たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

晴天が続き・・・、

2023年01月07日 18時13分44秒 | 散歩・ウオーキング

当地、今日も、やや雲が多かったものの晴天、
図書館、最寄りのATMまで、出掛けたついでに、近くを歩いてきた。
スマホの歩数計で、約7,000歩。

バン?・・かな、

ダイサギとアオサギ

コガモ

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諸田玲子著 「氷葬」

2023年01月07日 14時41分56秒 | 読書記

図書館から借りていた、諸田玲子著「氷葬」(文藝春秋)を、読み終えた。本書は、江戸時代中期の起こった「明和事件」を織り込んだ長編時代小説である。


読んでも読んでも、そのそばから忘れてしまう老脳。
読んだことの有る本を、うっかりまた借りてくるような失態を繰り返さないためにも、
その都度、備忘録として、ブログ・カテゴリー「読書記」に 書き留め置くことにしている。


▢目次
 第1章 長月ーー黒濱村
 第2章 神無月ーー岩槻城下
 第3章 霜月ーー小幡

▢主な登場人物
 芙佐(主人公、岩槻藩藩士奥村賢太郎の妻女)
 奥村賢太郎、賢之助、芙美代、賢三郎、
 お初、藤助、与八・おかね、与兵衛、
 高木雄三郎(芙佐の兄)、登勢(芙佐の母)、芙佐の祖母
 大岡忠光(岩槻藩藩主)、佐野鉄次郎(領国目付)
 守谷虎之助、長坂十右衛門、作次、
 美矢、竜神一味、おくめ、
 吉田玄蕃、
 山県大弐、藤井右門、竹内式部、
 たか女(山県大弐の後妻)、長順、桂喜兵衛次、たえ

▢あらすじ
江戸時代中期、武蔵国岩槻藩(現在の埼玉県さいたま市岩槻区に存在していた、幕府の主要藩)の藩士奥村賢太郎の妻女芙佐が主人公の、緊迫感溢れる物語になっている。極く平凡だった下級武士の若妻芙佐が、謎だらけの事件に巻き込まれて、目まぐるしく展開する舞台で、気丈に闘っていく姿を描いている。
夫が江戸在府で留守中、岩槻城下から二里半余り北西の黒濱村で産後を過ごしていた芙佐の家に、突然、夫の知人を名乗る男守谷虎之助が訪ねてきた。乞われるまま一晩泊めるが、その夜、彼女はその男に陵辱を受ける。翌朝早く出立したはずのその男が傷を負って戻ってきたが、彼女は、激情にかられ、懐刀で男を殺害、女中のお初と共に、首尾よく沼に沈め、沼がに覆われるのを待つ。しかし、それは恐怖のはじまりで、悪夢の始まりだった。絶対絶命のピンチにも陥り、死を覚悟する場面も有り、美しくもショッキングで、手に汗握るサスペンス・スリラーでもある。上野国小幡藩の内紛と明和事件を絡ませ、公儀隠密、忍び一味も登場、舞台は、黒濱村、岩槻城下、小幡藩へと展開する。
巻末で、一連の事件が収まった後の江戸、岩槻藩大岡家下屋敷の長屋で暮らしている芙佐が、3人の子供を連れて出掛けた先で、ふと小幡藩主松平忠福の屋敷から出てきた侍の中に、長坂十右衛門の姿に気づき、目が合い、棒立ちとなる。
「母上。あの舟はどこにいくのですか」・・・、「見知らぬ国に行くのですよ」・・・、一点の陰りもない真昼の陽射しが、母子の上に燦々と降り注いでいた。(完)


(蛇足)
「小幡藩」と「明和事件」

「小幡藩」は、天正18年(1590年)に、徳川家康の娘婿奥平信昌が入封したのが始まりの藩だが、短期間に藩主が何度も入れ変わり、元和元年(1615年)に、織田信長の次男の小田信雄が藩主となって安定、織田家が7代続いた。織田信昌の代に、福島宿に有った陣屋を小幡(現在の群馬県甘楽郡小幡)に移し、名実共「小幡藩」となった。
「明和事件」とは、儒学者で兵学者山県大弐が、甲府城や江戸城をどのように攻めれば効果的か等いう講義を行ったことが幕府に露呈し、明和4年(1767年)に、山県大弐、藤井右門、竹内式部等、関係者が死罪、獄門、遠島等、処罰された事件。小幡藩の家老吉田玄蕃も山県大弐と親交が深かったことで処罰の対象となり、さらに小幡藩では、重用された玄蕃を妬む派との内紛があったこと等で、藩主織田信邦も連座、蟄居し、後継の信浮は、出羽国高畠藩に移封され、国主格も剥奪された。その後、小畑藩には、松平忠恒が入封し、松平家は、4代続いた。


 

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今日も、カワセミ

2023年01月06日 16時28分31秒 | 散歩・ウオーキング

当地、今日は、薄い雲が掛かった1日だったが、まずまずの晴天。
午後になってから、買い物のついでに、近くをちょこっと歩いて来た。
スマホの歩数計で、約5,800歩。

川辺りの石の上に、カワセミがいるのに気が付き、そっと、5~6mまで
近づいてみると、ゲットした魚を咥えているようで、
カメラを向ける。
毎度のこと、視力減退爺さん、肉眼では確認出来ず、
コンデジのオートフォーカス任せ・・・、カシャ!、カシャ!、
帰ってきて、確認してみると、
大物過ぎて、飲み込めず、四苦八苦していたようだ。

 

バシッ!、バシッ!、石に叩き付け・・・

 

ウーン、やっぱり、飲み込めない・・・、

どうしよう?、思案中・・・、

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氷の花、霜柱(シモバシラ)(再)

2023年01月06日 07時17分29秒 | 暮らしの記録

相互フォロワー登録しているある方のブログを拝見していて、「氷の花、霜柱(シモバシラ)」の写真を見掛けた。毎年、年末から年始の氷点下になる寒さの朝に見られるものだが、そう言えば、ここ数年見ておらず、懐かしくなり、せっかく作って有る自分の「ZUISO」をクリック、久し振りに眺めているところだ。
草木にも超疎い爺さん、「氷の花、霜柱(シモバシラ)」についても、数年前までは、その存在も知らず、知識情報も皆無だったものだが、ある時、友人に教わり、何度か、それを見るため、高尾山、城山へ出掛け、感動したものだった。その後、コロナ禍となり、気力体力減退も重なって、ここ数年、それも出来なくなっている。


ZUISO「冬の高尾山 氷の華 霜柱(シモバシラ)」
👇
こちら


シモバシラ(霜柱)

シソ科、多年草、
    別名 ユキヨセソウ(雪寄草)
原産地 日本、
    日本固有種で、関東以南、本州から九州にかけて分布している、
草丈 40cm~70cm
花色 白色
開花時期 9月頃~10月頃
     花後、地上部の茎は枯れてしまうが、根は活動し続け、冬の厳寒期、
     根から吸い上げた水分が、枯れた茎の裂け目から噴き出し、
     氷点下の外気で氷りながら伸びて、まるで花のように見える。
花言葉 「健気」


シモバシラ(霜柱)の花
(ネットから拝借)

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スノーフレーク

2023年01月05日 19時19分07秒 | 爺さんの備忘録的花図鑑

これまで、散歩・ウオーキングの途中や山歩き、畑地や我が家の猫額庭等で、やたら、コンデジで、カシャ、カシャ撮ってきた花の写真が、外付けHDに大量に溜まっており、時々、その気になって、不要、無用写真を大胆に削除しながら、散歩、旅行、山行・・・等のファイルに仕訳分類整理をしているところだが、懐かしい写真を見掛けると手が止まってしまったりもする。そんな古い花の写真の中から目に止まった花の写真を引っ張り出して、ブログ・カテゴリー「爺さんの備忘録的花図鑑」に、書き留め置くことにしている。草花に詳しい人からは、「なーんだ、そんな花も知らなかったの?」と笑われそうだが、爺さんにとっては、新情報、新知識、後日、また忘れてしまった時等に、確認したりするのに役に立つ存在になっている。


随分以前から毎年、早春に我が家の猫額庭で健気に咲いている花のひとつに「スノーフレーク」が有る。ただ、ブログを始める前あたりまでは、花にもさほど興味関心が無く、花名も知らず分からずで、「スノーフレーク」?、「スノードロップ」?、どっち?、・・・レベルだったものだが、最近やっと、同定出来るようになった気がしている。「花の写真を撮るだけ係」の爺さん、毎年、写真だけは撮っていて、改めて引っ張り出してみた。

11年前、2012年3月30日に撮っていた「スノーフレーク」

2013年3月18日に撮っていた「スノーフレーク」

2016年3月20日に撮っていた「スノーフレーク」

昨年の春、2022年3月27日に撮っていた「スノーフレーク」


スノーフレーク

ヒガンバナ科、スノーフレーク属、球根植物、
  別名「スズランスイセン(鈴蘭水仙)
  「スノーフレーク」とは、「雪片」という意味だが、花期は春、
  英語では、「サマー・スノーフレーク(Summer Snowflake)」と呼ばれている。
  和名「スズランスイセン(鈴蘭水仙)」は、花がスズラン、葉がスイセンに
  似ていることに由来している。
原産地 オーストリア、ハンガリー等中部ヨーロッパ
草丈 30cm~50cm、
花色 白色、
   同じヒガンバナ科の「スノードロップ」と混同されやすいが、
   「スノーフレーク」の花びらの先端には、緑色の斑点が有る。
開花期 3月頃~5月頃、
花言葉 「純粋」、「汚れなき心」、「皆をひきつける魅力」、


 

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天気晴朗なれど、冷たい1日

2023年01月05日 18時39分55秒 | 散歩・ウオーキング

当地、今日も、雲一つ見えない快晴だったが、
最低気温 ー2℃、最高気温 8℃、
やや風も強く、冷たい1日だった。
天気は晴朗、こんな日に、1日家籠もりでは、もったいない?
午後になってから、やおら重い腰を上げ、
近くをちょこっと歩いてきた。
スマホの歩数計で、約8,000歩。

陽の当たらない公園の池には薄氷が張り、
薄氷の上を、キセキレイが、チョコマカ

 

陽の当たらない池で、さかんにダイブを繰り返していたカワセミ、
暗くて、遠過ぎ、
手持ち、オートフォーカス、コンデジじゃ、ピンボケ

 

こちらは、陽の当たる川でチョコマカ忙しいキセキレイ

 

 

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2023年 泳ぎ初め

2023年01月04日 22時00分02秒 | スイミング

通っているスイミングクラブ
8日間の年末年始休館が有り、今日から再開、
19時~20時の成人クラスレッスンに出席し
先程帰ってきたところだ。
11日振りのスイム、2023年泳ぎ初めである。

今日は、1月第1水曜日、クロール中心のレッスンだったが、
今月から指導員が変わり、
小太りの青年K指導員が、担当になった。
M4グループ、今日の出席者は、女性8人、男性3人
2レーン使用、ガンガン泳がされ、
年末年始の鈍った老体には、きつかったが、
レッスン終了後、例によって、居残り
疲れを知らない女性陣(60代?~80代?のおば(あ)ちゃまばかり)
の後ろにくっついて、
クロール50m✕10本、4種目25m✕4本
なんとか泳ぎ切って引き上げてきた。


(多分、もう20年以上前に、スポーツ雑誌から切り抜いていた記事)

正しい水泳は、全身を無理なく動かす。
運動強度としてはジョギングと同じ、ラクだ。
つまり、
心肺機能を向上させる。
脂肪も燃える・・・・、
等に
 目が止まり、切り抜いていたのだと思う。

元々、腰痛対策で始めた水泳、
細く、長く ではあるが これまで続けてきた。 
実際、どの程度、効果が有ったのかは分からないが 
少なくとも、全く水泳をやっていなかった場合と比べれば 
身体にいい運動をしてきたのではないかと確信している。
果たしていつまで続けていけるやら、
先のことは分からないが 
「アケ・・・、オメ・・・、ヨロ・・・、」で
今年も、スタート。
無理せず、マイペース、
「年寄りの冷や水」等と言われぬ範囲で
続けていきたいものと思っているところだ。

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諸田玲子著 「仇花(あだばな)」

2023年01月04日 11時46分57秒 | 読書記

つい数年前までは、まるで読書の習慣等は無くて、図書館通いする暮らしになるなんて、全く想像もしていなかった爺さんです。数年前のある時、相互フォロワー登録しているある方から、「藤沢周平の時代小説」をすすめられたことが有って、その気になり手を伸ばした1冊が、「三屋清左衛門残日録」でしたが、それをきっかけにして、少-しずつ読書の習慣が身に付いてきたような気がしているんです。これも、やっぱり、ブログをやっていたからこそ起こった「自分の大きな変化」の一つだと思っていますが、何分、読書に不慣れ、読書初心者であり、視力、記憶力、減退、根気力無しの爺さんです。これまでのところは、主に、軽く読破し易い、肩が凝らない、「時代小説」を中心に読んできました。ただ、読んでも読んでも、そのそばから忘れてしまう老脳、読んだことの有る本を、うっかりまた図書館から借りてくるような失態を繰り返さないために、その都度、備忘録として、ブログ・カテゴリー「読書記」に、書き留め置くことにしているのです。


昨年末に図書館から借りていた、諸田玲子著「仇花(あだばな)」(光文社)を、読み終えた。本書は、恋も、財も、地位も、全て手に入れたい野望を胸に、持って生まれた美貌と激しい性格で、徳川家康の最後の側室となったお六を描いた長編時代小説である。副題「人生が二度あればーー」が付されており、もしも、お六以下登場人物が幕末に生きていたら・・・の物語と、二重構成にもなっている。

▢目次
 「幕末・江戸(一)」
  第1章(一)~(五)
 「幕末・江戸(二)」
  第2章(一)~(五)
  第3章(一)~(七)
  第4章(一)~(六)
 「幕末・江戸(三)」
  第5章(一)~(七)
 「幕末・江戸(四)」
 「付記」

▢主な登場人物
 お六、お紺、
 千之助(黒田信濃守直綱)、小夜、
 阿茶局、お奈津、お万、お亀、お勝(英勝院)、お仙、
 黒田五左衛門(お六の父親・黒田直陣)
 江戸與兵衛(お勝の実父、黒田五左衛門の仲間)
 庄司甚右衛門(傅十郎の養父)
 辻脇四郎三郎(千之助の養父)
 甚内→庄司甚右衛門に改名(親父(おやじ)、遊里吉原造営画策)
 傅十郎、
 徳川家康、徳川秀忠、本多上野介正純、植村出羽守家重、

▢解説
小田原の北条氏滅亡で、江戸で長屋暮らしをしていた元北条家家臣、黒田五左衛門の娘、お六は、愛くるしい笑顔で人を魅了する反面、あらゆる栄華を手に入れたい、我が手に天下を取りたいという図太さ、勝ち気な性格だった。そんなお六の美貌と強烈な性格を見抜いた甚内(後に改名、庄司甚右衛門)が、お六を江戸城に入れるよう画策援助、すでに家康の側室になっていた、江戸與兵衛の娘、お勝に仕えることが出来、さらに才覚と胆力で、14歳で家康最後の側室となり、家康を手玉にとろうとするが・・・。家康が死去し・・・。
本書は、江戸の長屋、江戸城、駿府城、大阪冬の陣、比丘尼(びくに)屋敷、鴻巣御所・・・、江戸時代初期に生きたお六と、もしも、お六が幕末に生きていたら・・・という、二重の物語になっている。


ああ神様仏様、禍々しい事件に首を突っ込まぬよう、千之助を一刻も早くわたしのところに返してくださいまし・・・。音もなく戸が開いた。・・・・。「おまえさま」。・・・・。「おまえさま、お腹が空いたでしょう。すぐに湯漬けをお持ちしますよ」。三百年前は海底だったという裏店の火桶の上の鉄瓶から、湯気が勢いよく上がっている。お六はいそいそと膳の支度をはじめた。(完)


「付記」には、下記のように記述されている。
家康晩年の側室、お六の最期については諸説がある。「幕府作風伝」には、「寛永二年三月二十八日、日光御宮に参詣、神前にて頓死す」とあり、「雑話燭談」には、「お六の方、大神君の御罰を蒙り死する事」として、日光東照宮に参詣した際、突然香炉が割れて、破片が飛んで額に当たり頓死したと書かれている。また、「震死」、つまり雷に撃たれて死んだとの説もある。
お六が晩年を過ごした地については、「柳営婦女伝系」に、「家康御他界後も塵俗を離れず、その容色を誇りて古河足利の室となり、喜連川に住む」とあり、「幕府作風伝」にも、「田安比丘尼屋敷に住い、また故あって喜連川に住む」とあるが、喜連川に伝わる資料にお六の記録はない。「武辺雑記」には古河御所で没したとある。
お六は、日光山内養儼院(ようげんいん)の墓所に葬られた。お六の菩提を弔うために、お勝が建立した寺だ。戒名は、養儼院鑑誉心光大姉。行年は二十九歳と記されている。

 



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穏やかな晴天の三が日

2023年01月03日 17時05分38秒 | 散歩・ウオーキング

当地、今日も、よく晴れて、
最高気温は、10℃前後だったようだが、
陽射しが強かった分、体感的には、温かくも感じた。

好天に誘われて、今日もまた、午後になって、ちょこっと近くを歩いてきた。
スマホの歩数計で、約5,300歩。

 

忙しないオオバン

 

カルガモのオス、メスの群れ、

こっちは、日向ぼっこ?、昼寝中?のカルガモ

カシャ!、カシャ!、
「せっかく、いい気持ちで眠ってたのにーー、」

コガモのオス、メス

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子供の頃の正月の記憶あれこれ

2023年01月03日 10時11分25秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

(当時の近所の風景)

昭和20年代から30年代前半、M男は、北陸の山村で小学生、中学生だった。
戦後10年近くが経ち、すでに、表日本(当時はそう呼ばれていた)では大都市部を中心に、目覚しい発展を遂げていたが、裏日本(当時はそう呼ばれていた)の、特に山間農村部では、まだまだ 貧しく粗末な暮らしが続いていたように思う。

11月下旬頃から日本海を渡ってくる冷たい季節風が、容赦なく日本列島の背骨にぶち当たり、大雪をもたらす北陸地方、冬季は、ほとんど快晴の日が続くこと等もなく、専ら、雪との格闘で、明け暮れたものだったが、その冬季の気候が、経済格差、生活格差をもたらしていた要因でもあったのだと思う。


◯雪に埋もれた暮らし
車社会以前の話である。暮していた集落は、交通の便が悪く、現在のような除雪車両も無く、根雪になってしまうと、雪の上をかんじきで踏み固めた1本の道を辿って登校、通勤するような地域だった。正月を迎えても、寺社に初詣はおろか、家族でどこかへ出掛けよう等ということは、皆無であり、M男達にとって、正月三ヶ日は、もっぱらおとなしく、家の中で過すものだと思っていたものだ。
それでも、子供たちにとっては、正月は特別、待ち遠しいものだった。年末には、家族総出で餅つきをし、まゆ玉の飾り付けをし、神棚に榊を上げ、すっかり正月の準備整えた大晦日、正月は、家族揃って掘り炬燵に入り、農協に注文し届けられた木の箱を開け、小さくてすっぱいミカンを喜んで食べ、カルタ取り等で遊んだ。ただ、雪深い地域故、「年末に大掃除・・、」は、無かったような気がしている。

数年前に実家を解体する直前、
財物整理廃棄処分中に物置で見付けたみかん箱、
懐かしさの余り、写真を撮っていた。

茶箪笥の上に鎮座?していた中古の真空管ラジオから、雑音混じりで聴こえてくる年末年始特別番組を、家族で耳を傾けていたものだ。 


◯「繭玉飾り(まゆ玉飾り)」
(子供の頃、意味も分からず「まいだま」と呼んでいたような気もするが)
当時のほとんどの農家の茶の間や座敷は、10畳、16畳・・・等と広く、年末に1.5m、2m・・もあろう木の枝を、天井、柱、梁等にくくりつけ、「繭玉飾り」を設え、正月気分を味わっていたが、「繭玉飾り」も、1月15日、小正月が過ぎると、とり外し、正月気分を一掃していたような気がする。年末の餅つきの際、長く伸ばした餅に、箸4本を埋め、梅の花の形にした「鏡花?」も枝に刺していたが、干からびて、囲炉裏や風呂釜の煙で煤け、ほとんど食べれなかったような気がする。

(ネットから拝借繭玉飾りの画像)


◯「神棚」と「榊」
年末、父親に指示され、積雪の裏山に分け入り、「神棚」に供える「榊」の小枝を切り取ってくる仕事は、中学生の頃、M男の役割になっていた。年末に積雪したりすると、榊が有る場所までラッセルし、スコップで掘り出して、枝ぶりや葉の艶が良いものを選んで鎌で切り取り、引き上げたような気がする。特別、信心深い父親ではなかったが、正月には、必ず神棚を清め、新しい「御札」を納め、「榊」「鏡餅」「お神酒」を供え、元日には、畏まって、神棚に向かい、柏手(かしわで)、拝礼していた姿が思い出される。寺社に「初詣」する習慣が無かったM男の家だったが、その情景で、正月を迎えたことを実感した気がする。そんな、「榊」も「鏡餅」も「お神酒」も、1月15日、小正月には、片付けられ、平生の暮らしに戻ったのだと思う。元日の朝、父親が、普段見せない真剣な顔つきで「神棚」に向かって、柏手を打ち、拝礼する姿を見て、身が引き締ったものだった。三ヶ日、父親は、親戚縁者に新年の挨拶回りに出掛けたりしたが、M男等子供には、三ヶ日だけは、近所の子供の家にも遊びに行くことを禁じられたような気がする。


◯「小倉百人一首カルタ取り」
父親が挨拶回りから帰ってくると、待ってましたとばかり始めたのは、家族全員でする「百人一首カルタ取り」だった。母親が好きだったことから、M男達子供もやるようになったのだろうと思うが、1対1の対戦ではなく、ランダムにばら撒いた「取り札」を、囲んだ数人で取り合う遊びである。


読み手は、必ず、父親だったが、百人一首独特の読み方は、父親にしか出来なかったからかも知れない。M男と弟が連合軍で、母親と競ったが、負けず嫌いの母親は、子供にまったく手加減せず、バシバシ取って得意顔していたような気がする。
当時、8畳の茶の間には「囲炉裏(いろり)」が有り、冬季間は、その「囲炉裏」は、「炭火の堀り炬燵」になっていたが、カルタ取り等やる時は、全員炬燵から出て、寒々しい畳の上でやることになっていた。
茶の間の隅には、大きな「薬缶(やかん)」をのせた、やはり、炭火の「火鉢」がひとつ置かれていたが、部屋全体が暖まるというものではなく、冷たく悴む手先に息を吹き掛けながら、皆、夢中になっていたものだ。
外は雪、閉ざされた正月、子供達の遊びといったら、百人一首 カルタ取り、坊主めくり、いろはカルタ取り、双六、家族合わせ、福笑い、トランプババ抜き・・位しか、無かったような気がする。
小倉百人一首が、江戸時代初期から、カルタとして正月等の遊びになった等、当時は知る由も無く ただただ、子供の遊びとしか思っていなかったが、毎年繰り返している内に 小学生、中学生のM男でも少しずつ覚えて、得意な歌がいくつか出来ていたように思う。

  「いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂いぬるかな」
  「淡路島 かよふ千鳥の鳴く聲に いく夜ねざめぬ すまの関守」
  「田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」
  「天津風 雲の通路ふきとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」
  「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
等々。


◯「書き初め」

       振り返り記事 2012年12月8日「書き初め」 ⇨ こちら


わずか60年~70年前の話であるが、遠い昔話となってしまった。

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