あなたの神の資質をあがめます~マザーテレサの言葉
******************************* 2017・2・14
万教の万(よろず)の教えは 一つの真理に行きつくと
いう考え方で、万教帰一がわかると、二つの精神的
広がりが期待できそうだ。
一つは、異なる宗教にも寛容な心を持つことが
できること、
二つめは自分の奥の”実相”が、宗教を問わず、
神聖なる”神の資質”と同じであるということが
比較的受け入れやすくなることだろう。
自然治癒力セラピー協会で考える、自然治癒力の本源
はまさに、そこに端を発している。
自分の中の小さな自分(小我)では想像できない
ほどの、大きな癒しが存在すること。
それを可能にするのは、我々の生命力が最大のパワー
を発揮したときで、それは、自分の本源の聖なる
資質の一部が為す業なのだから、それに気が付けば
良いということだ。
そして、こうした癒しは、一般的な形而上的癒しに繋がる。
万教とはとりあえず、ここでは、世界に現在広まっている
宗教の柱、
キリスト教、仏教、ヒンズー教、ユダヤ教、シーク教、拝火教、
などなどを指す。
さて、この考え方は 意外と多くの人たちが支持している。
一つの宗教を掘り下げて行った人は
他の宗教の源泉と自分の信じていた宗教の源泉が
ちょうど隣り合った井戸が一つの源泉から流れる地下水を
くみ上げているように、同じであることに気づく。
私がこの言葉 万教帰一 を初めて知ったのが 谷口雅春師の
本からだった。
次は師の言葉である。
”本当の自由とは、自分の心が執着(しゅうちゃく)から
解放されることである==執着を「愛」と思いちがえては
ならない。
本当の「愛」は執着せず相手を自由に解放しながら、
相手が幸福になることを祈り悦(よろこ)ぶ感情である。
人は執着によって「愛」の初歩を学び、「放ちて自由に
行かしめる」ことにより愛を完成する。
執着がなくなった時、何等(なんら)の摩擦(まさつ)もない
自由が得られるのである。
(谷口雅春著『新版 女性の幸福365章』より)”
例えば、上のこの言葉。
この中には 今まで私が様々な宗教書から得た 智慧が
凝縮されている。
本当の愛、無執着で相手が幸せになるようにという
祈りに通じる。
これは、キリスト教の ”隣人を愛せよ”の愛と同質
の愛であろう。
インドに終生をささげたマザーテレサが、”死にゆく人
のための家”と呼ばれた、彼女のアシュラムで行ったこと。
それは
最期を迎えた人たちに 愛 をささげることだった。
’あなたは必要とされている人、大事な人、だれもが
見捨てたように見えても、私たち(マザーテレサ)は
あなたの神の資質をあがめます’~
こう、彼女は、臨終を迎えようとしている人の耳元で
ささやく。
そこに運ばれてくるほとんどの人が、路上で行き倒れに
なった人たちだった。
路上でうずくまり、行き倒れ、誰もが無視して行き過ぎて
いく中、マザーは彼女の家に彼らを運び入れた。
そして最期を見届けながら、その瞬間まで、愛を、たぶん、
彼らがそれまで知らなかった愛を 彼らの耳元で
精いっぱい注ぎ込んだ。
どんな人でも、その言葉によって、心は生き返る
ように、愛で洗い清められただろう。
自分の生まれてきた価値を心から認め、尊敬して
くれている人の言葉として、人生の最期に最大の忘れがたい
瞬間となっただろう。
”放ちて自由に行かしめることで愛は完成する”と師は言う。
放任主義と紙一重だが、愛するがゆえに無視ではなく
信頼のもとに子供を親が放して独立を促す。
こうして、親離れ、子離れを経て、少なくても親の愛
は完成形に近づく。
かわいい子には旅をさせよ という諺どおり、
執着を放すとは、自分に属する人、とか物とかいう
ような”所有の自我”を
潔く手放すことでもあるのだろう。
執着がなくなったとき、人は自由を得る。
これと同じ意味の言葉は、サイババ師がよく語っていた。
自由とは好きなことをしたり、奔放に感性や欲望のままに、
行動できたときをさすのではなく、
自由とは、自分の他者、他物に対しての執着をなくしたとき、
得られる満たされた実感であると・・・
だから逆説的にこうも教えた
”自由になりたければ、自分のしたいことはせずに、その反対の
ことをなせ”
万教帰一の教え通り、良き宗教の指導者たちが同じ内容
を場所と組織を異にして 真理をそれぞれの言葉で、
私たちに説いている。