映画と本の『たんぽぽ館』

映画と本を味わう『たんぽぽ館』。新旧ジャンルを問わず。さて、今日は何をいただきましょうか? 

HERO

2007年09月09日 | 映画(は行)

さっそくみましたねえ。
みました!。
まず驚いたのは、テレビドラマから6年というのだけれど・・・
 とてもそんなにたっているような気がしないねえ。
去年テレビの特番をみたからでしょうか・・・?
6年間って、小学校の一年生が6年生になるだけの時間なんだけどね、自分のこと考えればちっとも変わってる気がしない。その間いったい何してたんでしょ・・・って、むなしい気がするよ。
まあまあ、それはさておき、どうでした?
そりゃもう、満足ですよー。たっぷり楽しませてもらったなあ。
テレビドラマの映画化って、登場人物だの、周りの状況だのが、すでに分かっているから、すぐにその世界にすっと入っていけるのはいいよね。
登場人物、相変わらずそれぞれの個性で飛ばしてましたねえ。
 キムタクの久利生さんは相変わらず通販オタクだし。
この6年間、久利生検事は地方周りをしていて、6年ぶりに東京へ戻ってきたという設定だよね。で、その間一度も雨宮さん(松たか子)に連絡がなかったと。
それは罪だよねえ。中途半端な気持ちでは、他の男も作れないじゃん。
そーいう問題?彼は彼で、彼女の連絡を待っていたということなんじゃないの。
お互い意地っ張りということか・・・。
今回久利生検事が扱う事件というのが、ある若者の傷害致死容疑。ところが、この若者が、ある大物代議士の贈収賄容疑のアリバイの証人にもなっていて、こちらの容疑が確定すれば同時に代議士のアリバイが崩れるという、かなり凝ったシチュエーションで、これはほんとに面白いと思ったなあ。
相手の敏腕弁護士が、松本幸四郎というのも、なかなかできた設定だよ。
これって、ストーリー上も、この弁護士と松たか子が親子という設定でも面白かったんじゃないかなあ。
検事の父親にあこがれて、松たか子は地検に勤めるようになったのに、なぜか父は弁護士になってしまって、理解できず、近頃疎遠になっていた・・・。
しかし、ここで、同じ裁判で敵対関係となってしまう。
松たか子をめぐって、さらに火花を散らす、キムタクと松本幸四郎・・・なんちゃって。
勝手に想像してなさい。
 それはそうと、韓国ロケでしたね。
そう、でも、イ・ビョンホンが出てきたのはほんとにちょっぴりだったよね。ファンの人は、だまされた気がしたんじゃないかな?
まあ、ほんの友情出演だもんね。
それからねえ、ちょっと前に映画館で見たこの予告編で、松たか子が刺されて血を流していて、キムタクが「雨宮~っ」と痛切に叫んでたシーンがあったような気がするんだけど・・・。
そ、それは韓国のあのシーンだよね。そこまでのことでは・・・気のせい。気のせい。気のせいにしておきましょ。
あの、大詰めの裁判のシーン、キムタクが淡々と、これはこういう事件です、と語るシーンはジーンときました。汚職事件は関係ない、結婚を控えた、幸せであるべき男性が突如その命を踏みにじられた、そういう事件。
ここまで、被害者の心に寄り添ってくれる検事なんて、実際にはありえないだろうけれど、でももしかしたらいるかも、いてほしい・・・そんな風になんとなく希望を抱いてしまうシーンだったなあ・・・。
ドラマ中、蒲生弁護士も言ってましたよ。次から次へと事件をこなさなければならず、機械になったようだったと。
現実はそのように超多忙で、一人ひとりの被害者や家族の心情まで察してなんかいられないんだろうね。
だから同僚の検事たちがあんな手間をかけてケータイの写真を探して歩くなんてことだってあるはずのないことだけれど、やはりこれはある意味、夢の物語なんだろうね。
かっこよくまとめたところで悪いんだけど、いくつか突っ込んでもいいかな?
ほら、はじまった。はいはい、なんですか?
まずね、あの犯人の若者、彼はビルの警備のバイトをしていたということなんだけどさ、あんな茶髪の、いや金髪のだね、ヤツを警備員に雇うなんて、あるわけないだろ、って思うんだけど。本人がビル荒らしとか、しそうじゃん。
これこれ、人を見かけで判断してはいけません・・・。
そうは言っても、実際人をわけもなく殴る蹴るして、逃走したやつなんだよ。
東京はよほど人手不足なんでしょう・・・。
東京だからこそ、どっか退職した人とか、失業中の人とか、もっとましな人はいくらでもいるでしょーが。
それから、彼がバイトを抜けて、その事件を起こしたのだったら、バイトはさぼっていたわけかなあ・・・。いくらなんでも、その間警備員がいないなんてことあっていいの?
そうじゃなくて替わりの人が入っていたという方が信憑性はあるよね。
だったら、その人にアリバイを頼めばよかったんだよ。そうじゃないと、どっちにしても、その人が証言すればアリバイはくずれたんだよ。
えーと、本当の深夜は無人なんだよ、あのビルは。いまどき、機械警備にきまってるでしょ。金髪青年は一応勤務を終えてから、ビルを出たわけだ。
だって、その時歯医者はまだ営業してたんじゃないの?それで、機械警備にしちゃだめでしょ。第一久利生検事ともあろうものが、あのビルに入っている会社の車を見て、どうして気づかないか不思議だったんだけど、その、問題の日の夜に、「男魂」の車を見たかどうか、聞けばよかったのに。代議士の多分豪華なベンツかなんかもね。
あれだけ目立つ車だから、「そういえば、ちょっと前から見かけないねえ・・・いつからっだったかなあ、ああ、あれは・・・」くらいの話は聞けたかも・・・?
あー、ちょっと待って、そもそも代議士が歯医者に行っていた、ということ自体がインチキなんだから、やっぱりその時は歯医者はもう営業してなかったということでは?
わーん。こんがらがって、わけがわからなくなってきたよ。
じゃ、汚職事件のアリバイ証言はまず歯医者がするべきなんじゃん!!
なんだか、私もわかんなくなってきたな・・・。
でも、もうひとつね。最期にやっと見つけた、ケータイ写真。
すごいわざとらしい回り道だよ。普通、アイツが写真を撮っていそうなことくらい、さっさと気がついてよ。
ふう・・・、もうかんべんして。
いえ、ちょっと言ってみたかっただけ。
なんだかんだ言っても、面白かったと思っているのでございます。好きなものほど、ちゃかしたくなるんですよ。すみません。

2007年/日本/130分
監督:鈴木雅之
出演:木村拓也、松たか子、松本幸四郎、阿部寛、森田一義


「ベルばらKids2」 池田理代子

2007年09月08日 | コミックス

「ベルばらKids2」 池田理代子 朝日新聞社

ベルばらについて語れば、ミーハーなのでキリがありません。
こんな話をすれば年が丸わかりですが、週刊マーガレットでオスカルとアンドレがフランス革命を迎えた頃、私は花の高校生。
青春真っ盛りでありました。
もっとも、その年でオスカルだアンドレだと騒いでいるようでは、実生活でボーイフレンドに不自由していないなんて状況にあるはずはありませんよね・・・。
学生時代には、宝塚のベルサイユのばらを見に、はるばる上京(東京公演だったんです)。あの時のオスカルは榛名由梨さんでしたねえ・・・。
(ふと、遠い目になっている・・・)
おっと、そんなわけで、ベルばらKidsを買わずに済むはずがありません。
妙に装丁が立派過ぎて高いですが、1巻に引き続き購入。

第一巻よりさらに、彼ら彼女らの行動範囲が広がりました。
ベルサイユはもちろん、ある時は原宿、またあるときは韓国は冬ソナのロケ地にまで出没。
オスカルとアンドレは仲良くお月見をしたり、浴衣姿で縁日を楽しんだり。
ルイ16世にいたっては、相撲にはまる日々。
モンゴルへ行って、朝青龍を慰めてほしいくらい。
完全に時空を超越。
自由で平和そうで、やっとオスカルとアンドレに訪れた幸せな日々。
よかったねえ・・・と、ほろりとさえしてしまう、ミーハーな私。
3頭身バンザイです。

さて、ところが、この本には文句があります。
1巻を見ても、強く感じましたが、このマンガページに挟まる解説ページははっきり言ってジャマです。
多分このような本を買うのは私のような元ミーハーだと思うので、いまさらベルばらの解説なんて必要ありません。
開くたび、いらいらさせられます。
3頭身に徹すればいい。
これは朝日新聞の土曜版に連載されているものだそうですが、この、解説部分もあわせて連載されているのかな?
・・・う~ん、それにしてもやはり、これはページの水増しとしか思えない。
しかも倍の水増しですよ。
たとえ次の巻が出るまでの期間が倍になっても、こんな詐欺みたいなやり方はやめてほしい・・・。

ということで
満足度★★
池田理代子さんゴメンナサイ!


シャーロットのおくりもの

2007年09月07日 | 映画(さ行)

(DVD)
ベストセラーの児童小説の映画化ということで、まあ、単純に楽しめる心温まる作品。
やはり、これはお子様と一緒にどうぞ・・・というものではあります。
子ブタのウィルバーがファーンという女の子に育てられるののですが、「春に生まれた子ブタは、雪を見ることができない」といわれている。
つまり、たいていはクリスマスの食卓に上る運命。
同じ農場の動物たち、羊や、牛、馬、ガチョウ、そしてファーンはそのことに胸を痛め、何とかウィルバーを救いたいと思う。
そこで、一匹のクモ、シャーロットが考え実行したアイデアは・・・・。
動物たちからさえも気味悪いと嫌われていたシャーロットなのですが、ウィルバーだけは、親しく話しかけ友達になろうと言ってくれたのです。
そのため、彼女はウィルバーのために必死で何かできることをしようとする。
命・友愛をテーマとするストーリーですね。

さて、とはいえ、やっぱり、クモのどアップの映像はカンベンね
・・・と思う、クモが苦手の私です。
足があんなに多くては、CGも、さぞ面倒だったことでしょう・・・。
動物たちの演技が見事でした。
子ブタって、ほんと、かわいい。
どーして?と悩んでしまうくらい、見事に、笑ってる顔、悲しんでいる顔、そのようにみえるのですよね。
うまくその表情をとらえたスタッフの手間・苦労はいかほどかと思います。

それから、実は見終えてから調べてみれば、シャーロットの声がジュリア・ロバーツ、馬のアイクの声がなんとロバート・レッドフォード、他の動物たちも有名俳優の勢ぞろいということで、先に、知っておくべきでした・・・。
知っていたから、どうということもないのですが。

まさにダコタ・ファニングに、もってこいの役という感じでしたが、さて、これが彼女の最期を飾る作なんてことにはならないですよね・・・。
この映画の後、あまり見かけないような気が・・・。
「宇宙戦争」では、彼女を引き立てるような役ではなかったですし。
(あの時はただキャーキャーわめくうるさいガキンチョという、しようもない役だった・・・。)

2006年/アメリカ/97分
監督:ゲイリー・ウィニック
出演:ダコタ・ファニング、ブタさん、羊さんたち、牛さんたち、馬さん、ガチョウさんたち、ネズミさん、クモさん


キング 罪の王

2007年09月06日 | 映画(か行)

(DVD)
映画で見損ねていました。
最近話題のガエル・ガルシア・ベルナル。
ぜひ、みてみたかったのですよね。
ところがこれは問題作ですね。そうお気軽なものではなかった。
罪の王。
それは、ガエル・ガルシア・ベルナル演じるエルビス自身のことでした。

海軍を退役した彼は、まだ見ぬ父に会うためにテキサスの小さな町にやってきます。
父は、裕福な牧師として、妻・息子・娘に囲まれ幸せに暮らしていた。
そこでは切り捨てた過去の女性関係、見捨てた息子などのことを蒸し返すことは、迷惑以外の何者でもない。
拒絶されたエルビスはその時点で、罪の王となる覚悟を固めたのでしょうか・・・・。

なにしろ、常に冷静、計算づくに見えます。
この感じ、なんだか「太陽がいっぱい」のアランドロンに似てるなあ・・・、そういえば彼の端正な顔の雰囲気も・・・。
と思ったら、ちゃんと、チラシの中にも書いてありましたね。
「・・・今回は、名作 『太陽がいっぱい』のアランドロンに匹敵する危険なセックスアピールを発し、この難役を圧巻の演技で魅せる」
・・・と。
危険なセックスアピールですか。
うまいことをいいますねえ。
まさしく、でした。

まずは、父の娘、つまり自分の妹である16歳のマレリーに接近し、その危険なセックスアピールとやらで、彼女をとりこにしてしまいます。
次にはこの二人の関係に気づき、部屋をたずねてきた兄をあっさりと殺してしまいます。
その死体処理も冷静そのもの。
ここで、驚くべきはその父の態度。
行方不明となった息子を初めは必死で探していたのですが、あるとき、もう一人の、「息子」がいることを思い出して、家に呼ぶのです。
あっけなくも身代わりを見出して、それで満足してしまう。
牧師でありながら、計算づく。
冷徹なその態度には彼の人間性が透けて見えます。
とうとうある日父は、牧師として、礼拝に来た人たちに真実を語ります。
過去の罪でできた息子だが、受け入れることにした・・・と。
人によってはこれはたいそうな「美談」に聞こえたことでしょう。
ただし、マレリーはここで始めて、自分が関係を持ってしまった男が実の兄であることを知り、愕然とするのです。
その後の展開は一気。
もう、これ以上自分のたくらみを隠せおおせないと悟ったエルビスは、妹と父の妻を殺害し、家に火を放ちます。

罪を数えたらいくつになるのでしょう・・・。
すべてが嘘で、実の妹を犯し、殺人、死体遺棄、放火・・・・
「罪の王」の座に着きながら、自分を捨てた父を追い詰めていく。
「幸福に潜む闇を突く現代の寓話。」
・・・これもチラシにある、この表現で、締めくくることとしましょう。

ガエル・ガルシア・ベルナル。いいですね~。
また、ごひいきが一人増えてしまいました。

2005年/アメリカ/105分
監督:ジェームズ・マーシュ
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、ウィリアム・ハート、ローラ・ハーリング、ベル・ジェームズ


「溺れる人魚」 島田荘司

2007年09月04日 | 本(ミステリ)

「溺れる人魚」 島田荘司 原書房

これは、ミタライシリーズといっていいのでしょうか。
直接彼が出てこないものもありますが彼を取り巻く人物たちがつづる物語でもあります。
この本は、ミステリ短編集というよりは・・・そうですね、いわば博物学の本といったほうがいいかも知れません。
島田氏の作品にはよくありますが、薀蓄というよりは、むしろ一つの講義ですね。
この世界のあらゆることに焦点を向けて、語られるその講義を、私は嫌いではありません。

この本で語られるのは・・・
ポルトガルにかつていた、アディーノ・シルバという天才スウィマーのこと。
 PSAS(持続性性喚起症候群)という病のこと。
 ロボトミー手術のこと。

ベルリンの地下空間のこと
 ナチの医学実験のこと
 生物の発生に関すること

モンゴルの西方遠征のこと
 タタール人差別のこと

横浜の街のこと・・・・・

世界を形作るもろもろの知識。
どの話も、学校では教えてくれないことばかり。
けれど、どれも大変興味深いです。

特に、チンギス・ハーン率いるモンゴル帝国がヨーロッパへ進出し、支配した時期があった、というのは確かに世界史の教科書で学んだことではありますが、このようにしっかり語られてみれば、すごいことだと改めて思ってしまいます。
教科書で語られるのはほんの1・2行。
同じアジアの国がこのようなことを成し遂げたというのに、私たちはあまりにも無知のように思います。
たとえばヨーロッパやイスラムが他国を侵略する時には、まずその土地の宗教をねこぞぎ、自分たちの宗教にすり変えた。
敵の兵は皆殺し。
ところがモンゴルは、その土地の宗教・習慣には寛大でおかまいなし。
投降するものは受け入れて、自国の兵として取り入れていく。
税を徴収することだけを目的としたという。
モンゴルはたちまち道路網を整備し、領土を広げていく。
今、ロシアがあのように広大な地を領土としているのは、モンゴルの広大な支配地を受け継ぐ形になったから・・・。
モンゴルが勢いをなくし、収縮していく時にその地に残ったモンゴルの末裔が、今、東ヨーロッパでタタール人と呼ばれている人たちらしい。
なんだか、はっとさせられることばかりです。
馬を駆ることに長けた彼ら。
とうとう日本を手中にできなかったのは、彼らにとってあまり得意でない「海」がそこにあったからに違いありません。
この、偉大なるモンゴル帝国の末裔の朝青龍には、だからもう少し威厳を持って横綱として実戦復帰してほしい・・・と、おっと、これは余計なことでした・・・。

・・・ということで、なかなか楽しめた一冊でした。

満足度 ★★★★


ファウンテン 永遠につづく愛

2007年09月02日 | 映画(は行)

大変に映像の美しい作品でした・・・。
時空を超えた、永遠の愛???
まあ、そのようなウリなのですが・・・。

病で余命わずかな妻イジーと、必死でその治療法を探る医師の夫トミー。
はじめから最期まで、それだけのストーリーなんですけどね・・・。

ここでは同じ登場人物で3つの異なった世界が描かれています。

一つは、ありのままの、医師トミーと、妻イジーの世界。イジーは実は自分の命が残り少ないことを受け入れ、後は夫とともに静かにすごしたいと思っている。ところが、トミーはそのことをどうしても受け入れることができない。
共に行き続けること。それが絶対的命題と信じている。
それゆえの悪戦苦闘。

もう一つの世界は、イジーが最期に書き綴っていた物語の世界。
中世スペインの騎士が愛する女王のために、マヤの地に遠征し、永遠の命を授けるというファウンテン(生命の泉)を探すのです。
そこには生命の木が生えていて、不老長寿をかなえるという・・・。
この騎士がトミー自身。
この物語は未完に終わっていて、妻イジーは残りをトミーに託すのです。

そして、さらにもう一つの世界は、超未来という設定のようなのですが、これはつまりトミーの観念の世界。
生命を終えようとしている星に浮かんだ球形の空間で、今ほとんど枯れつつある「生命の木」で今なお、妻の命を救うための方法を永劫の時を経て、研究し続けている・・・そんなイメージでしょうか。
ここのシーンは多分に「禅」を意識していると思います。

この三つの世界が入れ替わりに出て来るというしかけです。
普通のラブストーリーを期待しているとちょっと面食らいます。
製作者の意気込みは分かりますが、あまり感動は伝わらないかなあ・・・。

結局、最期にトミーが書き綴った残りのストーリーでは、やはり、この肉体での永遠の命はあり得ないのだと、そういうことなのでしょうね・・・。
でも、ここをもう少し、穏やかに納得できる形で描いてほしかった気がするのですが・・・。

2006年/アメリカ/97分
監督:ダーレン・アロノフスキー
出演:ヒュー・ジャックマン、レイチェル・ワイズ、エレン・バースティン

「ファウンテン 永遠につづく愛」公式サイト

 


「新・夢十夜」 芦原すなお

2007年09月01日 | 本(その他)

「新・夢十夜」 芦原すなお 創元推理文庫

夢と現が交差する、不思議な十の物語・・・、ということで。
芦原すなおといえば、「ミミズクとオリーブ」のシリーズは読んでいまして、どちらかといえばユーモラスな語り口のミステリのイメージがあります。
ところがこの本は、ノワールのにおいがする・・・、ちょっと怖い短編集。
「夢」といってもいろいろありますね。
なんとなく、ふわふわと楽しいような、そんなイメージもありますが、ここではむしろ悪夢。
どこまでが夢なのか、現実なのか、わからなくなってくる。
夢からさめてもそこはまた夢。
夢の迷宮に閉じ込められ、永久にさまよわなければならないような、そんな不安がわいてくるのです。

この本の解説の亜門虹彦氏はフロイト風にこれらの夢のストーリー分析していますが、怖いくらいに作者の無意識を読んでいます。

「いわば、『リアルな自分の精神世界』を描いたのが、本書といえる。
夢の世界を描いた,最も幻想的な作品が、実は作者にとって切実であり、リアルであるというのは、まさに小説のパラドクスではある・・・。」
とのこと。
まったく自分の空想によるストーリーはつまり、もろに、自分の内心をさらけ出すことになるということなんですね。
なかなか厳しい。
でもまあ、そこまでの分析をしなくとも、夢の不思議なストーリーを楽しむだけでも十分だと思います。

夢のはなしでよく引き合いに出されるのは「胡蝶の夢」という荘子の漢詩ですね。
今いる自分が蝶を夢見ているのか、それとも、蝶が人間になった夢を見ているのだろうか・・・というもの。
この本ではこのように、夢を見ている「自分」とはいったい誰なのか・・・それすらも、次第に歪んでいくのです。

また、夢というのは、一つ一つのディティールは正しいのに、全体としての脈絡、時間軸、空間軸の統制が取れていない。
・・・先日美術館で「ダリ展」を見たのですが、そのダリの絵のような感じですね、夢の世界って。

この本の最終話「ぎんなん」ではとうとう、死者の夢まで出てきます。
登場人物は実はかつて生きていた自分が生前に見た夢の中の自分。
死者の夢であるから、永遠に覚めることはなく、永遠に夢の迷宮をさまよわなければならないのか・・・。

大変、興味深い一冊でありました。

満足度 ★★★★