たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

天気晴朗なれど、今冬一番の冷え込み

2021年12月19日 17時08分58秒 | 畑日誌(見様見真似の野菜作り)

ブルッ、ブルッ、
関東西部山沿いの当地、今日は、一日中、晴天だったが、
最低気温 -3℃前後、最高気温 6℃前後、
今冬一番の冷え込みだったようだ。

もう、1週間も行ってないし・・・、
大根、白菜、小松菜・・そろそろ採ってこないと・・・、
ということで、
午後になってから、やおら重い腰を上げ、
Go To 畑! と相成った。

(1)大根4本、白菜3個、小松菜 収穫

丸々太って・・・、
ヨッ!、ダイコン役者
いつもだと、スが入ることが多いが
今年は、どういう分けか、まとも?

隣りの畑に、収穫にやってきたFさんの奥さんから、
「食べて・・」と、ホウレンソウをいただいてしまい・・

お返しに、白菜1個を、お裾分け・・・、

まるで 物々交換・・やね。

ウチのホウレンソウ、一度種蒔き発芽に失敗して
だいぶ遅く、再種蒔きした関係で
まだまだ収穫出来る状態でなく、
サンキュー! である。

Fさんはまた、今年、白菜を作っておらず
大喜びしてもらい・・。


「中学生日記より」その53(再)

2021年12月19日 07時32分07秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その53 「正月、花かるた、停電、みかん」

昭和31年(1956年)1月2日、月曜日、天気、雪、
起床 6時20分、就床 10時10分、

1、僕への年賀状は・・・・、
  田中徹雄様からだけだった。
2、母と弟が、町へ行って、花かるたを買って来た。
3、夜、さっそく、花かるたをやった、
4、雪が、5cmくらい(位)つもった(積もった)が、またなくなった(消えた)。
5、1つや全部の書きそめが、集まった、
6、9時半ごろ(頃)、電気がきえた(消えた)、
7、昼前も遊んで、、勉強はしなかった、
8、父は、2時ごろ(頃)帰ってきて、櫂夫の家へ行った。
9、しょうじとさとみが、オケヤに来て、佳子にみやげ(土産)をくれた(いただいた)、

1、中学生のM男は、毎年、父母も出しているような親戚や、校長、教頭、担任の先生等に年賀状を出していたと思う。2日に届いたM男宛の年賀状は、当時、神奈川県に在住していた叔父からの1通だけだったと書いて有る。
2、子供達が近所の家に遊びに行ったり来たりするのは当たり前だった時代だったが、「百人一首かるた取り」と同様、正月限定で、大人がやるような「花かるた遊び」も流行っていた気がする。もちろん 博打とは無縁、数分で終わる単純な絵合わせゲームのような感覚の遊びだったが、M男の家にはまだ「花かるた」は無かったようだ。その日、母親と弟が隣り町に出掛け、買ってきたと書いて有る。多分、家族でも遊べるものだったので、父母も賛同し、買ったのだと思う。
3、早速、夕食後、家族で遊んだようだ。堀り炬燵に集まって、アカタンだ、、アオタンだ、イノシカチョウだ、スベか・・・・、点数の数え方、どうだったけな?。マッチ棒でやり取りし。負けず嫌いの母親も、加わって。

アカタン(ネットから拝借イラスト)

4、前夜から未明にかけて、5cm程積った雪、解けて消えてしまったと書いて有る。どうも、その年の正月は、珍しく雪が少ない正月だったようだ。
5、毎年、冬休み(正月休み)の宿題の一つに「書き初め」が有ったが、休み明けに学校へ提出する他に、集落の子供のいる家へ、お互い配り合う習慣が有った。各家では、子供の書き初めが届くと、茶の間の梁に並べて貼り、年始で訪れる客人の品評、話題にしていたのだ。
6、9時半頃(多分、夜の9時半頃だと思われるが)停電したようだ。
当時の北陸の山村、特に冬季には、停電は日常茶飯事、ろうそく(蝋燭)の用意怠り無しだった。かるた取り等している最中等に停電ともなれば、それでお開き、寝るしかなくなる。
7、書き初めの他にも宿題出されていたはずだが、正月三ケ日は、勉強はしないで良い?というルールがあったのかも知れない。
8、2日は 毎年、父親が、勤務先や親戚への新年の挨拶回りの日だったが、のんびりしていた時代 訪れた各家で必ず招き入れられ、上がり込むため、数軒だけでも、1日仕事だったような気がする。午後2時頃、いったん帰ってきたが、また、父親自身の同級生の家に出掛けたようだ。
9、オケヤとは、父親の生家(本家)の屋号。当時は、村落の家を呼ぶ時は、名字ではなく、屋号で呼び合っていた。父親の兄弟姉妹は7人で、正月には、実家(本家)に集まることが習慣だったが、その正月も、叔父、叔母、従兄弟達が泊まり掛けでやってきたのだと思う。


蛇足

子供の頃の正月の情景を思い浮かべる時、様々な情景が炙り出てくるが、「炭火の掘り炬燵の上にみかん」の情景も、その一つになっている。当時、暮らしていた北陸の山村の集落には、当然、八百屋等食料品店等は無く、普段、野菜類を買って食べることはもちろん、みかんやリンゴ等の果物を、デザートやお茶受けに食する等という習慣がまるで無い生活環境だったが、正月は特別で、たいがいの家では奮発し、みかんを買っていたように思う。記憶曖昧だが、年末に農協が注文を取り、一括購入し、各家に配達していたのだと思うが、ダンボール箱等無かった時代、「木製のみかん箱」で届いた。当時のM男には、「みかんは、正月に食べる果物」というイメージさえ持っていたような気がする。

数年前に実家を解体する直前、
財物整理廃棄処分中に物置で見付けたみかん箱、
懐かしさの余り、写真を撮っていた。

1箱に何個詰められていたものか不明だが、ふんだんに食すること等出来るものではなく、上がり込んだ客人のお茶受けに、遊びに集まった近所の子供達のおやつに出されたものだ。百人一首や花かるたの勝者の賞品?にもなったような気がする。

 

 

 

 

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