たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

古い写真から蘇る旅の思い出・「大連・旅順」

2023年01月29日 15時17分13秒 | 旅行記

昨年12月、静岡県浜松市在住の義兄が亡くなり、コロナ禍の下、ここ3年程、一切遠出をして無かったものだが、本当に久し振りに電車旅をし、通夜葬儀に列席してきて、ブログにも書き込んでいた。その故人を偲ぶお斎(おとき)の席で、義兄夫婦と共に何度か旅行した思い出話が出た。その旅行の一つは、今から21年前2002年に、旅行会社の格安海外旅行ツアーで行った「大連・旅順」の旅だった。たまたま、その頃、次男が大連に短期駐在していたことと、親族が戦前大連に住んでいてその思い出話を物心ついた頃から聞かされていた義兄、一度は訪れてみたいと長年念願だったこともあり、話が合ってしまい、実現したものだった。
お互いに、長期休暇等取れない自営業をしていたことも有り、海外旅行等、夢のまた夢だったものだが、「いつ行くの?、今でしょ!」とばかり、決断、「大連・旅順」の旅が、生まれて初めての海外旅行となったのだった。
「ブログ内検索」してみたら、11年前の2011年12月10日、「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に、ブログ・カテゴリー「旅行記」に、すでに書き込んでいたことが分かったが、懐かしくなってしまい、コピペ・リメイクしてみることにした。
当時はまだ、バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、後年になって、アルバムに貼って有った紙焼き写真をスキャナーで取り込んだ写真が外付けHDに残っており、改めて引っ張り出してみた。記憶はどんどん曖昧になってきているが、写真や、当時の記録・メモ等を見ると、あの日、あの場所の情景までが蘇ってくるから不思議なことだと思う。


振り返り記事
2011年12月10日
古い写真から蘇る旅の思い出「大連・旅順」(再)

先日、何気なく点けたテレビで、NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲・第3部」が放送されていて、結局最後まで見てしまった。どうも、第1部放送から3年目になり、最終章だったようだ。日露戦争の旅順攻略を生々しく描いた部分、司馬遼太郎原作の作品をテレビドラマ化したものだが 確かに、「1年に1部」制作だけあって、見応えが有った気がする。日本海海戦編等、まだまだ続編が有るらしい。大国ロシアに真っ向うから立ち向かった日本、無謀とも思える作戦で、大変な犠牲を出し、国家存亡の危機だったとして、歴史に残る旅順攻略を、改めて知ることになった。当然 旅順、203高地、東鶏冠山、大連等の地名が、頻繁に飛び交う場面が多く、2002年9月13日~16日に、旅行会社のツアーで、大連・旅順を旅したことがあったため、思いを馳せてしまった。バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)で撮りプリントしアルバムに貼ってあった写真の何枚かをスキャナーで取り込んでみた。当時はまだ、日露戦争後、40年間日本の統治下に置かれ、満鉄が進めた街の趣や史跡が残っているとされていた大連、旅順だった。

(1)旅順 203高地、

歩いて登ることが難しい観光客目当ての商売?、駕籠屋?
しつっこく付き纏ってきた。が、無視!。

(朝日新聞の記事から拝借)

砲台

203高地から旅順港を望む、

(2)旅順 東鶏冠山                                                 

今尚、軍事施設とされ、公安があちこちで警備に当たっており、
添乗員・ガイドからは、撮影禁止区域等に カメラを向ける等して、
不審な行動と見られないように注意された。
当時、日本人等が、拘束される事件が頻発しており、緊張感が漂ってもいた。

 

(3)星海公園

 

(4)大連 勝利広場
   大連市街には、大きな広場が、あちこちに有る。

大連市街

(5)大連・旧ロシア人街

 

(6)大連・旧日本人街
   当時はまだ、戦前、日本人が暮らしていた住宅建物が、ほぼそのまま残っていた。

 

26

(7)大連・北大橋

17_3

(8)老虎灘公園

18

(9)大連・大連賓館(旧大和ホテル)
   中山広場に面した立派な建物、戦前、満鉄が経営していたホテルだったが健在。
   内部の一部は見学出来(有料)、カフェも有るということだったが、
   時間の都合で、玄関・フロント部だけを見学(無料)。

(ネットから拝借画像)

19_3

20

(10)大連・繁華街

23

(11)大連外国語学院

25_3


今更になってネットで調べてみると
「大連」は、もともと寒村に過ぎなかった地で、19世紀末に同地を租借した帝政ロシアが開発、都市計画を進め、地名を、「ダリニー(はるかに遠い地)」と名付けたのだそうだ。日露戦争後、日本が町づくりを引き継ぎ、「ダイレン(大連)」と改名したが、その中心となった担い手が、「南満州鉄道会社(略称・満鉄)」だったのだ。


「大連・旅順」の旅、最終日、何らかの理由で、帰国便が、当初の予定から変更になり、大連から青島経由、成田となった。急遽、中国の国内線・山東航空公司の小型機に搭乗した分けだが、何しろ、初めての海外旅行で飛行機慣れしていない人間には、ハラハラ、ドキドキ、緊張の連続だったことが思い出される。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
« 青空に映えるロウバイ | トップ | 平岩弓枝著「はやぶさ新八御... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
onecat01さん、こんばんは、 (takezii)
2023-01-29 21:54:48
人に歴史有り、
onecat01さんも、満州、大連に繋がっておられるんですね。多分、似たり寄ったりの、何らかの関わりの有る方、まだ大勢いらっしゃるのかも知れません。事実は小説より奇なり。
onecat01さんの「北帰行」「旅順」で、思い出して、リメイクしてみました。
コメントいただき有難うございます。
返信する
勉強になりました (onecat01)
2023-01-29 21:33:27
 たけじい殿

 大変勉強になりました。満州には両親が住み、私はハイラルで生まれました。結婚する前、母はヤマトホテルで働いていたと話を聞いていましたが、こんなホテルとは思ってもいませんでした。

 先日の「北帰行」の歌詞の間違いにも、気づきました。

 建大、一高、旅工・・旅高を旅順工業大学と言いましたが、旅順工科大学だったんですね。地図で見つけました。感謝いたします。
返信する

旅行記」カテゴリの最新記事