ステージおきたま

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コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

コント大会でコントについて考えた!

2016-10-04 08:55:25 | コント

 うーん、何なんだろう?コントって。

 前日のリハ、当日のゲネと本番を見て笑いながら、ずっと考えてた。コントって何?きっかけは、米沢中央高校演劇部の「ピロシキ」だ。腎臓がピロシキになってしまった患者と診断を下した医者とのやり取りの笑い連打のコントだ。これ、明らかにナンセンスコント。およそあり得ない状況を設定して、その強引に捻じ曲げた現実に右往左往する有様が笑いのもとになっている。劇団「ノラ」の「診察」も、アル中の医者が待合室でピクニック参加者を探してる、なんて設定もやはりナンセンスだろう。ピロシキほどの衝撃力はないが。

 コントには程度の差はあってもナンセンスは欠かせない。常識や日常感覚が大きく裏切られることの驚きと、そのずれが引き出す滑稽さが笑いのエネルギーになっている。置農演劇部の「ババクロース」も、恐いお母さんを求めたら、母親が、うん?なんだっけ、長い髪で顔を隠した少女?になったり、ヤンキーすけ番になったりってのも、まあ、観客の予期を裏切るナンセンスだ。ナンセンスコントの場合、現実との落差が大きいほど笑いへの初発力は大きい。「ピロシキ」が成功した理由だ。ただ、あまりにもばかばかしすぎて、見る側が白けてしまう場合もあるから、設定の非常識をカバーしていく展開や会話が大切になるわけではあるが。

 一方、菜の花座の作品、つまり僕が今回書いたものは、ナンセンス度は極めて低い。

 「課長の左遷」など、世の中でごくごくありきたりの光景を描いているに過ぎない。つまり日常だ。この作品の面白さは、役職の違いで接し方がころころと変わる人間の世知辛さ、卑小さにある。誰もが見聞きし、場合によっては身に覚えもあるってお話しだ。同じく「免許返納」も高齢者と痴呆患者が互いに運転免許を返納しろと攻め合う話しで、実社会でいかにもありそうなお話しなのだ。この場合、自分だけは大丈夫と他人を責める人間の身勝手さが、笑いの源だ。どちらの作品もナンセンスとはほど遠い。しかし、コントはコント、笑いももらった。日常のやり取りの中にもよくよく見れば、コミカルな要素がたくさんあるってことなんだ。NHK「となりの志村」なんかは、この系列の見事な完成形だな。

 つまり、コントってやつは、このナンセンスの非日常性と日常の滑稽との両極の間に、笑いを探し出し、生み出しているものなんだってことだ。非日常コントと日常コントその間に多くのコントがせめぎ合っている。

 コントにはもう一つ、笑いを誘う定番があって、それは仮装や異相で笑いを取るものだ。奇抜な衣装や突き抜けたメイクが誘う滑稽感だ。今回で言うなら、見守りロボット「パッパー」や「不倫DE生ネタ」のシニアアイドルなんかがそれに当たる、かな。この流れはかなり根強いもので、古くはドジョウ掬いの割りばし鼻毛?とか、おてもやんのまんまるほっぺとか。最近の若手コントチームにもよくやってるな。

 後は、キャラで笑わせるってものもある。「不倫DE生ネタ」の天晴さんやシニアアイドル豊島なんかがそうで、

 役の個性がずぬけていると、それだけで笑いが取れる。もちろん、そんな突き抜けた役柄を演じるには役者の持ち味も重要で、こんな役者は、出てくるだけで、一言発するだけで、観客の心をがしっと掴むことができる。お笑い芸人で成功してる人たちなんかはこういった連中が多くて、ギャグそのものは大したことなくても、どこか可笑しい、笑える、なんてことになっている。あと、動きの滑稽さってやつも、笑いの要素の一つだ。有名な例ととしは、チャップリンの歩き方とか。

 コント大会を漫然と見聞きしながら、こんなことを考えていた。コントについて考えていたつもりが、いつしか笑いについての考察?なんてほどのもんじゃないが、になっていた。今回の大会について言えば、お客さんはどの要素に対してもえり好みせず笑ってくれた。いいお客さんだったよ。今日もも一度、ありがとう!

 

 

 

 

 

 

コメント
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