ずっと昔、人生の上がりは還暦だった、多分。ご苦労様、お疲れ様でした、赤いちゃんちゃんこなんか着せられて、奉られて、親戚一同集まって、さっ、もういつ死んだっていいからね。冗談じゃない、今時、還暦を上がりと喜ぶ人なんてないだろう、ちゃんちゃんこだってお義理で付き合ってるだけさ。僕はもちん着るはおろか、そんな祝い事自体断固はねのけたけど。だってそうだろう、再任用、再雇用、まだまだ仕事が続く、て言うか、働かなくちゃ食っていけないだから。60代前半?まだまだフル稼働中だ。
となると、人生の上がりは、65歳前後の退職時ってことになるのか?人によっちゃぁそうかもしれない。仕事から離れて一気に呆けた、意欲を失ったって話しも聞こえなくはないから。でも、自分が実際その年齢に達してみて、とてもじゃないが、上がりなんてまだまだ先の話しだって感じている。えっ、そりゃおまえの妄想だろ?って、ち、ち、違うとも、なっ、菜の花座団員諸君、だよな?所々虫食いはあるが脳の方も生き生きフル?回転、体だって、まっ、ちょっとはがた来てるけど、鍛え方しだいでまだまだ十分使用可能だ。
となると、いつなんだ?人生の上がりって。そりゃ死んだ時でしょ?いやいや、それは終わりであって上がりじゃない。ゲームそのもが消滅するってことで、ゲームオーバーとは違う。なーんもなくなっちゃうわけだから。上がりてのはね、みんなで楽しんでいた、あるいは苦しんでいた人生ゲームから足を洗って、高みの見物を決め込む、これでしょ。要するにゲームの構成員ではなくなるってことだ。
上がりの仕方は人それぞれだよな。僕の場合なら、劇団から手を引く時のような気もするし、マラソン大会を諦める時かもしれない。黒柳徹子なら徹子の部屋が終了する時か?没頭した趣味から遠のく時、ボランティア活動から身を引く時、いろいろだろうが、要するに、自分で結んだ社会との繋がりを断つ時、これが人生の上がりなんだろうな。だから、気力充実、意欲満点の年寄りなんかだと、死んでようやく上がりって場合だってないわけじゃない。それが若い連中から見てはた迷惑かどうか、それはここでの問題じゃない。
当人の気持ちしだいなんだ、人生の上がりって、そういう側面もあるにはあるけど、当人の意向とはお構いなしに、突きつけられる上がりってもんも厳然として、ある。それは、免許証の返納だ。あんたもう車運転無理だから!ってぺたっとレッテル貼られる瞬間だ。都会の人間にはわからないだろうな。車で動くって習慣ないだろうし、免許なんて持ってたとしてもペーパードライバーだろうし。交通機関網の目だから、免許取り上げられたからって困るってことはないだろう。
でも、田舎じゃ、これはもう絶対的だ!いや、絶望的だ!車取られたら、どこにも出掛けられない。趣味の集まりどころか、買い物だって不可能だ。バス停まで歩いて1時間、しかも運行は日に数本。タクシー?1回使えば数千円、そんなもん、年金暮らしで贅沢な!免許証を返納したとたん、社会とのつながりが断絶し、暮らしが押しつぶされる。これ、深刻だろう。付き合いとしては、隣り近所でのお茶飲みだけ!宅配の弁当食べながら、テレビ見る暮らし、どう見たって、これ上がりだ。しかも、強いられた、上がりだ。
だから、年寄りは免許証返納に抵抗する。目も霞んできてる、反応も鈍くなってきてる、そんなこたぁわかってんだよ。でも、だからって、足なくしちまったらどう生きるって言うんだよ。上がりの人生をまったり生きるだけなら、自宅から半径2kmで生きられる。でも、そんな狭いテリトリーで飼い殺されるなんてまっぴらだ!俺はまだ人生上がりたくはねえんだ!まだまだ勝負していたいんだ!って誇り高くも突っ張る年寄りの気持ちもわかろうってもんじゃないか。
そう、免許証の返納ってやつは、人生最後の周回で折り合いをつけるってことなんだ。ただ、その周回が最後かどうかは誰にも判断できない。年齢じゃない。健康じゃない。呆けの程度でもない。当人が納得する以外、上がりはない。リタイアはない。でも、車は凶器にだってなるんだから、そう、それも現実だ。じゃあどうする?
わからない。僕だってその時にゃごねるかもしれない。いつまでも、上がりを認めず現役に執着しているかもしれない。なんか、そんな予感がぷんぷんだ。人それぞれの事情がある。だから、これでどうだ!なんてスーパーアイディアを提示したりできない。ただ、言えることは、人生を上がることに対して、それなりの尊敬を払えよな、ってことだ。まかり間違っても、じいちゃん、もう歳なんだから!なんて決めつけだけはしないでほしい。そんなこたぁ、百も承知なんだぜ!って入れ歯をもぐもぐさせながらつぶやいているんだから、きっと。