ここでも役に立たなかったのである。
インパール作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため、
現在では史上最悪の作戦と呼ばれている。
簡単に言えばそうなるのだが、この作戦を調べていて、
この作戦単独で考えれば確かに大敗を喫したのであるが、
その背景にあるインド独立やイギリスに与えた、
日本と言う国や日本人のイメージまでを考えれば、
単なる敗北ではなく大きな価値(勝ち)があったのではないか?
と思えてくるのだ。
小さな山もろとも吹き飛ばせる弾薬や兵力を持つイギリス軍は、
空から弾薬も食料や物資の補給は可能だった。
日本軍は弾も食料も限りがあり、物資の補給もできず、
どう考えても玉砕するのは解り切っていた事である。
牟田口中将
この作戦を決行し愚将と言われている牟田口中将だが、
玉砕が解っていながら無謀な作戦を決行したのは何故だろうか?
牟田口中将の命令に背きディマプルに行かず、
コヒマから独断で撤退した佐藤中将はどうだったのか?
(弾薬も食料も補給されず引くしかなかったと言われている。)
佐藤中将
イギリス軍側の証言からも解るように、
4月6日にナガランド州のコヒマを占領した日本軍が、
その先のディマプルまで迅速(2日で)に進軍していれば、
勝利に終わった可能性が高い。目前で撤退してしまったため、
インパールでの敗戦が決定的になってしまった。
結果的に出撃した日本兵9万人のうち3万9千人が戦死、
4万人が飢えとマラリアや赤痢などの病気の為に、
命を落としてしまった。
調べれば調べるほどいろんな背景や状況、
当事者の声が聞こえてくる。
詳しく書いている方がいらっしゃるので、
関連記事としてリンクを貼っておきますので、
ご覧いただければと思います。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1479.html
この作戦は最初から失敗する要因がたくさんあった、
にも関わらず決行されてしまったのだ。
ボース
インドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースが
インド国民軍(INA)を率いて解放を目指し、
1944年ミャンマーに本拠地を移動し、
ミャンマー方面軍司令官の河辺正三中将と出会った。
河辺中将はボースのインド独立にかける意志に感銘を受け、
インパール作戦を強固に推し進めたとも言われている。
インパール作戦ではボースの要求でINA兵士9千人も参加し、
日本軍と一緒に戦っている。
当時INA兵士は4万人いたが、
わずか9千人のみを参加させた理由として、
戦争が終わりインドが独立した時の為に必要だからと、
参加させなかったと言われている。
ボースは1945年8月18日、
台湾から大連に向かう飛行機の離陸時の事故で死亡した。
東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺にボースの碑がある。
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