自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

香りを創りだす聖者

2014年12月16日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

人生の前半後半におくべき目標とは?・・・ 2014・12・16

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様々な能力をもつ聖者を訪れた話は"あるヨギの自叙伝"の中で

語られている。

若きヨガナンダ師は、友人アラカナンダから、“香りの聖者”の話を聞いだ。

その友人の言葉に興味をそそられる。


ちょうどお祭りのときだったが、僕はバードワンのガンダババの

家へ行った。

ほかにも、百人ばかりの客が家にいた。皆がこのヨギは

どんなものでも空気中から自由に引き出すことができると

いうので、僕は笑いながら、季節外れの オレンジを出して

ほしいとババに頼んだのだ。


すると、目の前のバナナの葉に置いてあったチャパティ(印度のパン)

が、みるみる一斉にぷっと膨れ上がってきた。

そのパンを手に取って、割って見た。


すると、中には皮をむいたオレンジが入っていたのだ。

恐る恐る、ぼくはその果実を口にしてみたのだが、まぎれもなく

本物の果物、オレンジだった。“

という話だ。

 

その話を聞いて、ヨガナンダ師は興味をいだき、このババを訪ねた。

そして以下の会話をした。

 

ババ: あなたは何をお望みかな?(入ってきたヨガナンダ師の顔を

見つめながら)どんな香りでも出してあげよう。

ヨガナンダ師: 何のために?

ババ: 思いのままに香りをつくる奇跡的経験のために

ヨガナンダ師: 神をそんなことに利用するのですか?

ババ: 神も香りを造っておられる

ヨガナンダ師: しかし、神は花の香りを新鮮な間味わえるよう

もろい花びらという器(うつわ)とともに御つくりになった。

聖者よ、あなたは花も作り出せるのですか?“

ババ: ええ、しかし、普通は香りだけです。

ヨガナンダ師: それでは香水会社はつぶれてしまいますね

ババ: いえいえ、人の商売の邪魔はしない。 神の力を立証

するだけだ。

ヨガナンダ師: どうして?今更?

神はいたるところで、あらゆるものに奇跡を現しているでは

ないですか

ババ: そうです。 

しかし、われわれも神の無限の創造力の一端を現すべきだ。

ヨガナンダ師: 実際、その奇跡の術を習得するのにどのくらい

かかったのですか?

ババ: 12年。

ヨガナンダ師: 香りをわざわざ霊的な方法で造るために、12年も

かけたのですか。

花やへ行けばわずか数ルピー(注・現在1ルピー2.5円)で味わえるのに。

随分無駄な話ではないですか?

ババ: 花の香りは花が枯れると死んでしまう。

ヨガナンダ師: あなたの香りも肉体の死とともに消えてしまう。

そのような肉体的感覚しか喜ばないものを、どうして私が望みましょう

ババ: あなたの話は気に入った。 祝福を与えよう。

 

こうして、好きな花の香りをプレゼントされた。


ガンダババから “何の香りが好きか?”と、聞かれ、即座に

“バラ” と答えると、

“そうなるように”と言うや否や、直接体に触れることなく、1メートル

離れて座っている、ヨガナンダ師の手のひらから強烈なバラの匂い

漂ってきた。

聖者の家からの帰宅途中 ヨガナンダ師は、姉、ウマに出会う。


彼女は そのバラの花の香りに気が付いた。

どうしたの、ムクンダ。急におしゃれになったのね。香水などつけて。

素的なバラの匂い、でも、妙にきつい香ね。” と声をかけたのだ。


この会話で、香り は第三者もわかるほどのものであり、

催眠術をかけられ、勘違いの香りがあるという意識の結果ではなく、

他人にも歴然とわかる匂いであることが立証された。


しかし この体験を回想して、ヨガナンダ師は次のような感慨を

著書に記している。

“人間が感じる視聴臭覚・味覚・触覚のいろいろの感覚的刺激は

電子と陽子の多種多様な波動によって作り出される。


この波動の変化は原子よりも一段次元の高い、プラーナと呼ばれる

精妙な生命エネルギー(これは知性を有するエネルギーでそれぞれの

感覚に相応する観念を内包している)の波動の変化に応じて

決まるのである。


ガンダ・ババは在るヨガの技法を用いて 自分自身を

このプラーナに同調させ、プラーナに直接はたらきかけて

その波動を構成しなおすことによって、

目的の物や匂いを物質化することができたのである。


したがって、彼が作り出した香りや果物や、その他の奇跡的現象は

現実の波動として実際に物質化されたもので、催眠術の場合の

施術者が単に自分の内部に作り出す波動とは異なる本物だった。“

(引用終り)

 

としたうえで

“とはいっても、香りの聖者が演じたような奇跡は、見世物としては

面白いが魂の救いを目指すうえからは何の価値もない。


それは単なる遊びであって、真剣な神の探究の道からはおよそ

外れたものなのだ。

特殊な能力をいたずらに誇示することは

真の大師たちがみな戒めておられるところである。”(引用終り)

 

ペルシャの神秘家、アプー・サイドは 奇跡的能力を自慢する回教徒の

行者に次のような言葉を残している。


“水の中に居られるからといって、蛙とどこが違うのか。

空を飛ぶことなら、からすや禿鷹もやすやすとやっている。


悪魔は東洋と西洋に同時に出没する。

まことの人間とは人と交わって常に正しさを失わず、

日常の俗事を果たしながら絶えず神を忘れない人を言う。“(引用終り)

 

第二のヴェーダと言われる、バカバッドギータ・3章4~8節には

次のような言葉がある。


“人は、一切の行為を放棄して、因果の法則から解放されようと

しても不可能だ。

また、単に世俗的生活を放棄して解脱に至ろうとするのも不可能だ。


人は己を構成する本質から発する衝動によって、行為することを

余儀なくされているから、一時たりとも、何もしない状態でいる

ことはできない。


肉体的動作を強制しても、なお感覚の対象に心を迷わせるものは

偽善者と同様だ。


しかし、心によって、感覚を制御し、一切の執着を離れて行ずる

ものははるかに優れている。

汝、与えられた義務を果たせ。行為は無行為に勝る。


人は一切の行為を放棄しようとすれば、己の肉体を維持する

こともできない。“

(引用終り)

 

行為、活動こそ、人間の本性であり、怠惰の中には人間の本性

を生かすことはできないということだろう。


そして“瞬時も神を忘れることなくその日々の行為、仕事を

実行する”ことこそ、上記ギータのいうところの、“心によって、

感覚を制御し、“与えられた義務を果たす”

ことの中枢に在る心なのだろう。


人生前半は 教育と家庭生活にその行為の中心があり、

人生後半は思索と瞑想の行為の時期だと、ヴェ―ダの中では教える。


まさに、奇跡を起こしたり、人を驚かせるヨガの術を習得する前に、

こうした“行為”の完結を目指すことが何より、人としての価値である

ことをヨガナンダ師は示唆しているような気がする。

 

 

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