たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

「清少納言のきつーい一言」・まんがゼミナール 「枕草子」 その31

2021年12月06日 17時47分46秒 | 読書記

足腰大丈夫な内に出来る限り、不要雑物処分・身辺片付け整理をしよう等と思い込んでからすでに久しいが、正直なかなか進んでいない。それでもここ2~3年には、押し入れや天袋、物置、書棚等に詰まっていた古い書籍類等をかなり大胆に処分してきた。ただ、中には「これ、面白そう・・」等と目が止まり、残してしまった書籍もまだまだ結構有る。その中に、漫画家赤塚不二夫著、元東京学芸大学附属高等学校教諭石井秀夫指導の古典入門まんがゼミナール「枕草子」(学研)が有る。多分、長男か次男かが、受験勉強中に使っていた「枕草子」の解説本・参考書の一つのようだが、錆びついた老脳でもなんとか読めそうな、まんがで描いたくだけた内容、その内いつか目を通してみよう等と仕舞い込んでいたものだ。ながびく新型コロナ禍、不要不急の外出自粛中、ふっと思い出して、やおら引っ張りだしてみた。当然のこと、本格的な「枕草子」解説本、参考書とは異なり、限られたサワリの部分に絞ったものであるが、学生時代に多かれ少なかれ齧っていたはずの日本の代表的な古典、清少納言の「枕草子」も、ほとんど覚えていないし、「古典」に疎く、苦手な人間でも、十分楽しめそうで、御の字の書である。


「清少納言のきつーい一言」・まんがゼミナール「枕草子」 その31

第7段 「思はむ子を」
平安時代では、貴族たちの子供の内の何人かは、小さい内から稚児として寺に預けられ、そこで修業をさせられることがよく有ったが、清少納言には、それは実に痛ましいものとして目に映っていたのだろう。温かい目で彼らを見ており、人間味が通っている随想段である。

かわいい子を坊さんにするいう話はやりきれまへん。
親としては、それなりの打算があってこそやろが、世間では、坊さんをつまらん木っ端のように思うてるようでおます。
法師の生活ゆうたら、食事はお魚や肉むきの、お粗末な精進料理。
眠る時間もやかましく限られる。
坊さんかて人間やから、若いのはなおさら好奇心もあるやろに。女子のおる所は、わざとソッポを向いて行かはる。ちょいと見たい気もあるやろに、不自然なことや・・・。
せやけど、仏法のいましめは、「女色」に厳しいということやし、世間もまたやかましいし。
「美しかオナゴはんや・・」「けしからん、坊主だ」
まして、物の怪払いの加持祈祷の坊さんは、特別の立場やから、これまた大変や。
効き目もなく、くたぶれて、ウトウトされはると、
「インチキ行者や・・」「修業が足らんのや・・」
せやけど、これは昔の話。今日は、気楽そうやねン。法事には、般若湯も刺身もよばれまス。
「ワッ!、ボンさんのデートや!」


原文だよーん

思はむ子を、法師になしたらむこそ心ぐるしけれ。ただ木の端(はし)などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。精進物(さうじもの)のいとあしきをうち食ひ、寝(い)ぬるをも、若きはものもゆかしからむ。(略)。それをも安からず言う。


(注釈)

かわいがっている子を、法師にしたような場合は、実に気の毒である。世人は、ただもう木の端などのように情を解さないものと思っているのは、実にかわいそうだ。肉食以外のひどく粗末な食事をして、寝るのをも、若い法師は好奇心もあることであろう。(略)。それをも穏やかでないように、世人は言うことだ。


カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)

2021年12月06日 11時03分12秒 | 爺さんの備忘録的花図鑑

我が家の猫額庭の玄関の横に、毎年、大胆に剪定しているにも拘らず、年々、図体が大きくなっているカシワバアジサイが有る。梅雨時から盛夏に掛けての長い期間、大きな房状の白い花を次々咲かせるカシワバアジサイだが、秋には、葉が見事に紅葉し、それも長い期間楽しませてくれるので、結局は、始末出来ないままになっている。
1年に2度、花と紅葉を楽しませてくれるアジサイ、
これまでも、やたら写真を撮ってきたが、改めて、外付けHDから、古い写真を引っ張り出して、ブログ・カテゴリー「爺さんの備忘録花図鑑」に、書き留め置くことにした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)

アジサイ科、アジサイ属、落葉低木、
   和名「柏葉紫陽花」は、葉の形が柏の葉に似ていることから
   付けられた名。
原産地 北アメリカ東南部
樹高 50cm~2m
花色 白色
   他の紫陽花とは異なり、大きな円錐状の房のような
   独自の形状の花を咲かせる。八重咲きと一重咲きが有る
開花時期 5月頃~7月頃
     長い期間咲き、花持ちも良い。
     晩秋、10月頃から師走にかけて、葉が紅葉する、
花言葉 「汚れなき心」「清純」「皆を引きつける魅力」
    「元気な女性」「優愛」「慈愛」


 

コメント (2)

続・「ドウダンツツジ」

2021年12月06日 09時28分57秒 | 暮らしの記録

今朝の朝日新聞朝刊の「天声人語」に、「ドウダンツツジ」に纏る話が載っていることに気が付いた。「ドウダンツツジ」については、先日、ブログに書き込んだばかりだが、プロの造詣深く、しみじみと心に染みる文章に感じ入りながら、興味深く読ませてもらった。ブログに書き留め置きたい気分になり、無断転載させていただくことにした。


2021年12月6日、「天声人語」

このごろまち歩きをしていてどきりとするのは、ドウダンツツジの生け垣である。真っ赤になった葉に、どこかこの世のものでないような趣がある。春に咲く白い花を星に例え、ドウダンは満天星と書く。いまは満天星紅葉(どうだんもみじ)となり、文字からしてきらびやかだ。▶日の光に照らされ、輝く紅葉を照葉(てりば)という。もちろん朝の光、昼の光のなかにある葉は美しい。しかし色づいた葉は夕方にこそ映えるものだと、いつの頃からか思うようになった。夕闇に輪郭が溶込んでいくような赤や黄に目を奪われる。▶カズオ・イシグロの小説「日の名残り」の終わりに夕暮れの場面が出てくる。主人公の執事が、桟橋のベンチで一緒になった男から話しかけられる。「夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい」(土屋政雄訳)。▶老年とおぼしき男は、夕刻になぞらえて、人生の時間について語っているのだろう。しかし同時に、日々の夕暮れも楽しんでいる。それは桟橋に集まってきた他の人たちも同じで、めいめいが夕闇の訪れを待っている。▶「山くれて紅葉の朱(あけ)をうばひけり」。蕪村の句の17音には、刻々と流れる時間がある。色彩が暗闇にのみ込まれるまでの間に、葉っぱたちがいっときの競演を見せてくれる。もしも窓の外に少しでも木々があるなら、その時間を待ってみてはいかがだろう。▶夕刻に自らの人生を重ねる年頃の人も、そんなときが来ることをまだ想像できないという人も